捲土重来
夜明けの境目に、月守は言っていた。
「今日、あなたたちは、二つのものを受け取る。一つは、割れたもの。もう一つは、言葉。どちらも、重い」
その意味は、昼過ぎに一つ目が分かった。
芦原権蔵は、物置の奥から桐の箱を抱えて出てきた。
「重いぞ。気をつけて持て」
十一月七日、土曜日の午後。芦原の家の座敷に、秋の日差しが斜めに差し込んでいた。
耀司は、芦原から借りていた鍵の貸出簿の写しを返しに来たのだった。そして、約束を果たしに。いつか必ず、本当のことを話しに来ます。十月の初め、この座敷でそう言った。
全部を話すことは、まだできなかった。けれど、話せることは話した。教育委員会の会議録に、九月二十日の複製の鍵の借用が、町の公の記録として残っていたこと。芦原の帳面から消された一行は、町の帳面には消されずに残っていたこと。
「そうか」
芦原は、長い白い眉の下で目を閉じた。
「わしが消した一行は、わしの帳面からだけ消えていたのか」
「芦原さんが日誌を書き換えたのは、劇場の地下で、仲間の皆さんとお別れのお酒を飲んでいたことを隠すためだけでした。鍵のことは、役場から頼まれた通りにしただけです。会議録も、そう書いています」
照真が、障子越しの光の中から口を開いた。
「この男の隠したものは、仲間への情と、自分の失態だけだ。殺しにも、殺しの隠蔽にも、手を貸してはいない。記録が、それを示している。疑いは晴れた」
芦原は、長いこと黙っていた。それから、膝の上の桐の箱の蓋を撫でた。墨で「ロビー大鏡」と書かれている。
「二十八年、誰にも見せなかった。取り壊しの時に割れて、捨てろと言われたが、捨てられなかった」
芦原は、蓋を開けた。
紫の布にくるまれて、大小さまざまな鏡の破片が、ぎっしりと並んでいた。金の縁取りの欠片もある。蔦の彫刻が、ところどころ残っていた。
「茉莉ちゃんが、小さい頃、この鏡に話しかけていた。自分は誰、ってな」
耀司の手の中で、ポケットの手鏡が、かすかに熱を持った。
(覚えてる)
内側で、月代が震えていた。
(この鏡の前で、毎日聞いてた)
芦原は、破片の一つを指でつまみ上げた。手のひらほどの、三角に近い欠片だった。裏の銀が、ところどころ剥げている。
「この鏡はな、明治の終わりに、先代が神戸の舶来屋から買い付けた。船で運んで、牛車で運んで、劇場の壁に嵌めるのに、職人が三日がかりだったそうだ。それから九十年、毎晩、客の顔を映してきた。笑う顔も、泣く顔も、別れ話をしている顔も」
芦原は、欠片を布の上に戻した。
「取り壊しの日、運び出す途中で、職人が手を滑らせた。床に落ちて、粉々になった。その音を聞いた時、わしは、劇場が本当に死んだと思った」
照真が、座敷の光の中で、桐の箱を見下ろしていた。
「割れた鏡は、一枚の鏡だった時よりも、多くの角度から映す」
「あんたが、持っていきなさい」
芦原は、箱の蓋を閉じて、耀司の方へ押しやった。
「理由は聞かん。だが、あんたは本当のことを話しに来ると言って、ちゃんと来た。そういう者が持つべきだ」
「……いいんですか」
「わしは、もう十分に見た。二十八年、毎晩な」
耀司は、両手で桐の箱を受け取った。思っていたよりも、ずっと重かった。
桐の箱を抱えて、駅裏の駐車場の脇を歩いた。劇場の土台の石の前を通る時、箱の中で、破片がかすかに触れ合う音がした。
「照真。この鏡で、何ができるの」
「わたしにも、まだ分からん。だが、月守が何かを考えている。夜の守り手は、影の扱いでは、わたしより上手だ」
「照真が、月守を褒めるなんて」
「褒めてはいない。事実を言っただけだ」
照真は、いつもより少しだけ早足だった。
「急げ。家で、何かが待っている。光が、家の方角でざわついている」
家に戻ると、居間の空気が違っていた。
日曜でもないのに、家族全員が揃っていた。母、衿子、慧。そして父。父は、ダイニングテーブルの上座に座り、両手を組んでいた。
「耀司。座りなさい」
穏やかな声だった。
耀司は、桐の箱を自分の部屋に置いてから、居間に戻った。慧が、耀司の顔を見て、小さく首を振った。何も知らされていない、という顔だった。衿子は不安そうに母を見ている。母は、エプロンの裾を握りしめていた。
「今日、宵宮さんのお宅から、役場に電話があった」
父が言った。
「うちの息子さんが、何度も訪ねてきてくれている。お礼を言いたい、と。……耀司。おまえ、宵宮さんの家に何度行った」
「……四回」
「花ごよみの柴崎さん。鏡ヶ浦新報の戸叶さん。奥寺先生。芦原さん。野上さんの工場。タクシーの運転手だった滝本さん。隣の市の宝飾店」
父は、指を一本ずつ折りながら、名前を並べた。
「町の人たちから、父さんのところに、いろいろな話が入ってくる。うちの息子さんが、昔の事件のことを聞いて回っているって。みんな、心配している」
窓の外で、日が傾き始めていた。
「お父さん、耀司は課題で」
母が言いかけると、父は穏やかに首を振った。
「課題で、亡くなった人の遺族の家に四回も行くか。課題で、二十八年前の取材メモを新聞社で読むか。……佐和子、衿子、慧。今日は、みんなに聞いてほしい。父さんが、黙っていたことがある」
居間が、静まり返った。
耀司の内側で、月代が息を詰めていた。照真が、居間の窓辺に立っている。夕陽はまだ空の低いところにあり、月守の姿は見えない。
(何を、話すつもりなんだろう)
(分からない。でも、聞くしかない)
父の目は、少しも揺れていなかった。何かを決めてきた人の目だった。
「二十八年前の九月二十七日。鏡座で事件があった夜だ。あの夜、父さんは、役場の宿直だった」
父は、両手を組んだまま、ゆっくりと話し始めた。
「父さんは、宿直を抜け出した。由紀ちゃん……宵宮さんの下の娘さんに、頼まれていたからだ。父さんは学生の頃、あの子の家庭教師をしていた。妹みたいな子だった。その子が、同じ高校の男子生徒に、ひどく苦しめられていた。久賀という少年だ。その少年と話をつけてほしいと、由紀ちゃんに頼まれた」
母の顔から、血の気が引いていった。
「父さんは、劇場の裏で、その少年に会った。少年は、由紀ちゃんのお姉さんと、その恋人と、揉めていた。父さんは止めに入った。少年は、父さんにも食ってかかった。揉み合いになって、父さんが由紀ちゃんにもらった十字架を、少年に引きちぎられた。少年は、それを持って、雨の中へ逃げていった」
父の声は、落ち着いていた。何度も、心の中で繰り返してきた言葉のように。
「父さんは、すぐに宿直に戻った。十時前には、役場にいた。次の朝、茉莉さんたちが亡くなったと聞いた。少年は、家出をしたと聞いた。……父さんは、あの少年と、その仲間の誰かが、二人を手にかけたんだと思っている。今もだ」
「仲間……」
慧が、かすれた声で言った。
「あの少年は、人の弱みを握って、金を脅し取っていた。由紀ちゃんだけじゃない。野上さんも、そうだった。そういう少年には、そういう仲間がいる。揉め事の果てに、ああいうことになったんだろう。少年が逃げたのも、そのせいだ」
父は、組んでいた手をほどいた。
「父さんが黙っていたのは、宿直を抜け出したことが知られたら、役場を首になったからだ。佐和子と付き合い始めたばかりで、結婚も考えていた。それに、由紀ちゃんの苦しみを、町の噂にしたくなかった。だから、黙った。家出の処理も、新聞社への頼みも、町の平穏のため、由紀ちゃんのためにやった。それが、父さんの罪だ」
父は、耀司をまっすぐに見た。
「耀司。おまえが何を調べて、何を想像しているのか、父さんには分かる。でも、それは、おまえの思い込みだ。ひどい少年がいた。ひどい夜があった。父さんは、その夜、そこに居合わせて、逃げた。それだけだ。……もう、やめなさい。死んだ人を、これ以上掘り返すな。宵宮さんの家を、これ以上傷つけるな」
「家庭教師……」
母が、かすれた声で言った。
「あなた、そんな話、一度もしてくれなかった。宵宮さんの家に、勉強を教えに行ってたなんて」
「話す必要がないと思った。昔のことだ」
「昔のこと……」
衿子が、膝の上で手を握りしめていた。
「由紀さんって、宵宮さんの下の娘さんよね。耀司が名簿で見てた、星印の。……変なの。その名前を聞くと、胸がぎゅっとする。会ったこともないのに」
父の視線が、一瞬だけ衿子の上に止まった。それから、すぐに逸れた。
母が、両手で顔を覆った。
「あの夜……電話が、来なかった夜……」
衿子が、母の肩を抱いた。衿子自身も、震えていた。慧は、テーブルの縁を握りしめたまま、父から目をそらさなかった。
窓の外の空が、赤く燃えていた。
居間の壁に、夕陽が長い影を落としている。父の影。母の影。衿子と慧の影。そして耀司の影。
その影が、二重になった。境目の時間だった。窓から差し込む赤い光の中で、照真の輪郭が揺らぎ、居間の隅の暗がりから、月守が立ち上がった。
「今だ」
照真が言った。
「この男は、今、自分の言葉で、あの夜の道筋を語った。言葉は、口から出た瞬間に影を落とす。その影を、四つの影で囲め」
「四影封路」
月守が、静かに続けた。
「耀司、月代、照真、わたし。四つの影で、あの人の言葉の影を囲い、逃げないように留めておく。攻撃するのではない。変えるのでもない。今語られた言葉を、語られた形のまま、ここに固めるだけ」
月守が耀司の背に手を当て、影の中から月代が立ち上がった。家族には見えない。月代は耀司の隣に立ち、父の顔をまっすぐに見つめていた。
四人が、居間の床に落ちた父の影を囲むように立った。照真が東に、月守が西に、耀司が南に、月代が北に。四つの影が床の上で伸び、父の影の四方を、四角く囲った。
父の影の中に、言葉が文字のように浮かび上がった。父には見えない。家族の誰にも見えない。耀司と月代と、二人の守護者だけに。
――宿直を抜け出した。
――劇場の裏で少年に会った。
――少年は茉莉さんたちと揉めていた。
――揉み合いで十字架を引きちぎられた。
――少年は雨の中へ逃げた。
――すぐに宿直に戻った。十時前には役場にいた。
――少年とその仲間が二人を手にかけたと思っている。
照真が、最後から二つ目の一行に光を当てた。
――十時前には役場にいた。
「この一行は、滝本の手帳と合わない」
照真の声は、静かだった。
「滝本の手帳では、二十三時五分、倉庫街の入口。役場の前で降りたのは二十三時十二分。月守が見た宿直室の灯りも、十一時過ぎまで誰もいなかった。この男は、十時前に戻ったと言った。一時間以上の差がある」
月守が、別の一行に影を落とした。
――少年は雨の中へ逃げた。
「逃げた少年は、劇場の大道具の出勤簿に、退勤の記録がない。三番倉庫のシャッターが下りたのは、十一時近く。逃げた少年が、どこへ行ったのか。この人は、知らないと言った。でも、毎年九月二十八日に、三番倉庫の前へ白菊を届けさせている」
四つの影の中で、父の言葉は、固く留められていた。今夜、父が語った形のまま。明日になって、父が言い直そうとしても、この形は変わらない。
(耀司)
隣で、月代が呼んだ。
(今は、言わない方がいい?)
(うん。今は、一つだけ聞く)
耀司は、口を開いた。
「父さん」
家族の目が、耀司に集まった。
「十時前に、役場に戻ったんだね」
「ああ。そう言っただろう」
「宿直室の電話から、母さんの家に、電話はかけた?」
父の顔が、一瞬だけ強張った。
「……あの夜は、かけなかった。気が動転していた」
「そう」
耀司は、それ以上何も聞かなかった。
十時前に戻ったと言いながら、毎晩かけていた電話を、あの夜だけかけなかった。母が覚えていた、電話の来なかった秋の雨の夜。その一行も、四つの影の中に、静かに書き加えられた。
四つの影の囲いが、ゆっくりとほどけていった。夕陽が山の端に沈み、照真の輪郭が光の粒になって消える。父の影は、ただの影に戻った。けれど、その中に留められた言葉は、耀司と月代の記憶に、焼きつくように残っていた。
(忘れない)
隣で、月代がつぶやいた。
(お父さんが今日言ったこと、一言も忘れない。お父さんが明日、違うことを言っても)
「……もういい」
慧が、椅子から立ち上がった。
「親父。今の話、全部本当なのか」
「本当だ」
「だったら、なんで今まで黙ってたんだよ。首になるとか、そんな理由で、二十八年も」
「慧」
母が止めようとしたが、慧は止まらなかった。
「耀司の机から写真を持っていったのも、ピー助をどこかへやろうとしたのも、新聞社に行ったのも。全部、黙ってた理由と関係あるのか」
父の目が、わずかに細くなった。
「……慧。おまえまで、何を言っている」
「俺は、親父を信じたいんだよ」
慧の声が、割れた。
「信じたいから、聞いてるんだ」
二階から、鋭い鳴き声が響いた。衿子の部屋のピー助だった。家族には、ただのけたたましい鳴き声にしか聞こえない。けれど耀司と月代には、その声が言葉になって届いていた。
「嘘だ。嘘だ。嘘だ」
乾いた、年上の声。篤志の霊の声だった。
「俺は逃げてない。逃げられなかった。俺は、あの路地から、一歩も出てない」
衿子が、はっと二階を見上げた。
「ピー助……」
衿子は、母の肩から手を離し、階段を駆け上がっていった。
父は、天井を見上げていた。眼鏡の奥の目が、ほんのわずかに揺れていた。
「今夜は、ここまでにしよう」
父は、静かに言った。
「耀司。父さんの話は、以上だ。おまえも、もう分かっただろう。これ以上、町の人を騒がせるな。……学校の先生に、少し相談してみようと思う。おまえは、疲れているんだ。古い事件に、のめり込みすぎた」
父は立ち上がり、書斎へ戻っていった。扉の閉まる音が、ひどく静かだった。
居間には、母と耀司と慧が残された。母は、テーブルの上の冷めたお茶を見つめたまま、長いこと動かなかった。
「耀司」
やがて、母が顔を上げた。
「本当のことを、教えて。お母さん、何を信じたらいいのか分からない」
耀司は、母の目を見た。図書館で、何も知らずに会議録を出してくれた母。父の名前を見つけて、懐かしそうに笑った母。
「母さん。少しだけ、待ってほしい」
耀司は、言葉を選んだ。
「父さんの話には、本当のことがたくさんあった。でも、まだ確かめていないところがある。確かめたら、全部話す。必ず」
母は、唇を噛んだ。
「お父さんは、優しい人よ。二十八年、一度も声を荒らげたことのない人。……でも、あの雨の夜に電話が来なかったこと、お母さん、ずっと心のどこかで覚えていたの。寝ちゃったって言われて、そうなんだって思うことにした。思うことにしたのよ」
慧が、母の背中にそっと手を置いた。母は、その手を握り返した。
耀司は、二階の衿子の部屋の扉を叩いた。
「入っていい?」
「……うん」
衿子は、ベッドの端に座って、鳥かごを膝の上に抱えていた。ピー助は止まり木の上で、羽を逆立てたまま、床の方を睨みつけていた。目の奥に、まだかすかに赤い濁りが残っている。
「急に、床に向かって叫び出したの。下で、お父さんが話してる時。あんなピー助、見たことない」
衿子の目が赤かった。
「ねえ、耀司。お父さんの話、本当なのかな。お父さんが、昔、誰かを守ろうとして、怖い思いをしたって。それなら、お父さんは悪くないよね」
耀司は、返す言葉を探して、しばらく黙っていた。
(衿子姉さんに、嘘はつかないで)
内側で、月代が言った。
(でも、まだ全部は言わないで。衿子姉さんが一人で背負うことになるから)
「姉さん」
耀司は、衿子の隣に座った。
「父さんが話したことの中に、本当のことは、たくさんあったと思う。でも、全部が本当かどうかは、まだ分からない。僕は、それを確かめたいんだ。父さんのためにも」
衿子は、長いこと黙っていた。それから、鳥かごを抱きしめるようにして、小さくうなずいた。
「……分かった。でも、無理しないでね。お父さんも、耀司も、壊れないで」
鳥かごの中で、ピー助の目から、赤い濁りがゆっくりと引いていった。ピー助は、衿子の指先に、そっと嘴を寄せた。
その夜、耀司は自分の部屋で、手鏡に問いかけた。
「自分は誰?」
「自分は誰?」
「――自分は、月代」
少女の身体になった月代は、机に向かい、ノートを開いた。今日、父が語ったことを、一字一句、書き留めておくために。四影封路の中に留められた父の言葉は、月代の目にも、耀司の目にも、まだはっきりと焼きついていた。
――すぐに宿直に戻った。十時前には役場にいた。
――あの夜は、かけなかった。気が動転していた。
書き終えると、月代はペンを置いた。
「お父さん、上手だった」
月代が、ぽつりと言った。
「本当のことを、半分だけ混ぜて話した。宿直を抜け出したこと。由紀に頼まれたこと。十字架のこと。全部、私たちが調べて、もう分かってることばっかり。分かってることを先に認めて、分かってないところに、自分の話を差し込んだ」
「捲土重来」
耀司が、内側から言った。
「一度負けた人が、勢いを盛り返して、もう一度挑んでくる。……父さんは、負けかけてたから、自分から話した。話して、僕たちの調べたことを、自分の物語の一部にしようとした」
「うん。お母さんも、衿子姉さんも、たぶん、半分は信じた」
月代は、ノートの上に手を置いた。
「でも、私たちも、もう一度立ち上がらないと。お父さんの物語に飲み込まれないように」
扉が叩かれた。返事を待ってから、慧が顔を出した。少女の姿の月代を見ても、慧はもう驚かなかった。
「月代か」
「うん」
「……親父の話、どう思った」
月代は、少しだけ迷ってから、ノートを慧に向けた。
「十時前に役場に戻ったって、お父さんは言った。でも、その夜の十一時過ぎに、倉庫街の入口からタクシーに乗った人がいる。記録が残ってる。お父さんの話と、一時間以上ずれてる」
慧は、ノートの文字を長いこと見つめていた。
「……そうか」
慧は、目を閉じた。
「親父は、半分だけ本当のことを言ったんだな」
「うん」
「残りの半分は」
「まだ、確かめてる途中」
慧は、目を開けた。
「確かめろ。最後まで。俺も、もう逃げない」
慧は、扉の取っ手に手をかけたまま、少しだけ振り返った。
「親父が、学校の先生に相談するって言ってたな。おまえを止めるために。……あれは、俺が止める。母さんにも話して、止めてもらう。おまえは疲れてなんかいない。俺が一番よく知ってる」
「慧兄さん」
「おまえじゃない。月代に言ってるんだ。耀司に伝えとけ」
月代は、少しだけ笑った。
(聞こえてるよ)
耀司の声が、内側でくすぐったそうに言った。
慧が出ていったあと、月代は手鏡に問いかけ、耀司に身体を返した。
窓の外は、深い夜だった。机の脇に置いた桐の箱の中で、割れた大鏡の破片が、月の光を受けて、かすかに光っていた。
月守が、箱の上に手をかざした。
「この鏡は、たくさんの人の顔を映してきた。茉莉の顔も。あの夜、劇場の前を通り過ぎた人たちの顔も。割れても、映したものは忘れていない」
「月守。この鏡を、使えるの」
「使える。でも、一度だけ。あなたたちと、照真と、わたしと、ピー助と、十字架と、手鏡と。全部をそろえた時に」
月守は、窓の外の月を見上げた。
「その時まで、この破片は、眠らせておきなさい」
耀司は、桐の箱の蓋をそっと閉じた。蓋の隙間から漏れていた光が消え、部屋には月明かりだけが残った。隣の衿子の部屋から、ピー助の小さな寝息のようなさえずりが、一度だけ聞こえた。
(第15話 了)




