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影鏡のふたり  作者: 揮奨尋規


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14/20

起死回生

「振り出しに戻った、とは思わん」

 受話器の向こうで、戸叶が言った。

 十一月二日、月曜日の夜。昨夜の電話から丸一日、戸叶は社じゅうをひっくり返して、消えた取材メモを探していたのだという。

「ノートは見つからなかった。だが、一つだけ、分かったことがある。昨日の午後、俺が資料館から戻る前に、来客が一人あった。受付の菅沼が覚えていた」

 耀司は、受話器を握る手に力を込めた。

「影浦さんだ。企画展の記事のゲラに、直しを入れに来た。俺がいなかったから、編集長室で十分ほど待っていた。菅沼がお茶を出しに行った時、影浦さんは、俺の机の前に立っていたそうだ」

「……鍵は」

「引き出しの鍵は、机の上の湯呑みの下に置いてあった。二十八年、ずっとそこだ。社の者なら、誰でも知ってる。俺が不用心だった」

 戸叶は、短く笑った。笑い声に力がなかった。

「だが、待っていた、という事実と、ノートが消えた、という事実の間には、まだ何もない。影浦さんがノートを持ち出したところを見た者は、いない」

「はい」

「明日、文化の日だな。社に来られるか。菅沼が、君に見せたいものがあると言ってる」

 電話を切ったあと、耀司は今日一日の父の様子を思い返した。

 朝の食卓で、父はいつも通り新聞を読み、母の皿を受け取った。ピー助の話は、一度も出なかった。昨夜の夕食で衿子に拒まれたことなど、なかったかのように。出かける前に、父は玄関で耀司に言った。

「昨日は助かった。展示、いい具合になったよ」

 穏やかな声だった。ひびの入っていない新しい眼鏡の奥で、目だけが、耀司の顔を長く見ていた。

(お父さん、何もなかったことにしようとしてる)

 月代が言った。

(それとも、何もなかったことに、できると思ってる)

 電話を切ると、居間の窓辺で、衿子が鳥かごの前にしゃがんでいた。昨日の夕食のあとから、衿子はピー助のかごを自分の部屋に移していた。誰にも取り上げさせない、と言って。今は、寝る前に水を替えに来たのだ。

「おやすみ、ピー助」

 衿子が指を差し出すと、ピー助は、迷うように首を傾けてから、その指先に嘴をそっと当てた。噛まなかった。触れただけだった。

「あ」

 衿子が、目を丸くした。

「今、触ってくれた。久しぶり」

 衿子は嬉しそうに笑い、鳥かごを抱えて二階へ上がっていった。

(中のやつが、今は静かなんだね)

 内側で、月代がつぶやいた。

(昨日、写真の前で、あれだけ叫んだから)

 階段の途中で、衿子の腕の中のかごから、ピー助が一度だけ、耀司の方を振り返った。


 十一月三日、文化の日。夜明けの境目に、月守と照真が並んで立った。

「今日は、二手に分かれなさい」

 月守が言った。

「失われたものは、一つの場所からではなく、二つの場所から取り戻す。片方だけでは、また消される」

「二手って」

「耀司は新聞社へ。月代は、奥寺先生のところへ」

 照真が、朝日の中から言った。

「わたしは、耀司につく。月代には、月守の影を残していく。昼の光の中でも、閉じた部屋の暗がりなら、月守の声は届く」

 耀司は、手鏡を見つめた。身体は一つ。行ける場所も一つ。

「どうやって、二手に」

「月影同座。月代の霊体を、耀司の影から切り離して、遠くまで歩かせる。長くはもたない。遠く離れるほど、輪郭が薄くなる。新聞社から奥寺の家までは、歩いて十五分。その距離が、限界だ」

(行ける)

 月代が、迷わず言った。

(奥寺先生のところなら、私が行く。先生の言葉は、私が聞きたい)

 朝食のあと、耀司は新聞社へ向かった。駅前通りの角で、照真が耀司の背に手を当てる。影の中から月代が立ち上がり、一度だけ耀司と目を合わせると、公民館の方角へ歩き出した。霊体の月代の姿は、通りを行き交う人々には見えない。少しずつ遠ざかっていく背中が、陽光の中で淡く揺れていた。

(声は、届く?)

(届いてる。距離が離れるほど、遠く聞こえる。でも、届いてる)


 鏡ヶ浦新報の受付には、戸叶の姿はなかった。

「編集長、急に出かけちゃったの。耀司くんが来たら、資料室に通しておいてくれって。私に、例のものを見せてやれって」

 菅沼は、そう言って耀司を二階へ案内した。

 鏡ヶ浦新報の二階の資料室で、菅沼がノートパソコンを開いて待っていた。

「去年から、社の古い資料をデジタル化してるの。新聞の綴じ込みだけじゃなくて、記者の取材日報も。紙が傷んでるから、スキャンして保存しておこうって」

「取材日報……」

「記者が毎日、その日に何を取材したか、誰に会ったか、短く書いてデスクに出す日報。メモとは別に。編集長の平成十年の分も、全部スキャンしてある」

 菅沼は、画面に一枚の画像を映し出した。黄ばんだ紙の上に、戸叶の乱暴な字が並んでいる。

 ――平成十年十月八日。教育委員会事務局。家出生徒の件で取材申し込み。事務局主事・影浦柾人氏より、未成年者保護のため報道を控えるよう要請。取材拒否。

 耀司は、画面に顔を近づけた。

 取材メモの原本には「教委・K氏」としか書かれていなかった。けれど、デスクに出すための日報には、正式な肩書きと、フルネームが書かれていた。

 照真が、画面の上に光を落とした。

「ノートに書いたのは、記者が自分のために書いた略記だ。日報に書いたのは、上に出すための正式な記録だ。同じ日の同じ出来事を、同じ男が、二通りに書いていた。片方が消されても、もう片方が残る」

「編集長、自分の日報のことなんか、すっかり忘れてたみたい」

 菅沼が、少し得意げに言った。

「スキャンしたのは私だから。誰がノートを持っていっても、これは消せない。クラウドに、三か所保存してあるもの」

 菅沼は、画面をスクロールしながら続けた。

「最初は、誰も喜んでくれなかったの。こんな古い紙、誰が読むんだって。編集長にも、物好きだなって笑われた。でも、紙は燃えたら終わりだし、湿気でもすぐ駄目になる。誰かが読みたくなった時に、読めないのは悲しいでしょう」

 照真が、菅沼の背中を見ていた。

「記録を残す者は、たいてい笑われる。だが、天の網を編むのは、こういう者たちだ」

 耀司は、画面の文字を、自分のノートに一字ずつ書き写した。書き写しながら、指先が震えた。

「菅沼さん。昨日、影浦……父が来た時のこと、もう一度教えてもらえますか」

 菅沼は、少し気まずそうな顔をした。

「お父さん、なのよね。編集長から聞いた。……二時過ぎに来て、ゲラの直しを持ってきたって。編集長がいなかったから、編集長室で待ってもらったの。お茶を出しに行ったら、机の前に立って、窓の外を見てた。それだけ。十分くらいで、また来ますって言って帰った。手には、来た時と同じ封筒しか持ってなかった、と思う」

「封筒」

「ゲラを入れてきた、大きな茶封筒。A4の。……ノートなら、入るわね」

 菅沼は、自分の言葉に驚いたように口元を押さえた。


 同じころ、公民館の裏手の小さな平屋で、霊体の月代は、奥寺礼子の居間の隅に立っていた。

 奥寺には、月代の姿は見えない。月代は、ただ、奥寺が一人で書道の手本を書くのを見ていた。昼の光が差し込む居間の、柿の木の影の落ちる一角に、月守の声がにじんでいた。

(あの人のノートの、名刺の穴。それを、もう一度見て)

 月代は、奥寺の机の上の古い大学ノートに目を落とした。「平成十年度 三年三組」。昨日、月代の姿で手紙を届けた時、奥寺は、このノートをずっと手元に置いていた。

 ちょうどその時、玄関の呼び鈴が鳴った。

 奥寺が出ていくと、玄関から、聞き覚えのある声がした。

「奥寺先生。突然すみません。鏡ヶ浦新報の戸叶です」

 月代は、息をのんだ。

 戸叶は、耀司が新聞社へ向かったのと入れ違いに、奥寺の家を訪ねてきたのだ。耀司が今朝、電話で奥寺のノートの名刺の穴のことを話した。それを聞いた戸叶は、自分で確かめに来たのだった。

 居間に通された戸叶は、奥寺のノートの十月七日のページを見て、長いこと黙っていた。

「先生。このノートを、二十八年の間に、誰かに貸したことはありますか」

 奥寺は、眉を寄せた。

「貸した……そうね。一度だけ。平成十一年の一月だったと思う。教育委員会の若い主事さんが学校に来て、卒業記念誌の協議のために、Kくんについての先生方の記録を見せてほしいって。私のノートも、一晩だけ貸したの。翌日、丁寧なお礼の言葉と一緒に返ってきた」

「その時、名刺は」

 奥寺の顔から、血の気が引いた。

「……返ってきたノートを、私、ちゃんと見なかった。お礼の言葉が丁寧で、それで安心してしまって。名刺がなくなったのに気づいたのは、つい最近。あなたの従弟さんたちが来てくれた時」

 戸叶は、ゆっくりとうなずいた。

「その主事の名前は」

「影浦さん。影浦柾人さん」

 奥寺は、膝の上で両手を握りしめた。

「私、またなの。また、気づかないふりをしていたのね。丁寧なお礼の言葉に安心して、ノートを開きもしなかった」

「先生のせいではありません」

 戸叶が、静かに言った。

「あの頃、町じゅうが、あの主事の丁寧さに安心していた。俺もそうだ。新聞記者が、役場の若い男の、言葉づかいの丁寧さに黙らされた」

 霊体の月代は、居間の隅で、両手を胸の前で握りしめていた。

(耀司)

(聞こえてる。全部)

 遠くから、耀司の声が届く。新聞社の資料室で、耀司も同じように、ノートを握りしめているのが分かった。

(名刺は、二十八年前に、もう消されてた。消したのは、名刺に名前が書いてある人)

(うん)

 戸叶は、自分の鞄から一通の古い封筒を取り出し、奥寺の前に置いた。

「先生。これを、覚えてらっしゃいますか」

 封筒の表には、奥寺の名前と学校の住所。裏には、鏡ヶ浦新報、戸叶。消印は、平成十年十月十日。

「私……受け取った。新聞社の方から、取材をお願いしたいって。でも、学校から、取材には応じないようにと言われて、お返事を出さなかった」

「俺の手元に、控えの写しが残っていました。社の古い封筒の箱に、出した手紙の写しを全部入れてあったんです。消えたノートとは、別の箱に」

 戸叶は、写しの便箋を広げた。

 ――鏡ヶ浦高校三年の男子生徒の所在不明の件、及び九月二十七日夜に劇場裏の路地で同生徒らしき少年が目撃されたという情報について、担任外の先生方からもお話を伺いたく。なお、教育委員会の影浦主事からは報道を控えるよう要請を受けておりますが、私としては、少年の安否に関わる問題と考え。

 奥寺のノートと、戸叶の日報と、戸叶の手紙の写し。三つの、別々の場所に保管されていた紙が、同じ日付の周りで、同じ名前を指していた。

 月守の声が、居間の暗がりから、月代にだけ聞こえた。

(失われたものは、ほかの場所から戻ってくる。消そうとした人は、自分がどれだけ多くの場所に跡を残したかを、知らない)

 戸叶は、写しの便箋を封筒に戻し、奥寺の目を見た。

「先生。いつか、このノートと、俺の日報と、この手紙を、警察に持っていく日が来るかもしれません。その時、先生にも、話をしてもらえますか」

 奥寺は、柿の木の方へ目をやった。秋の日差しの中で、熟れかけた実が一つ、枝の先で揺れていた。

「ええ。今度こそ、ちゃんと話します。黙るのは、もうたくさん」


 月代が耀司の影に戻ったのは、昼過ぎだった。新聞社から奥寺の家の方角へ歩いて、二人の距離が縮まったところで、霊体の月代がよろめくように耀司の影に溶け込んだ。

(疲れた)

(無理させた)

(ううん。聞けてよかった)

 家に帰ると、父はもう戻っていた。

 玄関の上がり口に、父の革靴が揃えて置いてある。その横に、見覚えのある大きな茶封筒が立てかけてあった。A4の、ゲラを入れる封筒。父は書斎にいるらしく、廊下の奥の扉が閉まっていた。

 耀司が二階へ上がろうとすると、慧が階段の上から手招きした。慧の部屋に入ると、慧は扉を閉め、声をひそめた。

「親父、昼過ぎに帰ってきて、ずっと書斎だ。さっき、庭の物置からブリキのバケツを持っていった。……焚き火でもする気か、って聞いたら、古い書類の片付けだって」

 耀司の背筋が冷えた。

「燃やす気かもしれない」

「何をだ」

「……戸叶さんのノート」

 慧は、目を見開いた。それから、ゆっくりと息を吐いた。

「止めるか」

「止めない」

 耀司は、自分でも驚くほど静かに答えた。

「止めたら、父さんは、僕たちが何を知っているか分かってしまう。それに、燃やしても、もう遅いんだ。同じことが、別の三つの場所に残ってる」

 慧は、しばらく耀司の顔を見ていた。

「おまえ、いつの間にそんな顔するようになったんだ」

 夕方、二人は家の自分の部屋にいた。机の上には、耀司が書き写した日報と、戸叶から預かった手紙の写しのコピーが並んでいる。

 夕陽が差し込み、照真が溶け、月守が立ち上がった。

「昼の番は、ここまでだ」

「夜の番を、引き受ける」

 照真は、消える前に、机の上の写しのコピーを一瞥した。

「起死回生。死にかけたものを、もう一度起き上がらせること。今日、おまえたちは、消されたものを三つの場所から呼び戻した。だが、覚えておけ。起き上がったものは、もう一度倒されようとする。次は、紙ではなく、おまえたち自身を倒しに来るかもしれん」

 照真が光の粒になって消えた。

 月守は、窓辺から振り返った。

「衿子の部屋から、ピー助を連れてきなさい。今夜は、あの子の中の者に、話をさせる」

 耀司が衿子の部屋の扉を叩くと、衿子は「ピー助と遊ぶの?」と笑って、かごを貸してくれた。

「すぐ返してね。今夜は一緒に寝るんだから」

 部屋に戻り、鳥かごを机の上に置く。月守が、かごの前に膝をついた。

「名前を呼ばれた霊は、少しだけ、暗いところから顔を上げる。それを、ほんのいっとき、影に立たせる。言葉は残らない。だから、耀司。あなたが書きなさい。霊が言ったことを、そのまま。それは証拠ではない。でも、記録にはなる」

 耀司は、ノートとペンを取った。

「月守。二人で話したい」

 月守の力で、影から霊体の月代が立ち上がる。二人は並んで、鳥かごの前に座った。

 月守が、ピー助の小さな影に手をかざした。

 ピー助の目の奥が、赤く濁った。けれど今夜は、ピー助は暴れなかった。止まり木の上で、静かに目を閉じた。

 机の上に落ちたかごの影から、もう一つの影が立ち上がった。

 少年の影だった。背は耀司と同じくらい。整った顔立ちの輪郭が、夕闇の中で淡く揺れている。修学旅行の写真の中で、人懐っこく笑っていた顔。けれど今は、笑っていなかった。

「名前を」

 月守が、静かに言った。

 影の少年は、長いこと黙っていた。それから、口を開いた。

「……久賀篤志」

 乾いた声だった。ピー助の中から聞こえていた、あの年上の声。けれど今は、影の唇から、まっすぐに聞こえた。

「俺は、久賀篤志だ。鏡ヶ浦高校、三年二組。九月七日生まれ。十八歳だった」

 耀司は、震える手で書き写した。

「あの夜、何があったの」

 月代が尋ねた。影の篤志は、月代の顔を見た。茉莉に似ているのかどうか、耀司には分からなかった。けれど、篤志の影は、一瞬だけ目を伏せた。

「由紀が、手紙をよこした。別れたいって。俺は、別れる気なんかなかった。由紀の弱みも、全部握ってると思ってた。それで、由紀の兄貴分の男と、劇場の裏で話をつけることになった。由紀が、その男に頼んだんだ。俺は、笑ってやるつもりだった。大人が出てきたって、何もできやしないって」

「その男の人は」

「名前は知ってた。役場の男だ。由紀の家に、勉強を見に来てた。由紀が、お兄ちゃんって呼んでた」

 影の篤志は、自分の両手を見下ろした。

「路地には、先に、由紀の姉貴と、その恋人が来た。茉莉と、聡っていう男。俺は二人をからかった。手紙を見せびらかした。それから、役場の男が来た。傘を差して。俺は、そいつのことも笑った。笑ったら――」

 影が、大きく揺らいだ。

「そこから先は、暗い。思い出せない。暗くて、冷たくて、狭いところで目が覚めた。目が覚めた、っていうのも変だな。もう、目なんかなかった。それから二十八年、ずっと暗いところにいた。手の中に、あいつの首から千切れた鎖を握って」

 影の篤志が、耀司と月代を見た。

「俺は、由紀にひどいことをした。茉莉にも、野上にも、みんなに。それは、分かってる。暗いところで、二十八年、ずっとそれだけ考えてた。考えて、考えて、誰かのせいにしなきゃ、いられなかった。あいつのせいだって。あの女が余計なことを言ったせいだって」

 影の輪郭が、ほどけ始めていた。

「でも、もういい。名前を、呼んでもらえたから」

「篤志さん」

 月代が呼ぶと、影の少年は、ほんの少しだけ口の端を上げた。笑ったのではなかった。泣き出しそうな顔を、ごまかしただけのように見えた。

 影は、かごの影の中に溶けて消えた。

 月代は、影の消えたあとの机の上を、長いこと見つめていた。

「ひどい人だったのに」

 月代が、かすれた声で言った。

「由紀を苦しめて、茉莉をからかって、野上さんからお金を取って。ひどい人だったのに、どうして、こんなに苦しいんだろう」

「名前を呼んでもらえたから、って言ったから」

 耀司が答えた。

「ひどいことをした人にも、名前はある。暗いところに二十八年置かれていい人なんて、たぶん、いないんだ」

 月代は、黙ってうなずいた。

 ピー助が、止まり木の上で目を開けた。いつもの、小さな黒い目だった。

「……終わったか」

「うん」

「あいつ、ちゃんと名乗ったか」

「名乗った」

「そうか」

 ピー助は、羽を膨らませた。

「中が、少しだけ軽くなった。あいつ、ちょっとだけ、静かになった」

 耀司は、書き終えたノートを見下ろした。霊の言葉。証拠にはならない。けれど、日報と、手紙と、ノートの穴と、同じ方向を指していた。

 耀司は、手鏡を取った。月代が、内側から頼んだのだ。少しだけ、身体を貸してほしい、と。

「自分は誰?」

「自分は誰?」

「――自分は、月代」

 少女の手で、月代はノートの次のページを開き、ペンを取った。書いたのは、短い文だった。宛名はない。けれど、誰に宛てたものなのか、耀司には分かった。

 ――由紀へ。あの夜、待っててって言ったのに、帰れなくてごめんね。篤志くんは、今日、自分の名前を言ったよ。あなたにしたことも、分かってるって。許さなくていい。ただ、知っておいてほしかった。

 書き終えると、月代はペンを置き、ノートをそっと閉じた。

「これ、いつか、衿子姉さんに読んでもらえる日が来るのかな」

(分からない。でも、来ないままでもいいと思う)

「うん。衿子姉さんは、衿子姉さんだもんね」

 月代は手鏡に問いかけ、身体を耀司に返した。耀司は鳥かごを抱えて、衿子の部屋の扉を叩いた。

「ありがとう。……ねえ、耀司」

 かごを受け取りながら、衿子が言った。

「最近ね、白いお花の夢を見るの。誰かが、待っててって言って、出かけていく夢。顔は見えないんだけど、その人のこと、すごく好きだったって、夢の中では分かってるの。変だよね」

 耀司は、喉の奥が詰まって、しばらく声が出なかった。

「……変じゃないよ」

「そう?」

 衿子は笑って、かごを抱えて扉を閉めた。

 部屋に戻ると、二十八年ぶりに名乗った少年の言葉を、耀司は、もう一度だけ読み返した。

 ――名前を、呼んでもらえたから。

 窓の外から、かすかに焦げた紙の匂いが流れてきた。庭の隅で、小さな火が揺れている。ブリキのバケツの前にしゃがむ父の背中が、炎に赤く照らされていた。

 耀司は、窓のカーテンをそっと閉めた。燃えていくものが何であれ、同じ言葉は、もう三つの場所で、夜を越えて残っていた。


(第14話 了)


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