四面楚歌
夜明けまで、あと五分だった。
十一月十一日、水曜日。耀司は、窓辺に立っていた。隣に、霊体の月代がいる。夜のあいだずっと、月守が月代を影から出したままにしてくれていた。月守の輪郭は、もう、夜明け前の薄闇とほとんど見分けがつかなかった。
「来る」
月守が言った。
東の山の端が、かすかに白んだ。最初の光が、窓ガラスを通って床に落ちる。その光が、ゆっくりと人の形を結んだ。
照真だった。
昨夜、月の光に最後の力を託して、消えたはずの昼の守護神。その輪郭は、朝の光に溶けてしまいそうなほど淡かった。それでも、照真は、そこに立っていた。
「約束だからな。最後に、もう一度だけ」
照真と月守が、並んで立った。夜と朝のあわいの、ほんのわずかな時間。十六年間、毎朝毎夕、二人が並ぶのを見てきた。けれど今朝の二人は、どちらも、向こうの壁が透けて見えた。
「わたしたちは、今日で、見守るだけの者に戻る」
照真が言った。
「おまえたちを、光で照らすことも、影から引き出すこともしない。おまえたちの影の中に戻って、ただ、そこにいる」
「もう、二人で並んで話すことは、できないの?」
月代が尋ねた。
「できない。わたしたちの力が、もうほとんど残っていないから。……それに」
月守が、少しだけ微笑んだ。
「あなたたちは、もう、わたしたちに引き出してもらわなくても、ちゃんと向き合える。鏡に問いかけて、入れ替わって、心の中で話して。一つの身体の中で、二人で生きていける。それを、この秋、あなたたちは自分で見つけた」
「選びなさい」
照真が言った。
「わたしたちが消えたあとも、月代の霊体を、この世に残しておくことはできる。最後の力で、もう一度だけ、二人を並べて固めることはできる。ただし、その代わりに、二人はもう二度と一つの身体の中で心を通わせられなくなる。……それとも、二人とも、一つの身体の中に戻るか」
耀司と月代は、顔を見合わせた。
答えは、もう決まっていた。手鏡を使う必要もなかった。
「戻る」
「戻る」
二つの声が、重なった。
「私たちは、一つの身体で、二人で生きる」
月代が言った。
「並んで立てなくても、ずっと一緒。生まれる前から、そうだったから」
照真が、目を細めた。月守が、静かにうなずいた。
「いい答えだ」
「あなたたちの影がある限り、わたしたちは、どこにも行かない」
朝日が、部屋いっぱいに差し込んだ。
照真の輪郭が光の粒になり、月守の輪郭が影の中に沈んでいく。消える直前、二人の守護者は、耀司と月代の影の上に、そっと手をかざした。
霊体の月代が、耀司の影の中に吸い込まれるように戻ってきた。
(おかえり)
(ただいま)
床の上には、耀司の影が一つだけ、朝日の中に長く伸びていた。その影の縁が、ほんの一瞬だけ、白金と漆黒の二色に光って、すぐに普通の影に戻った。
(行っちゃった)
月代が、内側でつぶやいた。
(行ってない。影の中にいるって言った)
(うん。……でも、もう声は聞けないんだね)
耀司は、机の上の手鏡を取った。鏡の中には、自分の顔だけが映っていた。昨日まで、鏡の縁や窓辺や部屋の隅に、いつも誰かの気配があった。今朝は、それがなかった。
それでも、不思議と寂しくはなかった。足元の影が、いつもより少しだけ温かい気がした。
六時半、台所には、家族全員がそろっていた。
母が、朝食を作っていた。焼き魚と、卵焼きと、味噌汁。いつもの朝と同じ献立だった。父は、食卓の上座に座り、新聞を広げなかった。
誰も、何も言わなかった。茶碗と箸の触れる音だけが、台所に響いていた。
父は、トーストではなく、ご飯を食べた。ゆっくりと、一口ずつ。卵焼きを口に運んだ時、父の手が止まった。
「……甘いな」
「あなたが好きな味」
母が、目を伏せたまま言った。
「結婚してから、ずっと、この味」
父は、何も言わずに、残りの卵焼きを全部食べた。
衿子が、膝の上のかごの中のピー助に、小さな菜っ葉を差し入れていた。ピー助は、それをつつきながら、時々、上座の父を見上げていた。目の奥は、静かだった。
「親父」
慧が、箸を置いた。
「……いや。何でもない」
言いかけた言葉を、慧は飲み込んだ。父は、慧の顔を見て、小さくうなずいた。言わなくても分かる、という顔だった。
七時ちょうどに、玄関の呼び鈴が鳴った。
桑原が、背広姿で立っていた。夜通し、家の前の車の中にいたのだろう。目は赤かったが、背筋は伸びていた。
父は、もう玄関にいた。紺の背広を着て、新しい眼鏡をかけていた。母が、父のネクタイをまっすぐに直した。結婚してから毎朝そうしてきたように。
「行ってくる」
父は、母に言った。いつもの朝と、同じ言葉だった。
「……行ってらっしゃい」
母は、いつもの朝と同じように答えた。声だけが、震えていた。
父は、慧と衿子と耀司の顔を、一人ずつ見た。
「慧。母さんと衿子を、頼む」
「言われなくても」
慧は、父の目をそらさずに見返した。
「衿子。ピー助を、大事にしてやってくれ」
「うん」
衿子は、鳥かごを抱えたまま、うなずいた。
「耀司。……月代」
父は、耀司の顔を見た。それから、耀司の胸のあたりを見た。
「三番倉庫まで、来てくれるか。おまえたちに、見届けてほしい」
「行く」
耀司は答えた。内側で、月代も同じことを言っていた。
父は、小さくうなずいた。それから、玄関の上がり口で一度だけ振り返り、家の中を見回した。廊下の先の居間。階段。台所の窓。二十年以上暮らしてきた家を、目に焼きつけるように。
父は、何も言わずに、玄関の扉を開けた。
父は、桑原の車の後部座席に乗った。耀司たち三人は、慧の白い軽自動車で、その後ろを走った。
衿子の膝の上の鳥かごの中で、ピー助が、窓の外をじっと見ていた。
「ピー助、今日はおとなしいね」
衿子が言うと、ピー助は小さく羽を膨らませた。
「……なあ、耀司」
かすれた声が、耀司と月代にだけ届いた。
「今日、全部終わったら、俺、たぶん、静かになる。中のやつがいなくなったら。だから、今のうちに言っとく。十三年、退屈しなかった。おまえらの、毎朝の鏡の独り言。悪くなかった」
(ピー助)
月代が、内側で呼んだ。
「泣くなよ。まだ早え」
倉庫街の入口には、黄色いテープが張られていた。
警察の車が何台も停まり、青い作業服の鑑識の人たちが、三番倉庫の前に集まっていた。テープの外側に、人が集まっていた。戸叶。奥寺。春江。芦原。野上。滝本。そして、宵宮登美。誰も呼んでいないのに、みんな、来ていた。
見知らぬ老夫婦が、登美の隣に立っていた。腰の曲がった小柄な女性と、杖をついた男性。桑原が、耀司の耳元で小さく言った。
「久賀篤志くんのご両親だ。昨夜、連絡した。二十八年、息子は家出したと聞かされて、待っていた」
耀司の喉の奥が、詰まった。
慧と、鳥かごを抱えた衿子が、耀司の両側に立った。母は、家に残っていた。行けば、立っていられなくなるからと。
父は、テープの内側に入り、三番倉庫のシャッターの前に立った。桑原から、ビニール袋に入った錆びた鍵を受け取る。
父の手が、震えていた。南京錠に、鍵が差し込まれる。二十八年ぶりに回る錆びた鍵の、軋む音が、静かな朝の倉庫街に響いた。
鑑識の人たちが、シャッターに手をかけた。
重たい鉄の扉が、ゆっくりと持ち上がっていく。
朝の光が、二十八年ぶりに、三番倉庫の中へ差し込んだ。
中は、埃と、古い木材と、劇場の大道具の匂いがした。崩れかけた書き割りの板が、壁に立てかけてある。その奥の床に、色の褪せた緞帳の布に包まれた、何かがあった。
鑑識の人たちが、静かに中へ入っていった。誰も、声を出さなかった。
しばらくして、桑原が倉庫の中から出てきた。手袋を外しながら、父の前に立ち、低い声で言った。
「……ありました。古い緞帳に包まれて。一人分です」
父は、目を閉じた。長いこと、何も言わなかった。
テープの外で、篤志の母親が、膝から崩れ落ちた。登美が、その肩を抱いた。二人の母親は、何も言わずに、互いにしがみつくようにして泣いていた。
春江が、二人の母親の後ろから、そっと白い菊を一束差し出した。今年の九月二十八日に届けたのと同じ、白い小菊の束だった。
「今度は、ちゃんと、渡したい人に渡せる」
春江は、震える声で言った。篤志の母親は、菊の束を胸に抱いて、もう一度泣いた。
芦原は、帽子を胸に当てて、シャッターの奥の大道具の書き割りを見つめていた。鏡座の舞台を飾った、古い木の板だった。野上は、唇を噛みしめたまま、まっすぐに前を見ていた。滝本と奥寺は、並んで立ち、黙って手を合わせていた。戸叶は、カメラを構えなかった。
衿子の腕の中で、鳥かごが、かたりと揺れた。
ピー助が、止まり木の上で、まっすぐに三番倉庫の方を見ていた。目の奥が、赤く濁っていた。けれど、その赤は、いつもの怒りの色ではなかった。夕焼けのような、静かな赤だった。
「衿子姉さん。かごを、開けてあげて」
耀司が言うと、衿子はうなずき、かごの扉を開けた。
ピー助は、ゆっくりと外へ出て、耀司の肩に止まった。
「……篤志」
ピー助が、自分の内側に向かって、小さく呼びかけた。かすれた、少年の声。ピー助自身の声だった。
「もう、いいぞ。外だ。おまえの身体は、ちゃんと見つかった。母ちゃんも、来てる」
ピー助の小さな身体が、ふるりと震えた。
朝日の中で、ピー助の影から、もう一つの影が立ち上がった。少年の影だった。照真も月守も、もう力を貸すことはできない。それでも、影は立ち上がった。ピー助が、自分の意思で、最後に一度だけ、宿していた霊を外へ出したのだ。
少年の影は、三番倉庫の方を見た。それから、テープの外で泣き崩れている自分の母親を見た。そして、シャッターの前に立つ父を見た。
最後に、耀司と、その内側の月代を見た。
(ありがとう)
言葉にならない思いが、二人の胸の奥にまっすぐ届いた。
(名前を、呼んでくれて。外に、出してくれて)
少年の影は、朝の光の中に、ゆっくりと溶けていった。母親の方へ。暗いところではなく、光のある方へ。行き場のなかった霊が、ようやく、還る場所を見つけたのだと、耀司には分かった。
ピー助の目から、赤い濁りが、すっと消えた。
小さな黒い目だった。何も宿していない、ただの文鳥の目。
「……軽い」
ピー助が言った。
「十三年ぶりに、身体が軽い」
「ピー助」
「なあ、耀司。月代」
ピー助の声が、少しずつ遠くなっていくような気がした。
「中のやつがいなくなったら、たぶん、俺の言葉も、おまえらにはもう聞こえなくなる。中のやつの力を借りて、喋ってたようなもんだからな」
(そんな)
月代の声が、震えた。
「泣くなよ。かっこ悪いだろ」
ピー助は、首の十字架を、嘴でくわえた。そして、耀司の肩から飛び立ち、テープを越えて、シャッターの前に立つ父の肩に止まった。
父が、驚いて振り向いた。
ピー助は、くわえていた十字架を、父の手のひらの上に、ぽとりと落とした。
「返したぞ」
ピー助の声は、父には届かない。けれど、父は、手のひらの上の小さな銀の十字架を見つめたまま、動かなかった。
M.K. 一九九八.八.三〇。
由紀が、小銭を数えて買った十字架。二十八年、暗いところで、篤志が握り続けた十字架。十三年、ピー助が首から下げてきた十字架。
父の肩が、大きく震えた。父は、十字架を両手で包み、三番倉庫のシャッターの前に、膝をついた。
「由紀ちゃん」
父の唇から、かすれた声がこぼれた。
「聡くん。茉莉さん。……篤志くん」
一人ずつ、名前を呼んだ。二十八年、一度も口にできなかった名前を。父の声は、朝の倉庫街の冷たい空気の中で、白く震えていた。
ピー助は、父の肩から飛び立ち、衿子の腕の中へ戻った。
「俺は、ただの可愛いペットだぜ」
それが、耀司と月代が聞いた、ピー助の最後の言葉だった。
次の瞬間、ピー助は衿子の手のひらの上で、チチッ、と短く鳴いた。ただの、文鳥のさえずりだった。
「あれ」
衿子が、手のひらの上のピー助を見下ろした。
「ピー助、なんだか、軽くなったみたい。……首の十字架、なくなっちゃったね」
衿子は、ピー助の首元を、指先でそっと撫でた。ピー助は、気持ちよさそうに目を細めた。十三年前、初めて衿子の手の上で眠った時と、同じ顔だった。
耀司の内側で、月代が、声を殺して泣いていた。耀司も、泣いていた。慧が、黙って耀司の頭に手を置いた。
桑原が、膝をついた父のそばに立った。
「影浦柾人さん。署まで、一緒に来てもらいます」
父は、ゆっくりと立ち上がった。手のひらの十字架を、桑原に差し出した。
「これは、証拠ですね」
「ええ。……調べが終わったら、しかるべきところへお返しします」
「由紀ちゃんのところへ」
父は言った。
「宵宮さんのお宅の、由紀ちゃんのところへ、返してください」
桑原は、十字架をビニールの袋に入れ、静かにうなずいた。
父が、テープの外へ連れ出されていく。
テープの外側には、人が並んでいた。登美と、篤志の両親。奥寺、春江、芦原、野上、滝本、戸叶。二十八年、それぞれの場所で黙ってきた人たちが、四方から父を見ていた。誰も、責める言葉を口にしなかった。誰も、目をそらさなかった。
四面楚歌。周りを敵に囲まれ、逃げ場のないこと。けれど、父を囲んでいるのは、敵ではなかった。二十八年前の夜に、父が奪い、壊し、黙らせてきたものたちだった。その全部に、父は今、正面から囲まれていた。
登美の前で、父は足を止めた。深く、深く頭を下げた。
「……申し訳、ありませんでした」
登美は、何も言わなかった。ただ、父の下げた頭を、長いこと見下ろしていた。
それから、篤志の両親の前で。父は、地面に膝をついた。篤志の父親が、杖を握りしめたまま、震えていた。母親は、顔を覆って泣き続けていた。
父は、もう一度、深く頭を下げた。それから、立ち上がり、桑原の車に乗り込んだ。
車が、倉庫街の出口へ向かって走り出した。
車が見えなくなると、篤志の母親が、登美に支えられて、耀司たちの方へ歩いてきた。
老いた女性は、耀司の前で立ち止まり、皺だらけの両手で、耀司の手を握った。
「あなたが、篤志を見つけてくれたって、刑事さんから聞きました」
女性の手は、細く、冷たかった。
「あの子は、ひどいことをしたそうですね。由紀さんにも、たくさんの人にも。刑事さんが、教えてくれました。……それでも、あの子は、私の息子です。二十八年、帰ってくるのを待っていました」
女性は、耀司の手を、もう一度強く握った。
「暗いところから、出してくれて、ありがとう」
耀司は、何も言えなかった。ただ、その手を、握り返した。内側で、月代も同じように、その手を握っていた。
耀司と慧と衿子は、テープの外に並んで、その車の消えていった方を、いつまでも見ていた。
「……親父」
慧が、小さくつぶやいた。
衿子が、ピー助を胸に抱いたまま、慧の腕にしがみついた。耀司は、二人の間に立ち、内側の月代と一緒に、遠ざかっていく車の後ろ姿を、最後まで見つめていた。
十二月の初めの、晴れた午後だった。
宵宮家の仏壇の前に、銀の十字架が置かれていた。警察から、登美のもとへ返されてきたのだ。由紀の遺影の前に、小さな紫の布を敷いて。
仏壇の前に正座していたのは、衿子だった。登美に頼まれて、十字架を供えに来たのだ。衿子は、まだ、自分に関わる昔のことを何も聞いていなかった。聞きたくなったら、自分から聞く。その約束は、まだそのままだった。
「由紀さん」
衿子は、遺影に向かって、手を合わせた。
「会ったこともないのに、なんだか、懐かしい」
隣で、登美が、黙って衿子の横顔を見ていた。目元に、涙をにじませて。
衿子の膝の上の小さなかごの中で、ピー助がチチッと鳴いた。もう、言葉は聞こえない。けれど、その鳴き声を聞くたびに、耀司と月代には、かすれた少年の声が聞こえるような気がした。
その夜、耀司は自分の部屋で、手鏡を手に取った。
戸叶の書いた記事が、机の上に広げてあった。二十八年前の未解決事件の真相を伝える記事。被害者の三人の名前が、並んで載っていた。篁聡。宵宮茉莉。久賀篤志。三人目の名前が新聞に載ったのは、二十八年で初めてだった。記事には、由紀のことは一行も書かれていなかった。それが、登美と戸叶の約束だった。
あの日の夜、耀司と月代は、母にすべてを話した。茉莉と聡のこと。前の世で、二人が恋人同士だったこと。生まれる前から、互いを知っていたこと。母は、黙って最後まで聞いていた。聞き終えると、母は、手鏡を持った耀司の手を、両手で包んだ。
「話してくれて、ありがとう。……二人とも、うちの子よ。前の世が誰でも、それは変わらない」
衿子のことは、話さなかった。それは、衿子が自分で聞きたくなった時に、衿子に話す。母も、それでいいと言った。
父の裁判は、まだ始まっていなかった。母は、毎週、面会に通っていた。慧は、相変わらず、時々いちご大福を買ってきた。衿子は、ピー助に毎朝おはようと言っていた。
十一月の終わりに、篤志の葬儀が、ひっそりと営まれた。二十八年遅れの葬儀だった。耀司と衿子と慧は、少し離れた場所から手を合わせた。衿子の腕の中の小さなかごの中で、ピー助が、一度だけ、チチッと鳴いた。焼香の列の最後に、奥寺が並んでいた。叱ってばかりいた子、と奥寺は言っていた。叱ると、少しだけうれしそうな顔をする子だった、と。
戸叶の記事は、それから数日後、鏡ヶ浦新報の一面に載った。見出しには、二十八年、という数字が大きく刷られていた。
野上は、娘を連れて、一度だけ影浦家を訪ねてきた。玄関先で、慧と短く言葉を交わし、娘に「お兄ちゃんたちにありがとうって言いなさい」と言った。娘は、恥ずかしそうに父親の後ろに隠れてから、小さな声で「ありがとう、お兄ちゃん」と言った。野上は、娘の頭を撫でながら、照れくさそうに笑っていた。工場の機械の音の中で聞いたのとは違う、明るい笑い声だった。
芦原からは、桐の箱が戻ってきた。割れた大鏡の破片のうち、一枚だけが入っていなかった。添えられた手紙には、癖のある字で、こう書いてあった。――いちばん大きな欠片は、宵宮さんにお渡しした。茉莉ちゃんが話しかけていた、真ん中のところだ。
奥寺は、新しい書を一枚、届けてくれた。四文字の言葉だった。――以心伝心。最初に耀司が書いた、へたっぴな字を手本に、わざと少しだけ崩して書いたのだと、奥寺は笑っていた。
家族は、壊れなかった。形は変わった。けれど、壊れなかった。
耀司は、手鏡に向かって、問いかけた。
「自分は誰?」
鏡の中に、少年がいた。黒い髪、少し吊り上がった目。十六年見慣れた、自分の顔。
「――耀司」
答えてから、もう一度、問いかける。
「自分は誰?」
鏡の中の輪郭が、水面のように揺れて、長い髪の少女が現れた。
「――月代」
二つの答えは、もう、一つの問いを奪い合ってはいなかった。
月代は、手鏡を机に置いて、窓の外を見上げた。満月だった。月の光が、窓から差し込み、床の上に影を落としていた。少女の影が一つ。
けれど、その影の縁が、ほんの一瞬だけ、白金と漆黒の二色に光った気がした。
「照真。月守」
月代は、影に向かって、小さく呼びかけた。
返事はなかった。それでいいのだと、二人とも分かっていた。
影がある限り、どこにも行かない。そう約束してくれたのだから。
「私たちは」
月代が言った。
(私たちだ)
内側で、耀司が答えた。
二つの声が、月の光の中で、静かに重なった。
(第20話 了)
――『影鏡のふたり ― 天網恢恢の未解決事件』完




