旧態依然
夜明けの境目に、月守は窓辺で言った。
「今日、あなたたちは、この町の古い棚を開けることになる」
「古い棚?」
「長いあいだ、誰も開けなかった棚。開けても、誰も読まなかった棚。そういう棚には、埃と一緒に、町の沈黙が積もっている」
朝日が差し、月守が溶けて照真が立つ。照真は何も言わず、耀司の机の上の模造紙を一瞥しただけだった。
朝食の席で、父は新聞を広げながら言った。
「耀司、日曜の資料館、九時に来られるか。入れ替えは朝のうちに済ませたいんだ」
「うん。行ける」
「助かる。鏡座の展示の前のケースを入れ替えるんだ。あの写真のパネルも、一度外して掛け直す」
あの写真。最終公演の夜の、傘の列の写真。路地の入口に、三つの小さな人影が写っている写真。
父は何気なく言っただけだった。耀司は、トーストを口に運んだ。向かいの席で、慧が一瞬だけ耀司の顔を見て、すぐに目をそらした。
町立図書館の郷土資料室には、町の記録が眠っている。
十月二十八日、水曜日の放課後。耀司は、資料室のいちばん奥の書架の前に立っていた。背の高い棚に、えんじ色の布張りの綴じ込みが、年ごとにずらりと並んでいる。背表紙の金文字は、「鏡ヶ浦町教育委員会 会議録」。
「こんなのがあるの、知らなかった」
「公開の資料だからね。誰でも読めるのよ。読む人は、めったにいないけれど」
隣で、母が言った。
耀司が、教育委員会の古い記録を見たいと相談すると、母は少し驚いた顔をしてから、「課題のため? 熱心ね」と笑って、資料室の鍵を開けてくれたのだ。司書の母は、どの棚に何があるかを、ほとんど暗記していた。
「平成十年度は、これ」
母は、背伸びをして一冊を抜き出し、閲覧机に置いた。
「重いから気をつけてね。終わったら声をかけて。カウンターにいるから」
母が出ていくと、耀司は綴じ込みの表紙に手を置いた。
(お母さん、何も知らないで、私たちにこれを渡したんだね)
内側で、月代がつぶやいた。
(うん)
耀司は、黙ってページを開いた。
照真が、窓から差し込む午後の光の中に立っていた。
「旧態依然という言葉がある。古いやり方が、少しも改まらずに続いていること。この町では、二十八年前の古いやり方が、今もこの棚の中に、そのままの形で綴じられている」
「古いやり方って」
「読めば分かる」
最初に開いたのは、九月の定例会だった。
――報告事項五 旧鏡座の閉館及び町への引き渡しについて。
――九月二十七日の最終公演をもって閉館。同日二十四時をもって、建物を町に引き渡す。引き渡し前の建物点検は、事務局において実施。点検のため、管理人より裏口の鍵の複製一本を借用(九月二十日)。
――担当 事務局主事 影浦柾人。
耀司の喉が、乾いた。
芦原の貸出簿から消された、九月二十日の一行。最初の一字だけ残った「役」。その一行の中身が、町の公の記録に、そのまま打たれていた。
(消したのは、芦原さんの帳面の方だけだったんだ)
月代の声が、低く響いた。
(町の記録は、消せなかった。消したら、かえって目立つから)
「照真」
「見えている」
照真の光が、九月二十日の文字の上に落ちた。
「芦原の帳面からは消えた。だが、同じ事実が、別の帳面に残っていた。二つの記録が、別々の場所で、同じことを言っている。一致だ」
平成十年十月の定例会。議事録は、几帳面な字の和文タイプで打たれていた。
――報告事項三 町立鏡ヶ浦高等学校生徒の所在不明について。
――事務局より報告。九月二十七日以降、三年生男子生徒一名(K)の所在が確認できない。家庭の事情による家出と思われる。学校、保護者と連携し対応中。
――同生徒と金銭上のもめごとがあった同級生Nについては、保護者より、当日夕刻以降は自宅にいた旨の申し出があり、学校において確認済み。
――報道機関に対しては、未成年者保護の観点から、取材及び報道について配慮を要請済み。
――委員より、同日夜に発生した殺人事件との関連を問う質問あり。事務局より、警察からは関連は認められないと聞いている旨の回答。
――卒業記念誌の扱いについては、引き続き学校と協議する。
そして、その報告事項の末尾に、小さな字で一行。
――担当 事務局主事 影浦柾人。
耀司の指が、その一行の上で止まった。
「照真」
照真が、ページの上に光を落とした。
白い光の中で、報告事項の一つ一つが浮かび上がる。家出。同級生Nの確認。報道への配慮の要請。殺人事件との関連の否定。卒業記念誌。そして、担当者の名前。
「この一人の若い主事が、家出の処理と、同級生の確認と、新聞社への要請と、学校との協議を、すべて受け持っていた」
照真の声は、静かだった。
「戸叶のメモの『教委・K氏』。奥寺のノートの『教育委員会の若い職員』。卒業記念誌の名簿の余白。どれも、この一行の下につながっている」
(Nって、野上さん)
月代が言った。
(野上さんは、あの日の夕方、劇場の裏で久賀さんと揉めた。でも、そのあとは家にいた。それを、当時、ちゃんと確認してたんだ)
(野上さんは、自分が疑われると思って、二十八年、黙ってた。でも、本当は、とっくに確認されてたんだ)
(それを、誰も野上さんに言わなかった)
古いやり方。照真の言った意味が、少しずつ分かってきた。誰かが確かめたことを、確かめられた本人にさえ知らせず、ただ綴じ込みの中にしまっておく。表に出さず、波風を立てず、町の平穏を守る。
その平穏の中で、家出とされた少年は、二十八年、暗いところに置かれたままだった。
耀司は、ページをさらにめくった。
平成十一年二月の定例会。
――報告事項一 卒業記念誌の扱いについて。
――昨年九月より所在不明の三年生男子生徒(K)について、卒業記念誌の名簿から氏名を削除し、写真の掲載を見送ることで、学校と合意。
――担当 事務局主事 影浦柾人。
そのすぐ下に、もう一つの報告があった。
――報告事項二 町立鏡ヶ浦高等学校三年女子生徒の死亡について。
――二月十日、降雪時の交通事故により、三年生女子生徒一名が死亡。学校において全校集会を開き、交通安全指導を徹底。
――担当 事務局主事 影浦柾人。
由紀だった。
同じ月の同じ定例会で、同じ若い主事が、篤志の名前を消す報告と、由紀の死の報告を、続けて読み上げていた。
耀司は、綴じ込みを持つ手が震えるのを止められなかった。
窓の外で、日が傾き始めていた。照真の光が、赤く変わっていく。資料室の書架の影が長く伸び、その影の一つから、月守の黒い衣が立ち上がった。
「昼の番は、ここまでだ」
「夜の番を、引き受ける」
月守は、議事録の「K」の一文字に目を落とした。
「この一文字は、名前ではない。名前を消したあとに残った、穴」
月守が、Kの上に指先をかざす。
紙の上に、灰色の影の文字が浮かび上がった。卒業記念誌の余白に浮かんだ時は、最初の一字だけだった。今度は、四つの文字が、はっきりと形を結んだ。
――久賀篤志。
影の文字は、すぐに消えた。
「消された名前は、消した記録の中に、いちばん強く残る」
月守が言った。
「消した人は、その名前を、誰よりも長く見つめていたから」
耀司は、パーカーの襟元で震えるピー助を、手のひらで包んだ。今日は、フードではなく胸のポケットに入れてきていた。ピー助は、議事録の上に浮かんだ影の文字を、じっと見つめていた。
「……久賀、篤志」
小さな、かすれた声だった。ピー助自身の声なのか、中の霊の声なのか、耀司には分からなかった。
「そう呼ばれたの、二十八年ぶりだ」
ピー助は、ポケットの中で身を縮めた。羽が、細かく震えている。
「中のやつが、泣いてる。……いや、泣いてるのとは違うな。名前を呼ばれて、驚いてる。自分にも名前があったことを、忘れかけてたんだ」
月守が、ピー助の小さな頭の上に、そっと手をかざした。触れはしない。影だけを、重ねる。
「名前を呼ばれることは、還る道の始まり。あなたの中の霊も、少しだけ、暗いところから顔を上げた」
綴じ込みを返しにカウンターへ行くと、母が貸出の処理をしていた。
「見つかった?」
「うん。ありがとう」
母は、耀司の抱えた綴じ込みに目をやり、ふと手を伸ばして、開いていたページの端をめくった。担当者の名前の一行が、母の目に入った。
「あら。お父さんの名前」
母は、懐かしそうに目を細めた。
「お父さん、こんな仕事もしてたのね。若い頃は、教育委員会で何でも押しつけられて、毎晩遅くまで残業してたのよ。付き合い始めたばかりだったのに、ちっとも会えなくて」
母は笑い、綴じ込みを書架用の台車に載せた。
「町のために、一生懸命だったのね。あの人らしい」
耀司は、何も言えなかった。
内側で、月代が声を殺していた。泣かないようにしているのが、耀司には分かった。母の笑顔を、壊したくなかった。
夕暮れの帰り道、耀司は月守に聞いた。
「月守。古いやり方って、悪いことなの」
「古いやり方そのものは、悪くも善くもない。町を守ろうとする心から生まれたものもある」
月守は、暮れていく空を見上げた。
「でも、そのやり方の中に、誰か一人の都合を隠す場所ができてしまった時、古いやり方は、その一人を守る壁になる。壁は、町を守っているつもりで、本当は、暗いところに置かれた者を、外から見えなくしている」
「その壁を作ったのは、お父さん一人なの」
月代が、耀司の内側から尋ねた。
「一人で作れる壁はない」
月守は、首を振った。
「教頭も、委員も、新聞社のデスクも、学校の先生たちも、警察も。それぞれが少しずつ黙ることで、壁は高くなった。誰か一人が悪いと決めれば楽になる。でも、それでは、また同じ壁が、別の誰かのために建つ」
その夜の夕食で、母は楽しそうに言った。
「今日ね、耀司が図書館で教育委員会の古い会議録を読んでたのよ。そうしたら、あなたの名前が出てきて。担当、事務局主事、影浦柾人って」
父の箸が、止まった。
「……ずいぶん古いものを読んでいるな」
「町の百年の課題なんですって。ねえ、平成十年の会議録だったわよね、耀司」
「うん」
耀司は、味噌汁の椀に目を落としたまま答えた。父の視線が、自分の顔の上に止まっているのが分かった。眼鏡の奥の目が、何かを測るように細くなる。
「平成十年か」
父は、ゆっくりと箸を動かし始めた。
「あの年は、いろいろあった。若い主事は、何でもやらされた。家出の子の件も、劇場の引き渡しも、卒業記念誌の相談も。全部、上から言われた通りに書類を回しただけだよ」
父は笑った。けれど、その笑いは短かった。
「耀司。会議録は、事実をそのまま書いたものじゃない。会議で報告されたことを、報告された形で書いたものだ。それを読んで分かった気になるのは、危ないぞ」
「……うん。分かってる」
「ならいい」
父は、それきり何も言わなかった。母は気づかなかった。衿子も気づかなかった。慧だけが、テーブルの下で拳を握っていた。
木曜と金曜は、何事もなく過ぎた。父は毎朝いつもの時刻に家を出て、いつもの時刻に帰ってきた。ただ、夜中に居間で一人起きている時間が、少しずつ長くなっていた。
十月三十一日、土曜日。
月代は、宵宮登美から預かった封筒を、両手で胸に抱えていた。登美の家を出たあと、生け垣の角で手鏡に問い、身体を受け取っている。
「奥寺先生に、渡してほしいの」
登美は、そう言って封筒を差し出したのだ。
「ごめんなさい、の字を、仏壇に供えさせてもらった。そのお礼と、私の気持ち。うまく書けたかどうか分からないけれど」
奥寺礼子の家は、公民館の裏手の、小さな平屋だった。
呼び鈴を押すと、作務衣姿の奥寺が出てきて、少女の姿の月代を見て首をかしげた。
「どちらさま?」
「影浦耀司の、従姉です。耀司から、先生のことを聞いていて。宵宮さんのお母さんから、お手紙を預かってきました」
奥寺は、封筒を受け取ると、その場で長いこと宛名を見つめていた。
「……上がって。お茶を淹れるから」
居間の壁には、奥寺の書いた書が何枚も掛けられていた。「一期一会」「温故知新」「以心伝心」。月代は、その最後の一枚の前で、思わず足を止めた。公民館の教室で、耀司がへたな字で書いた言葉だった。
「あの日のお題ね。あの子、最初はひどい字だったけど、最後の一枚は、いい払いだった」
奥寺は、懐かしそうに目を細めた。月代は、何も言わずにうなずいた。あの払いを教えたのは自分だとは、言えなかった。
縁側に面した小さな居間で、奥寺は封筒を開け、便箋を読んだ。読み終えると、便箋を膝の上で丁寧にたたみ、しばらく庭の柿の木を見ていた。
「許すとも、許さないとも書いていなかった」
奥寺が言った。
「由紀の字を覚えていてくれる人がいて、嬉しかった、と。それだけ」
奥寺の目尻から、涙が一筋落ちた。
「それだけで、十分すぎる」
月代は、膝の上で手を握りしめていた。
(耀司。聞いてもいい?)
(うん。月代が聞いて)
月代は、そっと口を開いた。
「先生。卒業記念誌から、あの男子生徒の名前を消すって決まった時、先生はどう思いましたか」
奥寺は、目を閉じた。
「反対したわ。職員会議で、一人だけ。家出なら、いつか帰ってくるかもしれない。帰ってきた時に、自分の名前のない卒業記念誌を見たら、あの子はどう思うか、って」
「でも、通らなかった」
「教頭先生は、教育委員会がそう言っているから、と。教育委員会の若い主事さんが、何度も学校に足を運んで、丁寧に説明してくださった。町の平穏のため、残された生徒たちのため、家出をした子の家族のため。誰のためにもなる、正しい判断だと。私は、それ以上何も言えなかった。昔から、この町はそうなの。上が決めたことに、下は黙って従う。それが、波風を立てない、大人のやり方だと」
奥寺は、膝の上の便箋を見下ろした。
「旧態依然。私も、その古いやり方の一部だった。自分のノートにだけ、反対したと書いて、それで済ませた」
月代は、奥寺のノートの余白の一行を思い出していた。私は、あの子を見捨てた。奥寺が見捨てたと書いたのは、由紀のことだけではなかったのかもしれない。
「先生は、見捨てていません」
月代は、言葉を選びながら言った。
「先生のノートがあったから、私たちはここまで来られました。名刺の穴も、相談の日付も、全部、先生が書いておいてくれたから」
奥寺は、驚いたように月代を見た。
「あなた……」
「同級生の野上さんのことも、先生は知っていたんですよね。あの日、夕方に久賀さんと揉めたけれど、そのあとは家にいたって、学校で確認していた」
「ええ。野上くんのご両親が、学校に来て話していかれたの。野上くんには、学校から何も言わなかった。言わない方がいい、蒸し返さない方がいい、という話になって」
「野上さんは、自分が疑われていると思って、二十八年、黙っていました」
奥寺は、口元を手で覆った。
「……そう。そうだったの。また、私たちは、黙ることで誰かを苦しめていたのね」
月代は、何も言わなかった。言わなくても、奥寺には伝わっていた。
しばらくして、奥寺は、庭の柿の木に目を戻した。
「その主事さんのことで、一つだけ、ずっと覚えていることがあるの」
「はい」
「由紀さんのお葬式に、あの方もいらしていた。教育委員会を代表して、ということだったけれど。焼香の列で、あの方は、誰よりも長く頭を下げていた。顔を上げた時、目が真っ赤だった。私は、教育委員会の人なのに、ずいぶん優しい人だと思った」
月代の指が、膝の上で冷たくなった。
「優しい人だったのよ。少なくとも、私の目には」
奥寺は、それ以上何も言わなかった。月代も、聞かなかった。優しい人。誰よりも長く頭を下げた人。その人が、同じ月の定例会で、篤志の名前を消す報告を読み上げていた。
帰り際、奥寺は玄関で月代に言った。
「野上くんに、伝えてあげて。あなたは、とっくに疑われていなかったって。二十八年遅れて、ごめんなさいって」
「はい。必ず」
生け垣の角で、月代は空を見上げた。照真の光が、秋の午後の空いっぱいに広がっていた。
「照真。野上さんと、奥寺先生」
「ああ。二人とも、殺人とは関わりがない。記録と証言が、それをはっきり示した」
照真は、月代の顔を見下ろした。
「疑いが晴れたことは、記録しておけ。人を疑う時と同じだけの重さで、疑いが晴れたことも書き残す。それが、古いやり方を改めるということだ」
その日の夕方、月代は耀司に身体を返し、耀司は野上モータースに電話をかけた。奥寺の言葉をそのまま伝えると、電話の向こうで、野上はしばらく黙り込んだ。やがて、工場の機械の音の向こうから、くぐもった声が返ってきた。
「……そうか。そうだったのか」
それから、小さく鼻をすする音がした。
「娘に、今日は早く帰るって言ってくる」
電話が切れた。
その夜、日が沈むと、月守の力で、月代が耀司の影から立ち上がった。
机の上の模造紙には、新しい書き込みが増えていた。教育委員会の議事録。担当、事務局主事、影浦柾人。平成十年十月。平成十一年二月。
そして、線の下の余白に、二人で書き足した。
――野上達也、疑いなし。平成十年十月、学校で確認済み。
――奥寺礼子、疑いなし。名前の削除に反対していた。
「明日、資料館だね」
月代が言った。
「お父さんと、展示の入れ替え」
「うん」
耀司は、模造紙の上の父の名前を見つめた。何度見ても、その名前は、事務的な小さな字で、そこに印刷されているだけだった。町のために働いた若い主事の名前。家出の処理をし、新聞社に頼みごとをし、学校と協議し、少年の名前を名簿から消した担当者の名前。
「あの議事録は、お父さんが犯人だっていう証拠じゃない」
耀司が言った。
「うん」
「お父さんが、全部の記録に手が届く場所にいたっていう、証拠なだけだ」
「うん」
「それで、十分に怖い」
月代は、何も言わずに、耀司の肩に自分の肩を寄せた。
扉が叩かれた。返事を待ってから、扉が開いた。慧だった。手に、小さな白い紙袋を提げている。
「ほら」
慧は、紙袋を机の上に置いた。中には、いちご大福が二つ入っていた。
「駅前の和菓子屋で、最後の二つだった。月代の分」
(慧兄さん)
月代の声が、震えていた。
「月代が、ありがとうって」
「二つとも月代の分だぞ。耀司は胸焼けしても我慢しろ」
「ひどい」
「ひどくない。おまえ、月代に十六年分、借りがあるだろ」
慧は、それだけ言って扉を閉めかけた。それから、模造紙の方を見ないようにしたまま、背中で言った。
「明日、資料館だろ。……気をつけろよ」
扉が閉まった。
月代は、霊体のまま、紙袋の中のいちご大福を長いこと見つめていた。触れられない手で、紙袋の縁をなぞるように指を動かした。
「あとで、身体を代わって、一つ食べる」
「僕、胸焼けするんだけど」
「我慢して。慧兄さんが、そう言ったから」
二人は、少しだけ笑った。久しぶりに笑った気がした。
鳥かごの中で、ピー助がゆっくりと顔を上げた。目の奥は、赤く濁ってはいなかった。いつもの、小さな黒い目だった。
「明日、俺も連れていけ」
「資料館に?」
「あの写真の前に、もう一回立ちたい。中のやつが、そう言ってる。……いや、違うな」
ピー助は、首の十字架を嘴で挟んだ。
「俺が、そうしたいんだ」
耀司は、うなずいた。
「一緒に行こう、ピー助」
「ああ」
月守が、窓辺で静かに言った。
「明日の朝、境目が来る。照真とわたしが並ぶ、ほんのわずかな時間。その時に、十字架の裏を読みなさい。資料館へ行く前に」
二人は、鳥かごの中の小さな銀の十字架を見つめた。夜が、ゆっくりと更けていった。
(第12話 了)




