一網打尽
「あそこには――久賀くんがいる」
父の声は、ほとんど息のようだった。
居間の時計の音だけが、やけに大きく響いた。母が、両手で口を覆った。衿子が、鳥かごを抱きしめた。慧は、椅子の背をつかんだまま、動けなかった。
桑原は、テーブルの上の錆びた鍵を見つめたまま、静かに言った。
「影浦さん。今の言葉は、聞きました」
「……私は」
父は、眼鏡を外したままの裸の目で、テーブルの記録の束を見下ろした。
「私は、あの少年を許せなかった。あんたたちは知らないだろう。あの少年が、由紀ちゃんに何をしたのか。あの子が、どんな目に遭って、どんな顔で私に助けを求めてきたのか。それを知っていたら、誰だって――」
「やめて」
耀司の口から出たのは、耀司の声ではなかった。
内側で、月代が、耀司の喉を借りていた。身体は耀司のまま、声だけが少女のものだった。母が、はっと耀司を見た。桑原と戸叶が、顔を見合わせた。
「由紀さんのことを、言い訳に使わないで」
父の目が、大きく見開かれた。
耀司は、手鏡を取り出した。家族の前で。桑原と戸叶の前で。
(いいの?)
(いい。お父さんに、私の顔を見せる)
「自分は誰?」
「自分は誰?」
「――自分は、月代」
耀司の髪が伸び、肩が細くなり、少女の顔が現れた。
母が、椅子から腰を浮かせた。桑原が老眼鏡を外し、戸叶の手からペンが落ちた。慧と衿子だけが、静かに見守っていた。
父は、少女の顔を見て、凍りついた。
「……茉莉、さん」
かすれた声だった。父自身、なぜその名を口にしたのか分かっていないようだった。
「私は、月代です」
月代は、父の目をまっすぐに見た。
「耀司と一緒に、この身体に生まれた、お父さんの子です。……そして、たぶん、茉莉の続き」
「耀司……?」
母の声が、震えていた。母は、少女の顔と、さっきまで耀司が座っていた椅子とを、何度も見比べた。
「お母さん。ずっと黙ってて、ごめんなさい」
月代は、母の方を向いて、小さく頭を下げた。
「耀司が小さい頃、一人で話しかけてた、つきちゃん。あれ、私なの。生まれた時から、ずっと一緒にいた」
母は、口元を両手で覆ったまま、少女の顔を見つめていた。やがて、その目から、静かに涙がこぼれた。
「……知ってた気がする」
母は、かすれた声で言った。
「耀司が赤ちゃんの頃、夜中に抱いていると、時々、女の子を抱いているような気がしたの。疲れてるんだって、思うことにしてた。……思うことにしてばかりね、お母さん」
慧が、母の肩にそっと手を置いた。衿子が、反対側から母の手を握った。
桑原は、老眼鏡を手にしたまま、しばらく黙っていた。それから、低く言った。
「今見たことは、調書には書けんな」
「書かなくていい」
戸叶が、床に落ちたペンを拾いながら言った。
「書けるものだけで、もう十分にそろってる」
月代は、テーブルの端に置いていた最後の一通を、父の前に置いた。由紀の手紙だった。
「由紀は、何も知らなかった。お父さんが、あの夜、何をしたのか。最後まで、聞けなかった。もう怖くないって言った自分を、ひどい妹だって責めてた」
月代は、便箋を開き、最後の一行だけを指で示した。それ以外は、父に読ませなかった。
「由紀が、お父さんに一番聞きたかったこと」
――十字架、まだ持っていてくれていますか。
父は、その一行を見つめた。長いこと、見つめていた。
それから、テーブルに両手をつき、額を押しつけるように、深く頭を垂れた。
「……持っていられなかった」
父の肩が、震えた。
「あの夜、なくした。あの子の首の鎖を、あの子が握ったまま。私は、それを取り返すことも、できなかった」
戸叶が、携帯電話を取り出した。
「今から、来てもらう」
十分後、玄関の呼び鈴が鳴った。
公民館で待っていた人たちが、一人ずつ居間に入ってきた。
誰も、居間の真ん中に座る少女を見て、何も言わなかった。戸叶が電話で、何かを短く伝えていたのだろう。ただ、宵宮登美だけが、少女の顔を見て、足を止めた。
「月代さん……」
登美は、少女の顔と、その少女が座っている椅子の、影浦家の居間を見回した。耀司の家。耀司の椅子。
「そう。あなたが、耀司くんでもあったのね」
登美は、何かを理解したように、静かにうなずいた。それ以上は、何も聞かなかった。奥寺礼子。柴崎春江。芦原権蔵。野上達也。滝本与一。そして最後に、宵宮登美。
居間は、人でいっぱいになった。誰も座らなかった。壁際に並んで立ち、テーブルの父を見つめていた。
照真が、窓の外の夜空を見上げた。日は、とうに沈んでいた。昼の守護神は、夜には姿を保てない。けれど照真は、まだそこにいた。輪郭は、ほとんど見えないほど薄かった。
「一網打尽」
照真の声が、かすかに聞こえた。
「網を一度に引き上げること。今夜、この部屋に、二十八年分の網の目が、すべてそろった」
一人ずつ、短い言葉を置いていった。
「九月二十七日の夕方、俺は劇場の裏で、久賀と揉めた。五時過ぎに帰った。それきり、あいつには一度も会っていない」
野上が言った。
「その夜、裏口の外で、若い声と、低い大人の声が言い争っていた。わしは、地下にいて、上がっていかなかった」
芦原が言った。
「路地の入口で、茉莉ちゃんと男の人と高校生の男の子が話していた。そこへ、傘を差した若い男の人が近づいていった。次の朝、泥だらけの靴で白い菊を買いに来た人の名札に、影浦と書いてあった」
春江が言った。
「二十三時五分、倉庫街の入口から、役場の前まで。宿直を抜け出したことは、誰にも言うなと言われた」
滝本が言った。
「由紀さんは、二学期の初めに、私に相談に来ました。私は、あの子を守れなかった。卒業記念誌から男子生徒の名前を消す協議に来たのは、教育委員会の影浦主事でした」
奥寺が言った。
最後に、登美が、テーブルの父の前に立った。
「柾人くん」
登美の声は、震えていなかった。
「あなたが学生の頃、うちに勉強を教えに来てくれていた。由紀は、あなたのことを、お兄ちゃんって呼んで慕っていた。私も、あなたをいい子だと思っていた」
父は、顔を上げられなかった。
「茉莉が死んだ夜のことを、あなたは知っていたのね。二十八年、知っていて、毎年、うちの前を通っていたのね」
父の背中が、大きく震えた。
「……すみません」
「謝るのは、私にではないわ」
登美は、仏壇の方角を見るように、窓の外の夜を見た。
「あの子たちに。三人に。あなたが自分の口で、何があったのかを、全部」
登美の言葉のあと、壁際の人たちの間から、すすり泣く声がした。春江だった。芦原が、その肩に不器用に手を置いた。野上は、唇を噛んで床を見つめていた。滝本は、帽子を胸に当てて、目を閉じていた。奥寺は、背筋を伸ばしたまま、まっすぐに父を見ていた。
二十八年、それぞれが、それぞれの場所で黙ってきた人たちだった。その沈黙が、今夜、一つの部屋に集まっていた。
月守が、居間の隅の暗がりから、月代の隣へ歩み出た。夜の守り手の輪郭も、照真と同じように、ひどく薄くなっていた。
「今なら、使える」
月守が言った。
「影鏡真証。わたしと照真と、あなたたちと、ピー助と、手鏡と、十字架と、割れた大鏡。全部がそろった、今なら」
「照真は、夜には――」
「月の光は、日の光を映したもの。照真の最後の光は、今夜の月が運んでくれる」
月代は、月守の顔を見上げた。
「月守。これを使ったら、月守と照真は」
「分からない」
月守は、正直に言った。
「でも、わたしたちは、あなたたちの影から生まれた。あなたたちが自分で自分の影を見つめられるようになったなら、わたしたちの役目は、もうほとんど終わっている。……わたしたちのことは、心配しなくていい。今は、あの人を見て」
(月守)
霊体の耀司が、月代の後ろから呼んだ。
(十六年、ありがとう)
月守は、少しだけ目を細めた。
「まだ、お別れには早い」
窓の外に、満ちかけた月が昇っていた。その光が、居間の窓から斜めに差し込んでいた。
慧が、二階から桐の箱を抱えて下りてきた。耀司が、さっき頼んでおいたのだ。慧は、テーブルの記録の束を脇へ寄せ、箱の蓋を開けた。
月代は、割れた大鏡の破片を、テーブルの上に一枚ずつ並べた。金の縁取りの欠片、蔦の彫刻の欠片。父を囲むように、輪の形に。その真ん中に、手鏡を置いた。
衿子が、鳥かごの扉を開けた。ピー助は、迷わず飛び立ち、手鏡の縁に止まった。首から下がる小さな銀の十字架が、鏡の面に触れた。
「月影同座」
月守が、月代の背に手を当てた。月代の足元の影がゆらりと伸びて、霊体の耀司がその隣に現れた。家族にも、客人たちにも見えない。けれど父だけが、月代の隣の空間に、何かを見たように、目を細めた。
「覚えておいて」
月守が、輪になった破片を見下ろして言った。
「影鏡真証は、誰かの心を作り変えない。嘘を言わせることも、本当のことを無理に言わせることもできない。映すのは、もうそこにある記録と、もうそこにある記憶だけ。何を語るかは、鏡の前に座る人が決める」
「一度だけ、だよね」
月代が言うと、月守はうなずいた。
「この鏡が映せるのは、一度だけ。二度目は、ない」
月代は、輪の真ん中の手鏡に、そっと指先を添えた。
「自分は誰?」
声には出さなかった。心の中で、二人で問いかけた。答えは、もう分かっていた。耀司と、月代。二人とも、ここにいる。
月の光が、割れた鏡の破片の一枚一枚に落ちた。照真の最後の光が、月の光に乗って、破片の上で白く瞬く。月守の影が、破片と破片の間の暗がりに、細い糸のように伸びていく。
破片の一枚一枚が、違う角度から、同じ夜を映し始めた。
雨の路地。明滅する劇場の看板。笑う少年。怒る茉莉。手を引く聡。傘を差して近づく、若い父。
別の破片には、もっと古い光景が映っていた。劇場のロビーの大鏡の前で、小さな女の子が、自分の顔に話しかけている。――自分は誰? 幼い茉莉だった。その後ろを、まだ若い芦原が、笑いながら通り過ぎていく。
また別の破片には、少年の頃の篤志が映っていた。誰もいない教室で、窓の外を見ている。その横顔は、修学旅行の写真のような人懐っこい笑顔ではなく、ひどく寂しそうだった。
割れた鏡は、一枚だった時よりも多くの角度から、一つの町の、一つの夜の、その前と後ろを映していた。
その光景は、テーブルを囲む誰の目にも、はっきりとは見えなかった。ただ、割れた鏡の上で、月の光が揺れているように見えただけだった。
桑原は、テーブルの鏡の輪を、刑事の目でじっと見つめていた。何も見えないことを確かめるように。それでも、老いた刑事は、自分の手が汗ばんでいることに気づいて、そっと膝の上で握りしめた。戸叶は、カメラを構えかけて、やめた。撮るべきものではないと、記者の勘が告げていた。
けれど、父の目にだけは、見えていた。
父は、輪になった鏡の破片の中に、二十八年前の自分を見ていた。二十四歳の、眼鏡をかけていない、ずぶ濡れの自分を。
「影鏡真証」
月守と照真の声が、重なった。
「この鏡は、何も作らない。何も変えない。あなたが二十八年、見ないようにしてきたものを、あなたの前に並べるだけ」
父の唇が、動いた。
「あの少年は、笑った」
父の声は、低く、途切れ途切れだった。
「由紀ちゃんの手紙をひらひらさせて、笑った。あの子が、どんな顔で泣くのかを、楽しそうに話した。私は、少年の胸ぐらをつかんだ。少年は、私の首の十字架を握って、引きちぎった。揉み合いになって、少年は、裏口の鉄の階段に頭を打った。……動かなくなった」
母が、目を閉じた。衿子が、慧の腕にしがみついた。
「路地の入口に、男と女がいた。少年は、倒れる前に、仲間がそこで見てるぞ、と言った。私は、それを信じた。見られた、と思った。二人は、逃げた。私は、追った。倉庫街の入口の、七番倉庫の前で、追いついた」
父は、それ以上、言葉を続けられなかった。
月の光の中で、割れた鏡の一枚が、白く瞬いた。手を離さずに倒れる二人の影。それは、ほんの一瞬だけ映って、消えた。
月代の目から、涙が落ちた。霊体の耀司が、月代の肩の後ろに立っていた。
破片の中の、手を離さずに倒れた二人のうちの一人。雨に濡れた青年の横顔が、耀司の目には、はっきりと見えた。聡だった。その顔は、鏡の中でいつも見ている自分の顔とは似ていなかった。それでも、耀司には分かった。最後まで、茉莉の手を握っていた手が、自分の手だということが。
(逃げろって、言ったのに)
耀司は、心の中でつぶやいた。
(茉莉は、逃げなかった。手を、離さなかった)
(だから、今、ここにいるんだよ)
月代が、意識の中で答えた。
(二人で。手を離さなかったから)
「二人が動かなくなってから、女の顔を見た。由紀ちゃんの、お姉さんだった。……仲間なんかじゃ、なかった。少年が言ったのは、嘘だった。私は、嘘を信じて」
父は、両手で顔を覆った。
「戻って、少年を、劇場の裏口から、大道具の台車で運んだ。倉庫街の奥の、空いていた三番倉庫に。劇場の物置にあった南京錠で、シャッターを閉めた。二人は、運べなかった。もう、何も考えられなかった。それから、倉庫街の入口でタクシーを拾って、役場に戻った。日誌は、明け方に書いた」
居間は、静まり返っていた。
手鏡の縁で、ピー助が身を震わせていた。目の奥の赤い濁りが、ゆっくりと薄れていく。
手鏡の面に、一瞬だけ、少年の影が映った。篤志だった。少年の影は、鏡の向こうから、テーブルの破片の一枚に映る、手をつないだ二人の影を見つめていた。
(すまなかった)
声にならない声が、耀司と月代にだけ届いた。
(俺の嘘で、あんたたちまで。……すまなかった)
影は、すぐに消えた。ピー助の中で、篤志の霊が、何かを聞き届けたように、静かになっていくのが、耀司と月代には分かった。
「……二十八年」
父が、顔を覆ったまま言った。
「毎年、白菊を置かせた。三番倉庫だけは、壊させなかった。あの子を、誰にも見つけさせないために。……違う。いつか、誰かに見つけてほしかったのかもしれない。自分では開けられないから」
「あなた」
母が、椅子から立ち上がった。父の隣まで歩き、その丸まった背中を見下ろした。
「結婚する前の晩、一生かけて背負わなきゃいけないものがあるって、あなたは言った。私は、一緒に背負うって答えた。……何を背負っているのか、聞きもしないで」
母の声は、震えていたが、途切れなかった。
「今度は、聞いたわ。全部。だから、ちゃんと背負って。逃げないで。それが、あなたにできる、最後のことよ」
父は、母の顔を見上げた。何かを言おうとして、言えなかった。
慧が、拳をほどいて、低く言った。
「親父。俺に自転車を教えてくれた時、手を離しても、後ろで見ててくれたよな。……今度は、俺が見てる。だから、自分で開けに行け」
衿子は、手鏡の縁にとまるピー助を見つめていた。
「お父さん。ピー助を、どこかへやろうとしたの、もう怒ってない。でも、ピー助が首から下げてたもの、ちゃんと見て。由紀さんが、お父さんにあげたものなんでしょう」
父は、手鏡の縁の文鳥が下げる小さな十字架を見た。長いこと、見ていた。
桑原が、ゆっくりと立ち上がった。テーブルの上の錆びた鍵を、手袋をはめた手で拾い上げ、ビニールの袋に入れた。
「影浦柾人さん。今のお話は、改めて署で伺います。明日の朝、三番倉庫を開けます。鑑識と一緒に。……あなたも、立ち会いますか」
父は、顔を上げた。
眼鏡のない裸の目で、居間を見渡した。妻を。娘を。息子を。少女の姿の、もう一人の子を。壁際に並ぶ、二十八年間黙ってきた町の人たちを。そして、手鏡の縁にとまる、首に十字架を下げた小さな文鳥を。
どこにも、逃げ道はなかった。
「……行きます」
父は、言った。
「自分で、開けに行きます」
父は、それから、テーブルの向こうの少女を見た。
「月代」
初めて、父がその名を呼んだ。
「おまえは、ずっと、耀司の中にいたのか。……十六年、ずっと」
「うん」
「そうか」
父は、何かを言おうとして、言葉を探した。眼鏡のない目が、少女の顔の上で揺れていた。
「耀司と、おまえに……すまなかった。おまえたちの前で、父さんは、二十八年、平気な顔をして」
「お父さん」
月代が、父の言葉をさえぎった。
「謝るなら、茉莉と聡と、篤志さんと、由紀に。それから、お母さんと、衿子姉さんと、慧兄さんに。私たちは、そのあとでいい」
父は、長いこと月代を見つめていた。それから、ゆっくりとうなずいた。
月の光が、割れた鏡の破片の上から、すうっと引いていった。照真の最後の光が、月の光と一緒に、窓の外へ溶けていく。月守の影が、破片の間から、細い糸のようにほどけていく。
「照真」
月代が、窓の外へ呼びかけた。
(ここにいる)
照真の声は、もう、ほとんど聞こえなかった。
(あなたたちの影がある限り)
月守の声が、それに重なった。
テーブルの上で、割れた大鏡の破片が、ただの古い鏡の欠片に戻っていた。
芦原が、壁際から一歩進み出て、破片の一枚を手に取った。月の光を失った鏡の欠片には、皺だらけの自分の顔だけが映っていた。
「……茉莉ちゃんは、ここに話しかけていたんだったな」
芦原は、欠片を、そっと桐の箱に戻した。
「役目は、終わったか」
桑原は、居間の人々に、今夜はそれぞれの家に帰るよう告げた。父には、明朝七時に迎えに来ると言った。それまで、自分は家の前の車の中にいる、とも。逃げる心配をしているのではなく、そうするのが決まりだからだ、と短く付け加えた。
人々が帰ったあと、居間には家族だけが残った。父は、誰とも目を合わせず、書斎ではなく、居間のソファに座った。母が、黙ってその隣に座った。慧と衿子が、向かいの床に座った。
誰も、何も言わなかった。けれど、誰も、その場を離れなかった。手鏡の縁で、ピー助が小さく羽を膨らませ、月代の肩へ飛び移った。
「……中のやつが、言ってる」
ピー助の声は、かすれていた。
「明日、ちゃんと外に出られるって。……ありがとうって」
夜が更けて、父と慧と衿子がそれぞれの部屋に引き上げたあとも、母は居間に残っていた。少女の姿のままの月代を、ソファの隣に座らせて。
「髪、とかしてもいい?」
母が言った。月代がうなずくと、母は自分のブラシを取ってきて、月代の長い髪を、ゆっくりととかし始めた。
「十六年、とかしてあげられなかった分」
母の手は、少し震えていた。
「月代って、いい名前ね。誰がつけたの」
「耀司。生まれる前に。月の代わり、って。……私も、耀司のことを、耀司って呼んでた。生まれる前から」
「そう」
母は、ブラシを止めずに、小さく笑った。
「二人とも、ちゃんと名前をもらってたのね。私たちがつける前から」
月代の影から、霊体の耀司が、その光景を見ていた。月守が、窓辺の暗がりにかすかに立っている。その輪郭は、もう、月の光と見分けがつかないほど淡かった。照真の気配は、どこにも感じられなかった。
(照真は)
耀司が心の中で尋ねると、月守の声が、遠くから返った。
(眠っている。朝になれば、もう一度だけ、昇ってくる。明日の朝の境目に、わたしたちは、最後にもう一度だけ、二人そろってあなたたちの前に立つ)
(最後に)
(そう。最後に)
母のブラシが、月代の髪を、何度も何度もとかしていった。窓の外で、満ちかけた月が、ゆっくりと西へ傾いていった。
(第19話 了)




