正真正銘
倉庫街の奥に、父の車が停まっていた。
慧は、倉庫街の入口の手前で車を停め、エンジンを切った。ヘッドライトが消えると、あたりは急に暗くなった。入口の古い街灯だけが、ぼんやりと地面を照らしている。
「ここから先は、歩こう。車の音で気づかれる」
慧が小声で言った。耀司は鳥かごを抱えて車を降りた。霊体の月代が、すぐ隣に立つ。月守の輪郭が、倉庫の壁の影に溶けるようににじんでいた。
七番倉庫の白い壁の前を過ぎ、錆びたトタン屋根の倉庫が並ぶ通りを、足音を殺して進む。川の匂いが、夜気の中で濃くなった。
三番倉庫の前に、人影があった。
父だった。
懐中電灯も持たず、シャッターの前に立っている。白菊は持っていなかった。両手を、だらりと下げていた。
耀司たちは、隣の倉庫の陰に身を寄せた。距離は、二十メートルほど。父の背中が、月明かりの中で小さく見えた。
父は、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと片手を上げ、錆びたシャッターに手のひらを当てた。冷たい鉄に、額を押しつけるように、身体を前に傾けた。
何かを言っていた。声は、ここまでは届かない。
「月守」
月代が、ささやくように呼んだ。
(届けることはできる。でも、聞いてしまったら、もう聞かなかったことにはできない)
月守の声が、倉庫の壁の影からにじんだ。
(聞く)
耀司と月代の声が、重なった。
月守が、父の足元の影に、自分の影をそっと重ねた。風に運ばれるように、かすれた声が、二人の耳にだけ届いた。
「……由紀ちゃん。ごめん。ごめんな」
父の声だった。耀司が十六年間聞いてきた、穏やかな父の声。けれど、その声は、ひどく震えていた。
「お兄ちゃんは、約束を守れなかった。守ったつもりで、全部壊した」
父の肩が、小刻みに揺れていた。
隣で、慧が拳を握りしめていた。慧には、父の声は聞こえていない。それでも、シャッターに額を押しつける父の背中を見て、慧の目が濡れていた。
鳥かごの中で、ピー助が身を固くしていた。目の奥に、赤い濁りがにじみかけては、引いていく。中の霊が、父の声を聞いて、暴れようとしては、ピー助に押さえられているのだ。
「……帰ろう」
耀司が言った。
慧が、驚いたように耀司を見た。
「いいのか」
「父さんは、今、シャッターを開けようとしていない。開けられないんだ。鍵も持っていないし、たぶん、開ける勇気もない」
月代が、耀司の隣で静かに言った。
(私たちが開けるんじゃない。開けるのは、ちゃんと開けられる人)
「ここで出ていったら、父さんは逃げる。だから、今夜は、見届けるだけにする」
慧は、長いこと父の背中を見ていた。それから、黙ってうなずいた。
三人は、来た道を静かに引き返した。
帰りの車の中で、誰も口をきかなかった。後部座席の鳥かごの中で、ピー助が身体を震わせていた。
「……あいつ、今、何て言った」
ピー助が、かすれた声で聞いた。中の霊ではなく、ピー助自身の声だった。
「由紀ちゃん、ごめんって。お兄ちゃんは、約束を守れなかったって」
耀司が答えると、ピー助は長いこと黙っていた。
「中のやつが、泣いてる。……二十八年、あの扉の向こうで、あいつが謝るのを、一回も聞いたことがなかったんだ。毎年、花だけ置いて、何も言わずに帰っていったから」
月代が、霊体の手を鳥かごに添えた。
「篤志さんに謝ったんじゃない。由紀に謝ってた」
「分かってる。中のやつも、分かってる。それでも、泣いてる」
慧が、運転席でハンドルを握りしめたまま、前を見ていた。車に戻る前に、耀司は一度だけ振り返った。父はまだ、シャッターの前に立っていた。白菊の代わりに、自分の額を、二十八年前に閉じた扉に押しつけたまま。
家に着くと、母が玄関で待っていた。衿子は、もう眠っていた。母は何も聞かなかった。ただ、三人の顔を順番に見て、「お茶、淹れようか」とだけ言った。
父が帰ってきたのは、夜中の一時過ぎだった。
玄関の扉が開き、静かに閉まる。足音は、寝室へ向かわず、書斎へ消えた。その夜、書斎の明かりは、朝まで消えなかった。
月曜の朝、父はいつもの時刻に家を出た。目の下の隈が、昨日よりも濃くなっていた。
朝食の席で、父はほとんど何も食べなかった。トーストに、バターも塗らなかった。新聞を広げたまま、同じ面をずっと見ていた。
「お父さん、大丈夫?」
衿子が尋ねると、父は顔を上げ、少しだけ笑った。
「大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけだ」
その笑顔は、いつもの父の笑顔と同じ形をしていた。けれど、目だけが、どこか遠くを見ていた。
母は、父の湯呑みにお茶を注ぎ、何も言わずに台所へ戻った。その背中が、ほんの少しだけ、震えていた。
その日の授業は、少しも頭に入らなかった。窓際の席で、耀司は昨夜のシャッターの前の父の背中を、何度も思い出していた。照真が、教室の窓から差し込む光の中で言った。
「昨夜のあの男の言葉は、誰の耳にも届いていない。おまえたちが聞いたことは、証拠にはならん。だが、あの男が、あの扉の前で何を思っているのかは、分かった。それで十分だ」
十一月九日、月曜日の夕方。
耀司が学校から帰ると、居間の電話が鳴った。宵宮登美からだった。
「耀司くん? 月代さんに、伝えてほしいことがあるの」
登美の声は、震えていた。
「由紀の部屋の机の引き出しを、二十八年ぶりに全部出してみたの。奥寺先生のお手紙を読んでから、あの子が何を考えていたのか、どうしても知りたくなって。そうしたら、引き出しの奥の板の裏に、封筒が一通、貼りつけてあった」
「封筒……」
「出さなかった手紙。あの子の字で、宛名が書いてある。……柾人お兄ちゃんへ、って」
耀司は、受話器を握りしめた。
「月代さんに、読んでもらいたいの。私一人では、読めなかった。最初の一行で、手が震えて」
登美に案内されて、月代は二階の由紀の部屋に入った。閉め切られた部屋の机の引き出しが、全部抜き出されて床に並べられていた。いちばん下の引き出しの奥の板に、茶色く変色したセロハンテープの跡が残っていた。
(この部屋の影が、少しだけ動いた)
暗がりの隅から、月守の声がにじんだ。昼でも、閉め切った部屋なら、声だけは届く。
(二十八年、震えていた椅子の影が、今日は、ほんの少しだけ静かになっている。隠していたものが、外に出たから)
月代は、勉強机の椅子の影を見た。前に来た時は、細かく震え続けていた影が、今はほとんど動いていなかった。
夕暮れの宵宮家の座敷で、月代は封筒を両手で受け取った。
手鏡で入れ替わり、少女の姿でここに来ている。照真の光で、耀司が霊体となって隣にいた。登美は、仏壇の前に座り、月代に背を向けていた。顔を見られたくないのだと、月代にも分かった。
封筒の表には、丸みのある、少女の字で書かれていた。
――柾人お兄ちゃんへ。
裏には、日付だけ。平成十一年一月三十日。
由紀が亡くなる、十一日前だった。
月代は、封筒をそっと開いた。便箋が一枚。読み上げるべきか、迷った。照真が、月代の肩越しに言った。
「読むのは、おまえだ。だが、何を声に出すかは、おまえが選べ。この手紙は、由紀のものだ。由紀が誰にも見せたくなかったことまで、読み上げる必要はない」
月代は、黙って便箋を広げた。
――柾人お兄ちゃん。
――あの夜のこと、ずっと聞けませんでした。
――篤志くんに話をつけてくれるって言ってくれた夜。次の日、お姉ちゃんが帰ってこなくて、篤志くんがいなくなって、私はどうしたらいいのか分からなくなりました。
――お葬式の夜、お母さんに、もう怖くないって言ってしまいました。篤志くんがいなくなって、もう誰にも脅されないって思って、ほっとしてしまったから。お姉ちゃんが死んだのに。私は、ひどい妹です。
――お兄ちゃん。篤志くんは、本当に家出したの?
――お兄ちゃんは、あの夜、篤志くんに何を言ったの?
――私が、お兄ちゃんに頼んだから、何か悪いことが起きたの?
――聞きたいのに、聞くのが怖いです。お兄ちゃんが、あの日からずっと、私の顔を見ないから。
――十字架、まだ持っていてくれていますか。
手紙は、そこで途切れていた。署名もなかった。
月代は、便箋を膝の上に置いた。声に出して読んだのは、最初の三行と、最後の一行だけだった。それ以外は、黙って目で追った。耀司にも、意識を通して伝わっていた。けれど、二人とも、それを声にはしなかった。
照真が、静かに言った。
「事実と、推測を分けろ」
照真の光が、便箋の上に落ちた。
「事実。由紀は、あの夜、柾人に話をつけてくれるよう頼んだ。由紀は、篤志が家出したと聞かされ、それを疑っていた。由紀は、柾人が何をしたのか、知らなかった。由紀は、もう怖くないと言ったことを、自分で責めていた。由紀は、十字架の行方を気にしていた」
照真は、光を少しだけ弱めた。
「そして、事実。この手紙は、出されなかった。柾人は、由紀のこの問いを、一度も読んでいない」
照真の声が、わずかに沈んだ。
「推測。由紀が、何かに気づいていたかどうか。それは、この手紙からは分からない。分からないことは、分からないままにしておけ」
月代は、手紙をたたんで封筒に戻した。
「由紀は、何も知らなかったんだ」
月代の声が、震えていた。
「もう怖くないって言ったのは、篤志さんから逃げられて、ほっとしただけ。それを、自分で、ずっと責めてた。ひどい妹だって」
月代は、仏壇の方へ向き直った。遺影の中の由紀が、制服姿で、少しだけはにかんで笑っていた。
「由紀は、ひどい妹なんかじゃない」
月代は、遺影に向かって言った。
「怖い思いをして、それでも誰かを信じて、助けてって言えた。それだけで、十分だった」
登美の背中が、大きく震えた。
「……ありがとう」
登美は、振り返らずに言った。
「二十八年、あの子が何を考えていたのか、私は知らなかった。もう怖くないって言ったあの子の顔を、ずっと疑ってた。……ごめんね、由紀。お母さん、あなたを疑ってた」
照真が、座敷の光の中で目を伏せた。
「由紀の疑いは、晴れた。由紀は被害を受けた者であり、誰の罪にも加担していない。それが、正真正銘の事実だ」
しばらくして、登美が振り返った。目は赤かったが、声は落ち着いていた。
「月代さん。この手紙、警察に持っていくのね」
「……登美さんが、いいと言ってくれたら」
「いいわ」
登美は、きっぱりと言った。
「でも、一つだけ、お願いがあるの。この手紙は、由紀が誰にも見せなかったもの。必要なところだけ、見てもらって。あの子が恥ずかしいと思うところまで、人目にさらさないで。あの子のことは、あの子のものだから」
「はい。必ず」
月代は、深く頭を下げた。
「戸叶さんにも、桑原さんっていう刑事さんにも、そう伝えます」
「それから」
登美は、仏壇の遺影を振り返った。
「茉莉のことも、由紀のことも、もう疑わない。二人とも、ちゃんと生きて、ちゃんと誰かを信じた。それだけ覚えていれば、私は、あと何年でもここに座っていられる」
宵宮家からの帰り道、月代は少女の姿のまま、川沿いの道を歩いた。照真の光で、霊体の耀司が隣を歩いている。
「十字架、まだ持っていてくれていますか」
月代が、手紙の最後の一行を繰り返した。
「由紀は、それが一番知りたかったんだね。お父さんが、自分の気持ちを、まだ首にかけてくれているかどうか」
「父さんは、なくしてた。あの夜に」
「うん。……でも、今は、ピー助が持ってる。由紀の気持ちは、ずっと、うちにあったんだね。十三年間。窓辺の鳥かごの中に」
耀司は、何も言えなかった。川面に、夕陽が長く伸びていた。
「全部終わったら、あの十字架、どうしたらいいんだろう」
「……それは、たぶん、ピー助が決める」
月代は、小さくうなずいた。
家に帰ると、衿子が居間でピー助のかごを膝に乗せていた。
月代は宵宮家の生け垣の陰で身体を耀司に返していた。夕陽が沈み、照真が光の粒になって消える。居間の隅の暗がりから、月守が立ち上がった。
「耀司。ちょっと、いい?」
衿子が言った。
「慧から、少しだけ聞いた。お父さんのことで、耀司がずっと何かを調べてるって。慧は、それ以上は自分の口からは言えないって」
衿子は、膝の上のかごを見下ろした。
「それと、慧が変なことを言ってた。耀司には、もう一人いるって。何のことか、全然分からなかった」
耀司は、慧の方を見た。台所の入口に立っていた慧が、気まずそうに目をそらした。
(耀司)
内側で、月代が言った。
(衿子姉さんに、会いたい)
(いいの?)
(うん。ちゃんと、私の口で)
耀司は、手鏡を取り出した。衿子の目の前で。
「姉さん。見ててほしい」
「自分は誰?」
「自分は誰?」
「――自分は、月代」
衿子の膝の上で、鳥かごがかたりと揺れた。衿子は、目を見開いたまま、動かなかった。
耀司の髪が伸び、肩が細くなり、少女の顔が現れる。少女は、衿子の前に膝をついた。
「はじめまして、衿子姉さん。……本当は、はじめましてじゃないんだけど」
衿子は、口を半分開けたまま、少女の顔を見つめていた。
月守が、月代の背に手を当てた。月代の影がふっと揺れて、霊体の耀司が静かに姿を現した。衿子には見えない。けれど耀司は、月代のすぐ後ろに立ち、姉の顔を見下ろしていた。
「私、月代っていいます。耀司と一緒に、生まれた時から、この身体の中にいるの。双子として生まれるはずだったのに、一つの身体になっちゃった」
「……月代」
衿子が、かすれた声で繰り返した。
「つきしろ」
「うん」
「……耀司が小さい頃、一人で、つきちゃんって話しかけてた」
「それ、私」
衿子の目から、ぽろりと涙が落ちた。
「なんで、泣いてるんだろう、私」
衿子は、自分の頬に手を当てた。
「びっくりしてるのに、怖くない。ずっと前から、知ってた気がする」
月守が、月代の後ろで静かに言った。
(選ばせてあげて。この人が、どこまで知りたいのか)
月代は、衿子の手を、そっと握った。
「姉さん。私たちが調べてること、全部話すこともできる。でも、その中には、姉さんが聞いたら苦しくなることもあると思う。姉さんに関係のあることも、たぶん、ある」
衿子は、月代の手を握り返した。
「……私に、関係のあること」
「うん。だから、姉さんが決めて。全部聞くか、聞かないか。今聞くか、いつか聞くか。どれを選んでも、姉さんは姉さんだよ」
衿子は、長いこと黙っていた。膝の上の鳥かごの中で、ピー助がじっと衿子を見上げていた。
「……今は、いい」
やがて、衿子は言った。
「お父さんのことは、聞かなきゃいけないと思う。それは、ちゃんと聞く。でも、私に関係のあることは、今は聞かない。聞きたくなった時に、私から聞く。それでもいい?」
「うん。それがいい」
月代は、少しだけ笑った。
「ありがとう、姉さん」
衿子は、涙を拭きながら、まじまじと月代の顔を見た。
「……かわいい」
「え」
「だって、こんなかわいい妹がいたなんて。ずるい。耀司、ずっと隠してたの?」
「隠してたっていうか」
「月代、何が好き? 食べ物とか」
「いちご大福」
「いちご大福! 慧が最近、やたら買ってきてたの、あれ月代のだったの?」
台所の入口で、慧が「……ばれたか」と小さくつぶやいた。衿子は、泣き笑いの顔で慧をにらみ、それから月代の両手を握った。
「今度、一緒に食べよう。私が買ってくる。耀司が胸焼けしても知らない」
(ひどい)
月代の後ろで、霊体の耀司がぼやいた。月代は、声を立てて笑った。
衿子の膝の上で、ピー助が小さく鳴いた。
家族の耳には、チチッ、という短いさえずりにしか聞こえない。けれど月代には、その声が言葉になって届いた。
「なあ。月代。姉貴に、伝えてくれ」
ピー助の声は、かすれていた。ピー助自身の、黒い目だった。
「十三年、ありがとうって。おはようって、毎朝言ってくれて、ありがとうって。……それだけでいい。謝れとか、許せとか、そういうのは、いらねえ。俺は、中のやつの代わりに謝れる立場じゃねえし、姉貴が許すことでもねえ」
月代は、衿子の顔を見た。
「姉さん。ピー助がね、十三年、ありがとうって。毎朝おはようって言ってくれて、ありがとうって」
衿子は、目を丸くした。
「ピー助、喋るの?」
「私と耀司にだけ。……口がすごく悪いの」
「うるせえ」
ピー助が言い、月代は笑った。
「今、うるせえって」
衿子は、泣きながら笑った。鳥かごの扉を開け、ピー助を両手で包むように取り出す。ピー助は、逃げなかった。衿子の手のひらの上で、小さく羽を膨らませた。
「こちらこそ、ありがとう。うちに来てくれて」
衿子は、ピー助の小さな頭に、額をそっと寄せた。
「怖がらなくていいよ。何があっても、私はピー助のこと、好きだから」
ピー助は、何も言わなかった。ただ、衿子の手のひらの中で、静かに目を閉じた。
しばらくして、ピー助は衿子の手のひらから飛び立ち、月代の肩に止まった。それから、首の十字架を、月代の頬に軽く押し当てた。冷たい銀の感触だった。
「……これは、まだ俺が持っとく」
ピー助が、月代にだけ聞こえる声で言った。
「最後に、返すべきところに返す。それまでは、俺が預かる」
「うん」
月代は、肩の上の小さな重みに、そっと頬を寄せた。
霊体の耀司は、その光景を、月代の後ろから見つめていた。
由紀が受けた被害は、由紀のものだった。由紀が自分を責めた言葉も、由紀のものだった。そして、ここにいる衿子は、衿子だった。誰かの過去の代わりではなく、今、文鳥を手のひらに包んで泣いている、二十六歳の保育士の姉だった。
月守が、静かに言った。
「被害を受けた人の言葉は、その人のもの。誰かの物語の材料にしてはいけない。今夜、あなたたちは、それを守った」
台所の入口で、慧が腕で目元を拭っていた。
玄関の方から、鍵の回る音がした。図書館の遅番を終えた母だった。
「あ、お母さん」
衿子が慌てて振り返る。月代は、手鏡を握った。
(今は、まだ)
(うん。お母さんには、全部が終わってから)
「自分は誰?」
「自分は誰?」
「――自分は、耀司」
母が居間に入ってきた時、そこには、ピー助を手のひらに包んだ衿子と、鼻をすする慧と、少し髪の乱れた耀司がいるだけだった。
「あら、みんなでどうしたの。泣いてるの?」
「ピー助が、かわいくて」
衿子が言うと、母は不思議そうに首をかしげ、それから、ふっと微笑んだ。
「そう。……よかった」
父は、まだ帰っていなかった。
夜が更けてから、耀司の部屋に、月守と、霊体の月代が並んでいた。
「明日」
耀司が言った。
「戸叶さんが、桑原さんを連れてくる。証言してくれる人たちと、記録と、由紀さんの手紙と。全部そろったら、父さんに、聞く」
「三番倉庫のシャッターの向こうに、何があるのか」
月代が、続けた。
月守は、窓の外を見上げた。
「明日の境目に、わたしと照真は、残っている力のほとんどを使う。あなたたちが、最後の問いを投げる場所を作るために。……覚悟は、いい?」
二人は、同時にうなずいた。
月守は、少しだけ微笑んだ。その輪郭は、今夜もまた、少し薄くなっていた。
「いい顔。……わたしたちが目を覚ました夜、あなたたちは、まだ泣くことしかできない赤ん坊だった。十六年で、ずいぶん遠くまで来た」
窓の外で、欠けた月が雲の切れ間から顔を出した。満ちていこうとする月の光が、机の下の桐の箱を、かすかに照らしていた。
居間の窓の外で、欠けた月が、少しずつ満ちていこうとしていた。
(第17話 了)




