背水之陣
「起きて」
月守の声が、耳元で鋭く響いた。
十一月八日、日曜日。午前二時を少し過ぎていた。耀司は布団の中で目を開けた。部屋は暗い。窓の外に、欠けた月が浮かんでいる。
「廊下に、あの人がいる」
耀司は、息を殺した。
扉の向こうで、床板がかすかに軋んだ。足音は、耀司の部屋の前を通り過ぎ、隣の衿子の部屋の前で止まった。
扉の開く、ごく小さな音。
(ピー助)
内側で、月代が跳ね起きるように意識を張りつめた。
「月守、月代を」
「出す。でも、気をつけて。夜中の影は、昼より深い。あの人の影も」
月守の手が耀司の背に触れ、影の中から月代が立ち上がった。霊体の月代は、扉をすり抜けて廊下へ出た。耀司も布団を抜け出し、扉を細く開けた。
衿子の部屋の扉が、半分開いていた。中は暗い。衿子の寝息が聞こえる。そして、鳥かごの前に、父が立っていた。
父は、パジャマの上にカーディガンを羽織っていた。鳥かごの扉に、手をかけている。ゆっくりと、音を立てないように、扉を開けようとしていた。
かごの中で、ピー助が目を覚ましていた。止まり木の端に身を寄せ、羽を膨らませている。目の奥が、赤く濁りかけていた。
霊体の月代が、父のすぐ横に立った。父には見えない。けれど、父の手が、ふと止まった。
部屋の温度が、すっと下がった。月守が、月代の背後の暗がりから、影を部屋いっぱいに広げていた。父の足元の影が、月守の影に呑まれるように揺れる。
父は、何かを感じたように、ゆっくりと振り返った。
廊下に、耀司が立っていた。
「……耀司」
父の声は、ささやくほどに低かった。
「起こしたか」
「ピー助を、どうするの」
「どうもしない。様子を見に来ただけだ」
嘘だった。父の手は、まだかごの扉にかかっていた。
「父さん」
耀司は、廊下から一歩も動かずに言った。
「ピー助は、姉さんの鳥だ。昨日、みんなの前でそう決まった」
父は、長いこと耀司を見ていた。暗い廊下で、眼鏡のレンズが、月の光を一度だけ反射した。
「おまえには、分からない」
父が、ほとんど聞き取れない声で言った。
「その鳥が首から下げているものが、何なのか。それを毎日見なければならない者の気持ちが」
「分かるよ」
耀司は答えた。
「僕は、毎日見てた。十三年間。何なのか知らないで、ずっと」
父の手が、かごの扉から離れた。
衿子が、寝返りを打った。父は一瞬身を固くし、それから、何も言わずに部屋を出た。耀司の横をすり抜ける時、父の肩が、耀司の肩にかすかに触れた。冷たい肩だった。
父の寝室の扉が閉まる音がした。
霊体の月代が、鳥かごの前にしゃがみ込んでいた。ピー助の目から、赤い濁りがゆっくりと引いていく。
「……来やがった」
ピー助のかすれた声が、震えていた。
「中のやつが、暴れそうになった。押さえた。今度は、押さえられた」
「えらかったね」
月代が言うと、ピー助は羽の中に顔をうずめた。
しばらくして、ピー助は顔を上げずに言った。
「なあ。一つだけ、ちゃんと言っておく」
「うん」
「中のやつが、昔、姉貴に……由紀って子に、したこと。あれは、中のやつの罪だ。俺のじゃねえ。でも、俺の中に住んでるのは本当だ。だから、姉貴が俺のことを怖がっても、文句は言えねえと思ってた」
ピー助は、衿子の寝顔の方へ、ほんの少しだけ首を向けた。
「十三年、姉貴の手の上で寝た。姉貴は、俺の中に何が住んでるか知らねえ。知らねえで、毎朝、おはようって言ってくれた。……俺は、中のやつとは違う。違うって、姉貴が毎朝、教えてくれてた」
月代は、何も言わずに、鳥かごの格子に霊体の指を添えた。
「ピー助は、ピー助だよ」
「知ってる。……知ってるけど、言われると、悪くねえな」
廊下で、もう一つの扉が細く開いた。慧だった。寝癖のついた頭で、廊下の暗がりから耀司を見ている。
「今の、親父か」
慧の声は、かすれていた。
「物音で目が覚めた。……ピー助か」
耀司がうなずくと、慧は長い息を吐いた。
「今夜は、俺が姉貴の部屋の前で寝る。毛布持ってくる」
「慧兄さん、明日も仕事でしょう」
「有給取る。取ってやる」
慧は、それだけ言って、自分の部屋へ毛布を取りに戻った。
部屋に戻ると、月守は窓辺に立ったまま、振り返らなかった。月の光に透ける輪郭が、いつもより薄く見えた。夜中の部屋いっぱいに影を広げたせいだと、耀司にも分かった。
「あの人は、もう後がないと思っている」
「後がない……」
「背水の陣。川を背にして、退路を断って戦うこと。昔の兵法では、逃げ道をなくすことで、兵に死にもの狂いの力を出させた。……でも、今あの人が背負っている川は、あの人自身が作ったもの。二十八年かけて」
月守は、ようやく振り返った。
「そして、あなたたちも、もう川を背にしている。今夜のようなことが、また起きる。次は、ピー助ではなく、桐の箱かもしれない。手帳かもしれない。証言してくれる人たちかもしれない」
「じゃあ、どうすれば」
「時間を、使い切ること」
月守は、自分の手のひらを見下ろした。月の光が、その輪郭を透かしている。
「わたしと照真の力には、限りがある。一日に何度も影を使えば、あなたたちの意識は混線する。そして、わたしたち自身も、薄くなっていく。この先、あなたたちが真実を最後まで照らすには、わたしたちの力を、ほとんど使い切ることになるかもしれない」
「使い切ったら、月守はどうなるの」
月代が、霊体のまま尋ねた。
月守は、少しだけ微笑んだ。
「それは、その時に分かる。……でも、怖がらないで。わたしたちは、あなたたちが生まれた夜に、あなたたちの影から目を覚ました。あなたたちの影がある限り、どこにも行かない」
朝の食卓で、衿子が首をかしげていた。
「朝起きたら、ピー助のかごの扉が、少しだけ開いてたの。閉め忘れたかな。それに、慧が私の部屋の前で、毛布にくるまって寝てた。何なの、あれ」
「寝ぼけたんだよ」
慧が、トーストをかじりながら言った。目の下に、うっすらと隈ができていた。
父は、新聞を広げていた。紙面から一度も目を上げなかった。
「今夜は、町の会合だ。遅くなる」
それだけ言って、父は家を出ていった。
朝の境目に、照真が現れた。
照真は、月守から夜の出来事を聞くと、しばらく黙っていた。
「今日中に、全部を整える」
照真の声には、いつもの落ち着きの下に、わずかな焦りが混じっていた。
「昨夜、月守は力を使いすぎた。夜中の部屋いっぱいに影を広げるのは、境目でもない時間には重い。わたしも、今日は長く光を保てんかもしれん。だから、急げ。わたしたちの力ではなく、人の力で、網を閉じろ」
照真が言った。
「証言してくれる者たち。記録。それを、第三者が確かめられる形にする。おまえたちの言葉だけでは足りない。おまえたちの力で見たものは、証拠にならない。だから、人の手で書かれた記録と、人の口で語られる証言を、一つの場所に集めろ」
午前中、耀司は戸叶に電話をかけた。戸叶は、すべてを聞き終えると、短く言った。
「分かった。俺が、みんなに声をかける。県警の捜査一課に、昔、取材で世話になった刑事がいる。もう定年前だが、あの事件を今も気にしている男だ。そいつに、話を通しておく」
「戸叶さん」
「何だ」
「戸叶さんは、二十八年前、記事を書かなかったことを、ずっと恥じてたって」
「ああ」
「でも、白紙のページを捨てなかったから、日報もスキャンされて、手紙の写しも残ってた。戸叶さんが書かなかったんじゃなくて、書けなかったことが、ちゃんと記録になってた」
電話の向こうで、戸叶はしばらく黙っていた。
「……十六の子に、慰められるとはな」
戸叶は、電話の向こうで鼻を鳴らした。
「名前を言っておく。県警の桑原という刑事だ。二十八年前、あの事件の初動の捜査にいた。家出の件と結びつけられなかったことを、退職前の今になっても悔やんでいる。俺が昔、匿名電話の話を持っていった時、裏が取れないと言って突き返した男でもある。……今度は、突き返させない」
戸叶は、一人ずつ名前を挙げた。
「花ごよみの柴崎さん。奥寺先生。芦原の爺さん。野上。滝本さん。みんな、話す気になっている。宵宮さんの奥さんには、俺から、時期を見て話す。宝飾店の箕輪さんには、控えの写しを頼んである。それと、うちの菅沼が、日報のデータを全部まとめてくれた」
「みんな……」
「君たちが、一人ずつ訪ねていったからだ。一人ずつ、黙っていたものを置いていった。それを今度は、まとめて警察に持っていく。それだけの話だ」
電話を切るとすぐに、野上から短いメッセージが届いた。戸叶から話を聞いたのだという。
――娘が寝たら、いつでも行く。今度は、逃げないで話す。
続けて、奥寺からも、芦原からも、ぽつりぽつりと連絡が入った。春江からは、一行だけ。
――白い菊の注文控え、全部持っていきます。
照真が、窓辺で言った。
「この男の疑いも、晴れた。書かなかったのは、隠したからではない。上から黙らされ、自分の恐れに負けたからだ。だが、その恐れの記録を、二十八年持ち続けた。それを隠蔽とは呼ばない」
昼過ぎ、耀司は家の近くの公園へ出た。ベンチの陰で、月代は手鏡に問いかけて、身体を受け取った。
「自分は誰?」
「自分は誰?」
「――自分は、月代」
照真の力で、耀司が霊体となって月代の影から立ち上がる。二人は並んで、川沿いの道を歩いた。
「従姉って、何回目だろう」
月代が、少しだけ笑った。
「新聞社で一回、野上さんで一回、宝飾店で一回、奥寺先生のところで二回」
「全部終わったら、みんなに謝らないとね。本当は従姉じゃなかったって」
「謝ったら、みんな、どう思うかな」
「たぶん、慧兄さんみたいに、前代未聞だって言うよ」
二人は、少しだけ笑った。笑えるうちに、笑っておきたかった。
少女の姿で、月代は滝本の家を訪ねた。野上モータースの裏手の、古い木造の家だった。
「耀司の従姉です。耀司から、滝本さんのことを聞いていて」
「おお、あの子の。いい目をした坊主だった」
滝本は、月代を座敷に通した。平成十年の乗務手帳を、月代の前に置く。
「これを、警察に持っていくんだな」
「はい。滝本さんにも、一緒に来ていただけたら」
「行くさ。二十八年分の借りだ」
滝本は、手帳の表紙を撫でた。
「だがな、お嬢さん。一つだけ聞いておきたい。この手帳が、あの若い男を追い詰めることになるんだろう。あんたたちは、それでいいのか。あの坊主の、親父さんなんだろう」
月代は、膝の上で手を握りしめた。
「……よくは、ないです」
月代は、正直に答えた。
「でも、二十八年、暗いところに置かれた人がいます。名前を消された人がいます。自分の娘が死んだ理由を知らないまま、仏壇の前に座り続けている人がいます。耀司も私も、お父さんのことが好きです。だから、お父さんに、自分の口で本当のことを言ってほしいんです。そのために、逃げ道を全部、ふさがなきゃいけない」
滝本は、長いこと月代の顔を見ていた。
「……あんたも、いい目をしてるな」
滝本は、仏壇の方へ目をやった。小さな遺影の中で、白髪の女性が笑っていた。
「女房がな、生きてた頃、よく言ってた。あんたの手帳は、いつか誰かの役に立つ。でなきゃ、四十年も書き続けられるわけがない、って。……二十八年遅れて、やっと役に立つ」
滝本は、手帳を月代の手に握らせた。
夕方、耀司の部屋に、母と慧が集まった。
母が耀司の部屋に入るのは、久しぶりだった。机の上に広げられた紙の束を見て、母は戸口で足を止めた。慧が、母の背中をそっと押した。母は、耀司のベッドの端に、小さくなって腰を下ろした。
父は、町の会合に出かけていた。衿子は、保育園の行事の準備で遅くなる。母と慧と耀司。三人だけで話せる、最後の機会かもしれなかった。
月代は、耀司に身体を返していた。机の上に、耀司は記録を並べた。滝本の乗務手帳。戸叶の日報のコピー。教育委員会の会議録の写し。春江から預かった現金書留の便箋の写真。宝飾店の注文控えの写真。
「母さん。慧兄さん。昨日、父さんが話したこと」
耀司は、母の顔をまっすぐに見た。
「父さんは、あの夜、少年と揉み合ったあと、すぐに宿直に戻ったって言った。十時前には、役場にいたって」
耀司は、滝本の手帳の、九月二十七日のページを開いた。
「これは、当時タクシーの運転手だった人の手帳。九月二十七日、日曜日。夕方より雨。二十三時五分、倉庫街入口から役場前。男一人。ずぶ濡れ。傘あり、差さず。首元をしきりに触る」
母の手が、口元に上がった。
「その人は、役場の前で降りる時に、運転手さんに言ったんだ。宿直を抜け出したのがばれたら首になるから、誰にも言うなって」
「二十三時……」
慧が、かすれた声で繰り返した。
「親父は、十時前って言った。一時間以上、ずれてる」
窓の外で、日が傾き始めていた。照真の光が、机の上の記録を照らしている。
「照真」
耀司が心の中で呼ぶと、照真の声が返った。
(言葉ではなく、記録を見せろ。おまえの推理ではなく、他人の手で書かれた文字を)
耀司は、手帳を母の前に差し出した。母は、震える指で、鉛筆の細かい字をなぞった。
「……あの夜」
母の声が、ほとんど聞こえないほど小さかった。
「あの夜、電話は来なかった。そして、次の朝早く、あの人は、宿直明けにそのまま、うちの実家に来たの。まだ七時前だった。靴を洗わせてほしいって。宿直室の前の植え込みで転んで、泥だらけになったって」
耀司と慧は、顔を見合わせた。
耀司は、春江から預かった現金書留の便箋の写真を、母の前にそっと置いた。九月二十八日、三番倉庫前へ。白菊一束。
母は、写真を見た瞬間に、息を止めた。
「……あの人の字」
母の指が、「月」の字の上で止まった。
「月の最後を、必ず左上に跳ねるの。年賀状も、結婚式の招待状の宛名も、全部この字。……二十八年、毎年、これを書いてたの? 私の知らないところで」
母の声が、震えて途切れた。
「川の泥だった」
母は、目を閉じた。
「私、あの日、あの人の靴を洗ってあげたのよ。うちの裏の水道で。生臭い、川の泥のにおいがした。おかしいと思った。役場の植え込みに、あんな泥はないって。でも、聞かなかった。聞いたら、何かが壊れる気がして」
母の目から、涙がこぼれた。
「二十八年、思い出さないようにしてた。思い出さないでいれば、なかったことになると思ってた」
母は、手帳の上に置いた自分の手を、じっと見つめていた。
「結婚する前の晩にね、あの人、一度だけ言ったの。僕には、一生かけて背負わなきゃいけないものがある。それでも結婚してくれるかって。私、何のことか聞かなかった。仕事のことだと思った。町の役場の人だから、町のことを一生背負うんだって、勝手に思って、嬉しかった」
母は、両手で顔を覆った。
「聞けばよかった。あの時、聞けばよかった」
「母さんのせいじゃない」
慧が、強い声で言った。
「聞かなかったのは、母さんのせいじゃない。言わなかったのは、親父だ」
慧が、母の肩を抱いた。慧の手も、震えていた。
日が沈んだ。
照真が溶け、月守が立ち上がる。部屋の隅の影から、月代が霊体で現れた。母と慧には見えない。慧だけが、耀司の視線の先を追って、何かがそこにいることを察したようだった。
耀司と月代は、言葉を交わさなかった。手鏡も使わなかった。ただ、意識の底で、同じことを考えていた。
父に、何を聞くのか。
逃げ道をすべてふさいだあとで、最後に、父自身の口から何を言ってもらうのか。
二人の意識の中で、一つの問いが、同時に形を結んだ。
(三番倉庫のシャッターの向こうに、何があるの)
耀司は、母と慧の顔を見た。
「母さん、慧兄さん。僕は、父さんに、一つだけ聞こうと思う。三番倉庫のシャッターの向こうに、何があるのかって」
隣で、霊体の月代が、同じ言葉を唇の形だけで繰り返していた。示し合わせたわけではなかった。同じ問いが、同じ瞬間に、二人の中から出てきただけだった。
慧が、ゆっくりとうなずいた。
「俺も、一緒にいる」
母は、涙を拭いて、顔を上げた。
「……お母さんも」
机の上で、スマートフォンが震えた。衿子からのメッセージだった。
――保育園、今終わった。ピー助、ちゃんとご飯食べてるかな。
耀司は、返事を打とうとして、指を止めた。
一階で、玄関の扉の開く音が響いた。会合から帰ってきたにしては、早すぎた。続いて、車のキーの鳴る音。玄関の扉が、また閉まる。
慧が、窓に駆け寄った。
「親父の車だ。今、出ていった」
エンジンの音が、夜の通りを遠ざかっていく。
慧が、机の上の記録の束を見下ろした。会議録の写し。担当、事務局主事、影浦柾人。慧は、その一行を指でなぞった。
「親父の字じゃなくて、活字で打たれてるのが、余計にこたえるな」
慧は、拳を握った。
「町の記録に残ってる親父と、家にいる親父と。どっちが本物なんだろうな」
「どっちも」
耀司が答えた。
「どっちも、本物の父さんなんだと思う。だから、確かめたいんだ」
月守が、窓の外の闇を見つめていた。
「あの人の影が、川の方へ向かっている」
月守の声が、低く沈んだ。
「倉庫街の方へ」
耀司は、机の上の手鏡を握った。月代が、その隣に立つ。四つ目の影を、照真は今、昼の光と一緒に持ち去っていた。夜の守り手は、月守一人だった。
「慧兄さん」
「分かってる」
慧は、もう自分の車のキーを握っていた。
「母さんは、ここにいてくれ。姉貴が帰ってきたら、ピー助のそばにいてやって」
母は、震える手でうなずいた。
耀司は、パーカーを羽織り、衿子の部屋から鳥かごを抱えて下りてきた。衿子が帰るまでの間、借りていくと、母に言付けた。ピー助は、かごの中で背筋を伸ばしていた。
「連れていけ。中のやつが、行きたがってる。俺も、行く」
桐の箱は、部屋の机の下に置いたままにした。今夜は、まだその時ではない。月守が、そう言っていた。
「行こう」
耀司が言った。
慧の白い軽自動車は、夜の県道を川の方へ走った。後部座席で、耀司は鳥かごを膝に抱えていた。隣には、霊体の月代が座っている。慧には見えない。それでも慧は、バックミラー越しに、時々、空いているはずの座席を見ていた。
「月代も、乗ってるんだよな」
「乗ってる」
「……そうか。シートベルト、締めとけって言っとけ」
(締めてるよ)
「締めてるって」
慧は、少しだけ笑った。笑い声は、すぐに途切れた。
窓の外を、街灯が一本ずつ流れていく。車の中の暗がりに、月守の輪郭がにじんでいた。夜の守り手は、昨夜からの疲れで、いつもより淡く見えた。
「月守。大丈夫?」
月代が尋ねると、月守は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「大丈夫。あなたたちの影がある限り」
鳥かごの中で、ピー助が、川の方角をまっすぐに見つめていた。目の奥は、赤く濁っていなかった。ピー助自身の、黒い目だった。
「……あいつが、待ってる」
ピー助が、小さく言った。
「シャッターの向こうで、二十八年。待ってる」
(耀司)
隣で、霊体の月代が言った。
(もし、お父さんがシャッターの前にいたら、何て言う?)
(まだ、何も言わない。見るだけ。父さんが何をしようとしているのか、ちゃんと見る。それから、慧兄さんと一緒に、警察に連絡する)
(うん。私たちは、裁く人じゃないもんね)
(うん。確かめる人だ)
慧の車が、川沿いの道へ折れた。倉庫街の入口の古い街灯が、闇の中にぽつんと灯っていた。
背水の陣。もう、引き返す道はなかった。
(第16話 了)




