乾坤一擲
十一月十日、火曜日。夜明けの境目に、照真と月守が並んで立っていた。
二人の輪郭は、どちらも薄かった。照真の白金の光は、いつもの半分ほどの明るさしかなく、月守の黒い衣は、朝の光に透けて向こうの壁が見えた。
「今日の夕方の境目に、わたしたちは残っている力を使う」
照真が言った。
「おまえたちが、すべての記録を一本の線に並べる。その線を、わたしが照らす。月守が、記憶の断片で線の継ぎ目をなぞる。だが、覚えておけ。わたしたちの力は、並べるためにしか使わん。誰かに何かを言わせる力ではない。言うのは、あの男自身だ」
「乾坤一擲」
月守が、静かに続けた。
「天と地を賭けて、さいころを一度だけ投げること。一度きりの勝負。二度目は、ない。わたしたちにも、あなたたちにも」
朝日が差し、月守が溶けていく。消える直前、月守は耀司と、その内側の月代に向かって、少しだけ微笑んだ。
「怖がらないで。投げるのは、あなたたち。でも、さいころの目を決めるのは、あの人」
朝食の席には、父の姿がなかった。母によると、夜明け前に起きて、何も食べずに役場へ出かけたのだという。
「今日の夕方、早く帰るって。耀司に、話があるって」
母は、そう言って、耀司の顔を見た。母は、今日の夕方に何があるのかを、もう知っていた。慧も、衿子も知っていた。四人は、誰も口に出さずに、それぞれの朝食を終えた。
学校では、一日じゅう、時計ばかり見ていた。照真の光が、教室の窓辺で、時々弱く瞬いた。
学校から帰ると、耀司は自分の部屋で手鏡に問いかけた。
「自分は誰?」
「自分は誰?」
「――自分は、月代」
少女の手で、月代は机の上に記録を一枚ずつ並べた。今日の夕方、居間のテーブルに並べる順番を、もう一度確かめるためだった。
一番目に、父の言葉。四影封路の中に留めた、あの夜の父の話。
二番目に、時刻の記録。滝本の乗務手帳。
三番目に、鍵の記録。教育委員会の会議録、芦原の貸出簿の消された一行と返却の行。
四番目に、十字架の記録。宝飾店の注文控え、刻印の写真、由紀のノートの筆圧の跡。
五番目に、白菊の記録。春江の現金書留の便箋、二十八通。
六番目に、黙らされた記録。戸叶の日報、手紙の写し、奥寺のノートの貸し出し。
最後に、由紀の手紙。
「この順番でいい?」
月代が聞くと、内側で耀司が答えた。
(いい。父さんが自分で認めたことから始めて、父さんがまだ認めていないところへ近づいていく)
並べ終えると、月代は机の前で、しばらく動かなかった。
「これを、お父さんの前に並べるんだね」
(うん)
「お父さん、どんな顔をするんだろう」
(分からない。でも、どんな顔でも、ちゃんと見る)
月代は、机の端に置いた由紀の手紙の封筒に、そっと指先で触れた。
「由紀。今日、お兄ちゃんに、ちゃんと聞いてくるね」
「最後の問いは、二人で」
(うん。二人で)
月代は、手鏡に問いかけて、身体を耀司に返した。
四時半に、玄関の呼び鈴が鳴った。
耀司が扉を開けると、戸叶と、もう一人の初老の男が立っていた。男は、耀司の顔を見るなり、帽子を取って小さく頭を下げた。
「君が、耀司くんか」
男の声は、低く、しゃがれていた。
「二十八年前、私はあの事件の初動の捜査にいた。家出の届けが出ていた少年のことは、当時、誰も事件と結びつけなかった。戸叶さんが匿名の電話の話を持ってきた時も、私は裏が取れないと言って突き返した。……あの時の私を、君たちが今、もう一度、あの路地に立たせてくれた」
男は、玄関の上がり口で、もう一度深く頭を下げた。
「ありがとう。そして、すまなかった」
戸叶が、男の肩を軽く叩いた。
「証言してくれる人たちは、公民館の和室で待ってる。奥寺先生が場所を貸してくれた。柴崎さんも、芦原の爺さんも、野上も、滝本さんも。宵宮さんの奥さんもだ。今夜、必要になったら、すぐに来てもらえる」
夕方五時。影浦家の居間に、八人が集まった。
テーブルの上座に、父。その向かいに、耀司。母と衿子と慧が、耀司の側に並んで座った。戸叶と、もう一人、背の低いがっしりとした初老の男が、テーブルの端に座っていた。
「県警の桑原です」
男は、短く頭を下げた。白髪の短い髪、日に焼けた太い首。目尻の皺が深く、目だけが鋭かった。
「今日は、正式な取り調べではありません。戸叶さんから、二十八年前の事件について新しい話があると聞いて、伺いました。私は、聞くだけです。……影浦さん。よろしいですか」
父は、しばらく桑原の顔を見ていた。それから、穏やかに微笑んだ。
「構いませんよ。息子が、ご迷惑をおかけしているようで」
衿子が、ピー助の鳥かごを膝の上に抱えていた。ピー助は止まり木の上で、背筋を伸ばし、まっすぐに父を見ていた。
窓の外で、日が傾き始めていた。
照真が、居間の窓辺に立った。その光は、朝よりもさらに淡かった。居間の隅の、照明の届かない暗がりで、月守の気配が息をひそめている。境目まで、あと少し。
「月代を」
照真が、耀司の背に手を当てた。影の中から、月代が立ち上がる。父にも、母にも、桑原にも、戸叶にも見えない。慧と衿子だけが、耀司の隣の空いた空間に、そっと目をやった。
月影同座。耀司と月代が、並んで座った。
「父さん」
耀司は、口を開いた。
「先週の土曜日、父さんはみんなの前で、二十八年前の夜のことを話してくれた。宿直を抜け出して、劇場の裏で久賀篤志さんに会った。由紀さんに頼まれて。揉み合いになって、由紀さんにもらった十字架を引きちぎられた。久賀さんは、十字架を持って雨の中へ逃げた。父さんは、すぐに宿直に戻って、十時前には役場にいた。……そうだよね」
「ああ。そう話した」
「その夜、宿直室から、母さんの家に電話はかけなかった」
「かけなかった。気が動転していた」
照真の光が、テーブルの上に落ちた。父の言葉が、四影封路の中に留められた形のまま、耀司と月代の目にだけ浮かび上がる。
耀司は、一冊目の記録を、テーブルの真ん中に置いた。
「これは、当時鏡ヶ浦交通のタクシー運転手だった、滝本与一さんの乗務手帳。九月二十七日の日曜日、夕方から雨。二十三時五分に、倉庫街の入口から役場の前まで、男の人を一人乗せてる。ずぶ濡れで、傘は持っていたのに差していなかった。首元を、しきりに触っていた」
桑原が、手帳を手に取った。老眼鏡をかけ、ページを長いこと見つめていた。
「滝本さんは、その男の人を役場の前で降ろした。男の人は、宿直を抜け出したのがばれたら首になるから、誰にも言うなって言った」
父は、黙っていた。
「父さんは、十時前に役場に戻ったって言った。でも、十一時過ぎに、倉庫街の入口からタクシーに乗った人がいる」
「……私だとは限らない」
父が、静かに言った。
「その夜、宿直を抜け出した役場の職員が、私一人だったとは限らないだろう」
桑原が、手帳から顔を上げた。
「影浦さん。その夜の宿直は、あなた一人でした。今日の昼、役場の書庫で、平成十年の宿直日誌を確認してきました」
桑原は、鞄から一冊の古い日誌の写しを取り出した。
「九月二十七日。宿直者、影浦柾人。二十一時、庁舎内見回り、異常なし。二十二時、異常なし。二十三時、異常なし。零時、異常なし。……全部、あなたの字だ」
照真が、日誌の写しに光を落とした。
「二十三時、庁舎内見回り、異常なし。同じ二十三時五分、倉庫街の入口。歩いて三十分、車で七分。この男は、同じ時刻に、二つの場所にいたことになる」
桑原は、日誌と手帳を並べた。
「二十三時に庁舎の中を見回った人が、五分後に、川沿いの倉庫街の入口で、ずぶ濡れでタクシーを拾うことはできません。どちらかの記録が、嘘をついている。滝本さんの手帳は、四十年分、一日も欠かさずつけられたものです。この日誌は」
桑原は、日誌の写しの文字を指でなぞった。
「全部の時刻が、同じ濃さのインクで、同じ勢いで書かれている。二十一時から零時まで、一晩かけて書いたものとは思えない。……あとから、まとめて書いたように見える」
父は、日誌の写しから目をそらした。
「宿直の夜は、まとめて書くこともある。眠い時には、朝になってから」
「では、零時の欄も、朝になってから書いたと」
桑原の問いに、父は答えなかった。窓の外で、カラスが一羽、鳴きながら飛んでいった。
父の顔から、微笑みが消えていた。
「耀司」
父が、低い声で言った。
「おまえは、父さんを、犯人にしたいのか」
居間の空気が、凍りついた。母が、小さく息をのむ。
耀司は、父の目をまっすぐに見返した。隣で、霊体の月代が、耀司と同じように父を見ていた。
「したくない」
耀司は言った。
「僕も月代も、父さんが犯人じゃなかったらいいって、ずっと思ってた。今も思ってる。だから、確かめてる。父さんが言ったことと、記録に書いてあることが、どこで同じで、どこで違うのか。それだけ」
父は、何も言い返さなかった。
耀司は、二冊目の記録を置いた。教育委員会の会議録の写し。九月二十日、旧鏡座の点検のため、管理人より裏口の鍵の複製一本を借用。担当、事務局主事、影浦柾人。その隣に、芦原の貸出簿の写真。修正液で消された一行と、別の筆跡で書かれた「十月一日 返却済」。
「滝本さんは、父さんが役場の前で降りる時、ポケットから真鍮の鍵を落としかけたのを覚えていた。札がついた、古い建物の通用口の鍵。芦原さんの物置にある複製の鍵と、同じ形」
「点検のための鍵だ。持っていて当然だろう」
父の声は、まだ落ち着いていた。けれど、組んだ両手の指先に、白く力がこもっていた。
「返し忘れていただけだ。点検が長引いて、引き渡しの日まで手元にあった。それだけのことだ」
「それなら、どうして芦原さんに、貸出簿の行を消してくれって頼んだの」
耀司が言うと、父の指が、ぴくりと動いた。
「消した理由が、返し忘れだけなら、消す必要はなかった。会議録には、ちゃんと残ってるんだから」
桑原が、会議録の写しと貸出簿の写真を、黙って並べ直した。
「劇場は、その夜の零時に町に引き渡されることになっていた。点検は、もう終わっていた。父さんは、どうして、あの夜、劇場の裏口の鍵を持っていたの」
父は、答えなかった。
耀司は、三冊目を置いた。宝飾店の注文控え。刻印の写真。
「父さんは、十字架は久賀さんに引きちぎられて、久賀さんが持って逃げたって言った。でも、久賀さんは、劇場の大道具の出勤簿に、退勤の記録がない。あの夜、劇場から出た記録が、どこにもない」
「片付けの途中で、逃げたんだろう。記録をつける者が、見落としただけだ」
父は、間を置かずに答えた。けれど、その言葉が終わる前に、耀司は宝飾店の控えの写しを指さした。
「この十字架を注文したのは、宵宮様。受け取りは八月二十九日。刻印は、M.K.、千九百九十八年八月三十日。……父さんの、二十四歳の誕生日」
父の目が、控えの写しの上で止まった。そこに書かれた、少女の名字の上で。
衿子の膝の上で、ピー助が身じろぎした。目の奥が、赤く濁り始めていた。
耀司は、もう一つ、記録を置いた。戸叶の取材日報の印刷。奥寺のノートの十月七日のページ、名刺のホチキスの穴。戸叶が奥寺に宛てた手紙の写し。
「事件のあと、父さんは、教育委員会の主事として、新聞社に報道を控えるよう頼んだ。学校に来て、家出の生徒の名前を卒業記念誌から消すように協議した。奥寺先生のノートを一晩借りて、返ってきた時には、自分の名刺がなくなっていた」
「それは、仕事だ」
父が、低く言った。
「上から言われた仕事を、言われたとおりにやっただけだ」
「先週の日曜日、戸叶さんの机の引き出しから、取材メモの原本がなくなった」
戸叶が、耀司の言葉を引き取った。
「その日の午後、あなたは、俺のいない編集長室で、十分ほど一人で待っていた。菅沼が見ている。……その夜、あなたの家の庭で、何かが燃やされていた。息子さんたちが見ている」
慧が、父から目をそらさずに、小さくうなずいた。
父は、何も言わなかった。
耀司は、四冊目を置いた。春江から預かった、二十八通の現金書留の封筒と、便箋の写真。
「父さんは、二十八年間、毎年九月二十八日に、花ごよみの柴崎さんに頼んで、川沿いの倉庫街の三番倉庫の前に、白い菊を届けてもらっていた。差出人の名前のない現金書留で。……母さん」
母が、震える指で便箋の写真に触れた。
「あなたの字。月の字の、最後の跳ね」
母は、父の顔を見た。
「あなた。あの朝、うちに来て、靴を洗わせてほしいって言った。宿直室の前の植え込みで転んだって。あれは、川の泥だった。私、ずっと覚えてた」
父は、母の顔を見なかった。テーブルの上の、二十八通の封筒を見つめていた。
「二十八年」
母が、ほとんど聞こえない声で言った。
「毎年九月になると、あなた、少しだけ無口になった。私は、仕事が忙しい時期なんだって思ってた。九月の終わりに、一人で散歩に出かけて、夕方まで帰ってこない日があった。……あれは、倉庫街へ行ってたの?」
父の肩が、ほんのわずかに揺れた。
「三番倉庫は、町の持ち物です」
戸叶が、初めて口を開いた。
「うちの菅沼が、町の財産台帳と議会の議事録を調べた。平成二十七年、倉庫街の再開発で、町有の倉庫は全部取り壊された。三番倉庫を除いて。三番倉庫だけが、構造調査中という理由で、解体が見送られている。それから毎年、同じ理由で。担当は、総務課の影浦柾人さん。十一年間、ずっと」
慧が、テーブルの縁を握りしめていた。
「親父」
慧の声が、かすれていた。
「なんで、三番倉庫だけ、残したんだ」
父は、長いこと何も言わなかった。
窓の外の夕陽が、山の端に触れた。居間の影が、二重になる。照真の輪郭が、赤い光の中で揺らいだ。その隣に、居間の隅の暗がりから、月守が立ち上がった。
境目の時間だった。二人の守護者が、同時に、居間の真ん中に手をかざした。
照真の光が、テーブルの上の記録を、一枚ずつ照らしていった。手帳。日誌。会議録。貸出簿。注文控え。刻印。封筒。日報。手紙の写し。一枚が照らされるたびに、耀司と月代の目には、その記録が光の糸で隣の記録とつながっていくのが見えた。
月守の影が、光の糸の継ぎ目を、そっとなぞっていく。雨の夜の路地。傘の人影。千切れた鎖。重たいシャッターの音。走る足音。タクシーのドア。泥だらけの靴。月守の影は、記録と記録の間に、二十八年前の夜の断片を、ほんの一瞬ずつ映しては消した。
それは、家族にも、桑原にも、戸叶にも見えなかった。けれど、テーブルを囲む全員が、何かが部屋の空気を変えたのを感じていた。母が、衿子の手を握った。慧が、息を止めた。桑原が、老眼鏡を外して、ゆっくりと目を閉じた。
光の糸は、最後に、一点で結ばれた。
三番倉庫。
照真の輪郭が、ほとんど透けていた。月守の衣が、夕闇に溶けかけていた。二人とも、残っていた力のほとんどを、この一瞬に使っていた。
(照真。月守)
月代が、心の中で呼んだ。
(大丈夫だ。まだ、ここにいる)
照真の声が、遠くから聞こえた。
(あなたたちの影がある限り)
月守の声が、それに重なった。
桑原が、目を開けた。老眼鏡をかけ直し、テーブルの上の記録を、端から端まで、もう一度ゆっくりと見渡した。
「影浦さん。私は、聞くだけだと言いました。それは変わりません。ただ、警察官として一つだけ言っておきます。今ここに並んでいるものは、どれも、この子たちの想像ではない。別々の人間が、別々の場所で、別々の時に書き残したものです。それが、全部、同じ場所を指している」
「……少年は、逃げた」
父が、かすれた声で言った。
「あの少年は、十字架を持って、雨の中へ――」
衿子の膝の上で、ピー助が鋭く鳴いた。
家族の耳には、甲高い鳴き声にしか聞こえない。けれど耀司と月代には、その声がはっきりと言葉になって届いた。
「逃げてない」
年上の、乾いた声。久賀篤志の霊の声だった。
「俺は、逃げてない。あの路地から、一歩も出てない。おまえが、俺を運んだんだ。冷たいところへ。暗いところへ」
ピー助の目は、真っ赤に濁っていた。けれど、ピー助は暴れなかった。止まり木の上で、まっすぐに父を見つめたまま、霊の言葉を、そのまま声にしていた。中の霊を押さえるのではなく、中の霊が言いたいことを、最後まで言わせてやっているのだと、耀司には分かった。
「父さん」
耀司は言った。
「ピー助が、逃げてないって言ってる」
桑原が、怪訝そうに鳥かごを見た。戸叶も、母も、首をかしげた。
けれど、父だけは違った。父は、鳥かごの中の文鳥を、凍りついたように見つめていた。文鳥の首から下がる、小さな銀の十字架を。
「……ばかな」
父の唇が、かすかに動いた。
「鳥が、何を」
衿子が、鳥かごを胸に抱きしめた。
「お父さん。ピー助は、私が十三年前に、三番倉庫のシャッターの前で拾った子だよ」
衿子の声は、震えていなかった。
「羽を怪我して、シャッターの前でうずくまってた。しばらくしたら、首に十字架を下げてた。誰がつけたのか、誰も知らない。……お父さんは、知ってるの?」
父は、答えなかった。答えられなかった。
母が、衿子の背中にそっと手を置いた。衿子は鳥かごを抱えたまま、父の顔を見つめ続けていた。目は赤かったが、そらさなかった。
慧が、拳をテーブルの上で開いた。
「親父。俺たちは、親父を責めに来たんじゃない。……確かめに来たんだ。親父が何をしたのか。何をしなかったのか。それだけなんだよ」
慧の声が、震えて途切れた。
居間が、静まり返った。
夕陽が、山の向こうに沈んでいった。照真の光が、粒になってほどけていく。月守の影が、夜の闇の中へ深く沈んでいく。二人とも、まだ消えてはいなかった。けれど、もう、ほとんど何も照らすことはできなかった。
あとは、二人の番だった。
耀司と月代は、顔を見合わせなかった。見合わせる必要がなかった。手鏡も使わなかった。二人の意識の中で、同じ問いが、同じ瞬間に、形を結んだ。
「父さん」
「お父さん」
耀司の声と、月代の声が、重なった。月代の声は、家族には聞こえない。けれど父には、二つの声が聞こえたような気がしたのかもしれない。父の目が、耀司の隣の、誰もいないはずの空間に、ほんの一瞬だけ向いた。
「三番倉庫のシャッターの向こうに、何があるの」
二つの声が、一つの問いになった。
父は、長いこと、テーブルの上の記録を見つめていた。滝本の手帳。宿直日誌の写し。会議録。貸出簿。注文控え。二十八通の封筒。そして、テーブルの端に、まだ置かれていない最後の一通。由紀の手紙。
父の手が、ゆっくりと上着の内ポケットに入った。
取り出したのは、小さな鍵だった。錆びた、古い南京錠の鍵。真鍮の札が下がっていて、そこに、かすれた墨の字で「三」と書かれていた。
父は、その鍵を、テーブルの真ん中に置いた。二十八通の封筒の上に。
母が、息をのんだ。衿子が、鳥かごを抱く腕に力を込めた。慧は、椅子から半分腰を浮かせたまま、動けなかった。
桑原は、鍵に手を触れなかった。ただ、その小さな錆びた鍵を、長いこと見つめていた。二十八年前、自分が見落としたものの重さを、確かめるように。
「……二十八年、ずっと持っていた」
父の声は、ひどく静かだった。
「捨てられなかった。開けることも、できなかった」
父は、眼鏡を外した。裸の目が、耀司の顔を見た。それから、耀司の隣の、誰もいないはずの空間を見た。
「あそこには――」
父の唇が、震えた。
(第18話 了)




