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影鏡のふたり  作者: 揮奨尋規


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13/20

天網恢恢

十一月一日、日曜日。夜明けまで、あと十分。

 耀司は、窓辺の鳥かごの前に正座していた。扉は開けてある。ピー助は止まり木から降り、かごの床の上で、首の十字架を差し出すように胸を張っていた。

「いいのか、ピー助」

「何度も聞くな。俺が決めたんだ」

 窓の外の東の空が、群青から灰色へ、灰色から淡い橙へと変わり始めていた。部屋の隅の暗がりで、月守の輪郭が、夜の名残を惜しむように揺れている。

「境目が来る」

 月守が言った。

「照真とわたしが並ぶのは、ほんの一、二分。その間に、光と影を同時に当てる。照真の光が刻まれた溝の底を照らし、わたしの影が溝の縁に形を与える。片方だけでは、すり減った文字は読めない」

「陽影照合」

 耀司がつぶやくと、月守は小さくうなずいた。

「そう。光と影を重ねて、すり減ったものを照らし合わせる。わたしたちが二人そろわなければ、使えない」

 山の端が燃え、最初の陽光が窓から差し込んだ。床の上で光が人の形を結び、照真が現れる。月守の輪郭は、まだ消えていない。夜と朝のあわいの、ほんの一瞬。

「始めるぞ」

 照真が、ピー助の首元に手をかざした。白金の光が、小指の爪ほどの銀の十字架を包む。

 同時に、月守が反対側から手をかざした。十字架の影が、床の上に落ちる。光に照らされた影が、ゆっくりと大きく伸びていく。人の手のひらほどに。それから、本を開いたほどに。

 影の十字架の真ん中に、刻まれた文字が浮かび上がった。

 すり減った溝の底を照真の光が満たし、溝の縁を月守の影がなぞる。消えかけた線が、一本ずつ、形を取り戻していく。

 ――M.K.

 ――1998.8.30

 最初の一文字と、最後の数字。宝飾店の注文控えで、水のしみににじんでいた二つの文字が、影の中で、はっきりと読めた。

 耀司は、息をすることを忘れていた。

(M.K.)

 内側で、月代がささやいた。

(柾人。影浦柾人。八月三十日)

 影の文字は、そこまでだった。照真の光が強くなり、月守の輪郭が朝日に溶けていく。影の十字架は縮み、もとの小さな影に戻った。

「読めたか」

 照真が言った。

「……読めた」

「では、言っておく。この刻印は、同じ文字が刻まれた十字架が世界にこれ一つだと証明するものではない。だが、宝飾店の控えには、注文者は宵宮、受け取りは八月二十九日、刻印は『□.K.』と『8.3□』とあった。今、欠けていた二文字が埋まった。由紀のノートの破られたページには、お誕生日おめでとう、喜んでくれた、とあった」

 照真は、窓の外の朝日を見た。

「天網恢恢、疎にして漏らさず。天の網は目が粗いように見えて、決して悪を取り逃がさない。だが、網を編むのは天ではない。一つ一つの記録だ。今朝、その網の目が、一つ閉じた」

 ピー助は、かごの床の上で、ぐったりと身体を伏せていた。

「……知ってたよ。中のやつは、最初から知ってた」

 かすれた声だった。

「でも、おまえらが自分で読むまで、俺は言わないって決めてた。中のやつの言うことを、そのまま信じさせたくなかったから」


 霊体の月代は、窓辺に立ったまま、昇っていく朝日を見つめていた。照真の光の中で、輪郭が薄れかけている。

「由紀は、小銭を数えて、あの十字架を買った」

 月代が、小さく言った。

「お兄さんみたいな人に。守ってくれるって約束してくれた人に。お父さんは、それを首にかけて、あの夜、路地へ行った」

「月代」

「大丈夫。泣かない。今日は、泣かない」

 月代は、耀司の影の中へ戻っていった。戻ってきた月代の意識は、冷たく、まっすぐだった。

 階段を下りると、廊下の先で、慧が洗面所から顔を出した。歯ブラシをくわえたまま、耀司の顔を見て、何も言わずに小さくうなずいた。行ってこい、という意味だと分かった。

 朝食の席で、父は「九時に資料館だぞ」と言った。いつもと変わらない声だった。

 耀司は、うなずくことしかできなかった。

 フードの中にピー助を入れようとすると、ピー助は首を振り、パーカーの胸ポケットに自分から潜り込んだ。

「今日は、ここがいい。あの写真が、ちゃんと見える」

 九時前、資料館の通用口で、父が待っていた。休館日の朝で、館内には職員が二人いるだけだった。

「よく来たな。軍手はそこにある」

 父は、作業着の袖をまくっていた。展示室の照明が半分だけ点けられ、薄暗い室内に、ガラスケースが並んでいる。

 鏡座の展示の前で、父は足を止めた。

 最終公演の夜の、傘の列の白黒写真。情報提供のお願いのパネル。その横の、劇場の座席。

「まず、このパネルを外す。父さんが上を持つから、おまえは下を支えてくれ」

 二人で、写真のパネルを壁から外した。思ったよりも重かった。父と耀司は、パネルを作業台の上に、そっと寝かせた。

 父は、しばらく写真を見下ろしていた。

 路地の入口の、小さな三つの人影。

「……この写真、展示しない方がよかったかもしれないな」

 父が、ぽつりと言った。

「どうして」

「古い事件のことを思い出して、辛くなる人もいる。宵宮さんの奥さんとか」

 父は、写真から目を離さなかった。眼鏡の奥の目が、路地の入口の三つの影の上で止まっていた。

 照真が、作業台の脇に立っていた。

(照真)

 耀司は、心の中で呼んだ。

(何も言うな。今は、見ていろ)

 照真の声が、静かに返った。

(月代。前の世の影を、見せてやれ)

 展示室の奥の、照明の届かない一角。ガラスケースの影の中に、月守の声がにじんだ。昼の光の中で、月守はそこでしか声を保てない。

(月代を、出しましょう。耀司の影から、写真のすぐそばへ)

 照真の手が耀司の背に触れ、影の中から、霊体の月代が立ち上がった。父には見えない。月代は作業台の上の写真の前に立ち、路地の入口の、三つの人影の一つを、そっと見下ろした。

 茉莉。

 月代の目が、写真の中の小さな影と重なる。その瞬間、月代の意識に、色のある雨の夜が流れ込んだ。

 ――篤志くん。由紀に近づかないで。あの子、もう、あなたとは会いたくないって。

 ――お姉さんが、わざわざ帰ってきて、それを言いに来たの? はは、優しいね。

 ――笑わないで。

 ――じゃあ、これ、読んでみる? 由紀からの手紙。別れたいって。でも、俺は別れない。今夜、それを話しに、ここで人と会うんだ。

 ――人?

 ――由紀の、頼もしいお兄ちゃん。

 路地の奥から、傘を差した人影が近づいてくる。雨の中で、傘の縁から顔が見えない。けれど、傘を持つ手首に、細い銀の鎖が光っていた。違う。手首ではない。首だ。屈んだ時に、襟元からこぼれた、小さな十字架。

 記憶は、そこで途切れた。

 月代は、写真の前で両手を胸に当てていた。霊体の輪郭が、激しく震えている。

(耀司)

(見えた。全部、伝わってきた)

(月守が言ってた。鏡の中の記憶は、証拠じゃない。でも)

(うん。でも、今朝の刻印と、同じことを言ってる)

 父が、顔を上げた。

「耀司。どうした、顔色が悪いぞ」

「……何でもない。ちょっと、重かったから」

「無理するな。少し休め」

 父は、写真のパネルの埃を、柔らかい布で丁寧に拭い始めた。路地の入口の三つの人影の上を、布が何度も行き来した。


 月代が影の中へ戻ると、胸ポケットの中で、ピー助がもぞもぞと動いた。

「見たか」

「見た。月代が」

「中のやつも、見てた。……あいつ、あの夜の茉莉って女のことは、怒ってねえんだ。笑ったのは、自分の方だって、分かってる」

 ピー助の声は、かすれていた。

「分かってるのに、二十八年、暗いところで、誰かのせいにしてなきゃ、いられなかったんだ」

 耀司は、胸ポケットの上から、そっと手を当てた。

 十時過ぎ、通用口の扉が開いた。

「花ごよみです。入口の花の入れ替えに」

 柴崎春江だった。エプロン姿で、秋桜と竜胆を挿したバケツを両手に提げている。毎週日曜の朝、企画展の入口の花を入れ替えているのだという。

 春江は、展示室の入口で足を止めた。

 作業台の前に、父がいた。

 春江の手から、バケツが滑り落ちた。床に水が広がり、秋桜が散らばった。

「柴崎さん、大丈夫ですか」

 父が駆け寄り、散らばった花を拾い集め始めた。春江は動けなかった。父の背中を見下ろしたまま、真っ青な顔で立ち尽くしていた。

「……すみません。手が、滑って」

「いえいえ。年を取ると、そういうこともありますよ」

 父は、拾い集めた花をバケツに戻し、春江に手渡した。いつもの、穏やかな笑顔で。

「毎週、ありがとうございます。おかげで、入口が華やかで」

「……いえ」

 春江は、バケツを受け取ると、逃げるように入口の方へ戻っていった。

(耀司、追って)

(うん)

 耀司は「トイレに行ってくる」と言って、展示室を出た。

 春江は、資料館の入口の花の段の前で、肩を震わせていた。秋桜を一本ずつ挿し直す指が、止まりがちだった。

「柴崎さん」

 耀司が声をかけると、春江はびくりと振り返った。

「あなた……あの女の子の、従弟の」

「はい」

 春江は、耀司の顔をじっと見た。それから、展示室の方を振り返った。

「あの人の、息子さんなの」

「はい」

 春江は、長いこと黙っていた。それから、秋桜の束を胸に抱えるようにして、小さく言った。

「電話をかけたのは、私」

 耀司は、何も言わなかった。待った。

「二十八年前の九月二十九日の夜。新聞社に。店の戸口の鈴が鳴ったのは、私が受話器を持ったまま、表の戸を閉めに行ったから」

 春江は、花の段の縁に手をついた。

「あの夜、店じまいをしていたら、路地の入口に、茉莉ちゃんと、男の人と、高校生の男の子が立っているのが見えた。茉莉ちゃんは怒っていて、男の子は笑っていた。そこへ、傘を差した若い男の人が来た。顔は見えなかった。私は、何だか嫌な感じがして、店の明かりを消して、奥に引っ込んだの」

「それから」

「次の日の朝、茉莉ちゃんたちが見つかったって聞いた。それで、怖くなって、新聞社に電話した。名前を言えなかった。それから半年、店を閉めた」

 春江の声が、震えた。

「次の年の九月の初めに、電話がかかってきた。白い菊を、毎年九月二十八日に、倉庫街の三番倉庫の前に置いてほしいって。名前を言わない、男の人の声。……私、その声を、知っていた」

「誰の声ですか」

「事件の次の日の朝、うちの店に、白い菊を一束だけ買いに来た若い人がいたの。靴が泥だらけで、目が真っ赤で。役場の名札を、背広の胸につけたままだった。影浦、と書いてあった」

 春江は、顔を覆った。

「お客さんの秘密は、守るのが花屋の決まり。それに、怖かった。役場の人だもの。あの人が何をしたのか、私は知らない。知らないふりをして、二十八年、毎年、白い菊を届けた。届けるたびに、あの夜の路地を思い出した」

 耀司は、春江の震える背中に、何も言えなかった。

 照真が、入口の花の段の脇に立っていた。

「この女は、見たものと見なかったものを、正直に分けて話している」

 照真が言った。

「顔は見ていない。何をしたかは知らない。だが、事件の翌朝に白菊を買った男の名札と、二十八年の電話の声は、確かに覚えている。花屋の店主は、何も隠していなかったわけではない。だが、罪を隠したのではない。恐れを隠しただけだ。この女の疑いは、ここで晴れる」


 展示室に戻ると、戸叶がいた。

 首からカメラを提げ、企画展の延長の記事のために、展示の入れ替えを撮りに来たのだという。父と戸叶は、作業台を挟んで向かい合っていた。

「影浦さん。いい写真が撮れそうだ。そのパネル、掛け直すところを一枚」

「どうぞ」

 父は、穏やかに答えた。戸叶の目は、笑っていなかった。

 耀司が作業台に近づくと、戸叶は、カメラを構えたまま、耀司にだけ聞こえる声で言った。

「花屋の婆さんの顔、見たか」

「……はい」

「俺は二十八年前、あの電話を裏が取れないと言って見送った。デスクに止められたのも、教育委員会に睨まれたのも本当だ。だが、本当は、俺が怖かったんだ。若い記者が、町の役場に逆らうのが」

 戸叶は、シャッターを切った。

「それも、もう終わりにする」

 照真が、戸叶の背中を見ていた。

「この男もまた、書かなかったことを恥じている。だが、白紙のページを捨てずに持ち続けた。それは隠蔽ではない。待っていたのだ。書ける日を」

 父と耀司は、写真のパネルを持ち上げ、壁に掛け直した。

 その時だった。

 耀司の胸ポケットから、白い影が飛び出した。

 ピー助は、掛け直したばかりのパネルの上縁に止まった。路地の入口の三つの人影の、ちょうど真上。首の十字架が、展示室の薄暗い照明の中で、小さく光った。

 ピー助の目の奥が、赤く濁っていた。

「返しに来たぞ」

 年上の、乾いた声だった。耀司にしか聞こえない。けれど、父は、パネルの上の文鳥を見上げて、凍りついていた。

「おまえが、あの夜、俺の手の中に落としていったものだ。二十八年、暗いところで、ずっと握ってた。返しに来た。おまえの首に、返しに来た」

 ピー助は、首を振った。銀の鎖が揺れ、十字架が、父の目の前で振り子のように揺れた。

 父は、動かなかった。

 ひと言も、言わなかった。

 ただ、眼鏡の奥の目が、写真の中の小さな三つの人影と、パネルの上の文鳥と、その首の十字架とを、ゆっくりと行き来していた。

 戸叶が、カメラを下ろした。春江が、入口の陰からこちらを見ていた。

 赤い濁りが、ピー助の目から引いていった。ピー助は、パネルの縁から耀司の肩へ舞い降り、震えながら耀司の首筋に身を寄せた。

「……悪い。止められなかった。中のやつが、どうしても」

 耀司は、ピー助を手のひらで包んだ。

「いいよ。ピー助」


 入れ替えの作業は、十一時過ぎに終わった。

 戸叶は先に帰り、春江も帰った。職員が昼休みに出て、展示室には父と耀司だけが残った。

 父は、掛け直された写真の前に立っていた。背中を耀司に向けたまま。

「耀司」

「……うん」

「その鳥を、どこかへやりなさい」

 父の声は、静かだった。穏やかで、優しくさえあった。

「今夜中に。あれは、もう歳だ。家で看取るのは、衿子が辛いだろう。どこか、ちゃんとした施設に預けよう。父さんが、探しておく」

 耀司の手の中で、ピー助が身を固くした。

「父さん」

「それと」

 父は、振り返らなかった。

「おまえが何を調べているのか、父さんは聞かない。聞かないから、おまえも、母さんや衿子には何も言うな。家族を、大事にしなさい」

 照真の光が、展示室の窓から差し込んでいた。月守の声が、ガラスケースの影の奥で、かすかに震えていた。

 耀司は、父の背中を見つめた。毎朝新聞を広げ、母の皿を受け取り、パンの端までバターを伸ばす背中。自転車の荷台を、慧が気づかないうちに離した背中。

 その背中が、今、写真の中の三つの影の前で、ほんの少しだけ、丸くなっていた。

「……父さん」

 耀司は、もう一度呼んだ。

 父は、答えなかった。

 天の網は、目が粗いように見えて、決して取り逃がさない。けれど、網に絡め取られていく人の背中が、こんなにも小さく見えるとは、耀司は思っていなかった。


 夕食の席で、父は箸を置いてから、何気ない調子で切り出した。

「ピー助のことなんだが。最近、様子がおかしいだろう。もう十三年だ。年寄りの鳥を、素人が家で世話するのは限界があると思う。鳥の専門の施設に預けたらどうかと思ってね」

 衿子の手が、止まった。

「嫌」

 短い、強い声だった。

「ピー助は、私が拾ったの。最後まで、私がうちで面倒を見る。病院の先生も、どこも悪くないって言ってた」

「衿子、お父さんは、おまえのことを考えて」

「考えてくれるなら、ピー助を取り上げないで」

 衿子の目に、涙がにじんでいた。衿子がこんなふうに父に逆らうのを、耀司は初めて見た。母が、困ったように二人の顔を見比べている。

「親父」

 慧が、静かに口を開いた。

「ピー助は、姉貴の鳥だ。姉貴が嫌だって言うなら、それでいいだろ」

 父は、慧の顔を見た。慧は、目をそらさなかった。

 長い沈黙のあと、父は小さく息を吐いた。

「……そうか。そうだな。悪かった、衿子。忘れてくれ」

 父は箸を取り直し、何事もなかったように食事を続けた。衿子は涙を拭き、母は「よかったわね」と笑った。慧は、テーブルの下で、耀司の足を軽く蹴った。

 耀司は、胸ポケットの中の小さな温もりを、そっと手のひらで押さえた。


 その夜、耀司は手鏡に問いかけた。

「自分は誰?」

「自分は誰?」

「――自分は、月代」

 少女の身体になった月代は、鳥かごを机の上に移し、その横に椅子を寄せた。今夜は、ピー助のそばを離れたくなかった。父が、いつ扉を開けるか分からない。

「月守。二人で話したい」

 窓辺の月守が、月代の背に手を当てた。月代の影から、霊体の耀司が立ち上がる。二人は、鳥かごを挟んで向かい合った。

「お父さん、ピー助を遠ざけようとした」

 月代が言った。

「十字架を見たから。写真の前で、中の声が、返しに来たって言ったから」

「父さんには、ピー助の言葉は聞こえないはずだよ」

「言葉は聞こえなくても、分かったんだと思う。あの十字架が何なのか。誰の首にかかっていたのか」

 耀司は、うなずいた。

 今朝の刻印。宝飾店の控え。由紀のノート。花屋の春江が見た、翌朝の名札。毎年の白菊の電話の声。会議録の担当者の名前。複製の鍵。宿直の夜のタクシー。

 一つ一つは、まだ網の目の一つにすぎない。けれど、網はもう、ほとんど閉じかけていた。

「でも、まだ足りない」

 耀司が言った。

「父さんが、久賀さんと会っていた。十字架を、あの夜なくした。三番倉庫に、毎年白菊を届けさせている。そこまでは、記録と証言で言える。でも、父さんが三人を殺したっていうことは、まだ、どこにも書かれていない」

「うん」

 月代は、鳥かごの中のピー助を見た。ピー助は、止まり木の上で目を閉じていた。今度は、寝たふりではなかった。今日一日で、ひどく疲れたのだ。

「照真が言ってた。網を編むのは、天じゃない。一つ一つの記録だって」

「うん。だから、最後の一つを、ちゃんと見つけないと」

 月守が、窓辺から静かに言った。

「網が閉じかける時、網の中のものは、いちばん激しく暴れる。逃げ道を探して、網の目を噛み切ろうとする。気をつけなさい。あなたたちが集めた記録の、どれか一つが、明日には消えているかもしれない」

 その言葉が終わらないうちに、階下で電話が鳴った。

 夜の十一時を過ぎていた。母が出て、二階へ声をかけてくる。

「耀司、新聞社の戸叶さんから。こんな時間にって、謝ってらしたけど」

 月代は急いで手鏡に問いかけ、身体を耀司に返した。階段を駆け下りて、受話器を取る。

「すまん、こんな夜中に」

 戸叶の声が、かすれていた。

「今夜、社に戻って、取材メモの原本を確かめようとした。机の引き出しに、鍵をかけてしまってあった。……ないんだ。ノートが、丸ごと」

 耀司の手の中で、受話器が冷たくなった。

「引き出しの鍵は、壊されていなかった。社の通用口の鍵も。誰が、いつ持ち出したのか、分からん。今日の昼、資料館から戻った時には、確かにあった。そのあと、俺は夕方まで社を空けていた」

 電話の向こうで、戸叶が長く息を吐いた。

「コピーは、君に渡した九月二十九日のページだけだ。十月八日の、教委・K氏の一行は、原本にしかない」

 受話器を置いても、耀司はしばらく動けなかった。

 内側で、月代が息を詰めていた。

(今日の午後、お父さん、どこにいた?)

(昼過ぎに、資料館から一度帰ってきて……そのあと、散歩してくるって出かけた。夕飯の少し前に戻ってきた)

(どこへ散歩に行ったのか、誰も聞かなかった)

 居間の方から、テレビの音と、父の穏やかな笑い声が聞こえていた。窓の外の月が、雲の向こうに隠れていった。


(第13話 了)


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