第22話 汚れた狐耳と尻尾(2)
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「着替えは間に合わせですが、寝台に置いてあります。先ずは体を休めて、起きてから湯を使いたければ、今のところは魔石をお使いなさい。使用人を入れて用意させるのも気詰まりです。私はウルディンたちから報告を聞いて来ますが、戻れば隣の部屋にいますから。何かあったら言うのですよォ」
会わなかった時間が嘘のように、アイトは昔のままだった。
世話焼きなのだ。親しく接したことがなければ信じられないくらいに。
出会ったばかりの頃は、体格の良い大人の男性が宮殿の侍女よりよく気が付くことが面白くて、見ているだけで嬉しくなっていた。
(あの頃のままでいられたらと思っていたけど…何も変わってない…)
変わったのはアスラの方なのだ。
一方的に好きになって、相手にされないと思い詰めて、せめて近くにいられるようになりたいと願った。ただ庇護されるだけではいたくないと思ってしまった。
アイトは何も変わっていなくて、地位や力なんて関係無いような顔で、無条件の優しさを向けてくれる。
(温かくて溺れそう…)
苦しくなる。
「どうしました?…もう、何も心配することは無いのですよ。それともどこか痛いですか?やはり治療した方が、」
「大丈夫です!どこも何とも無いです!」
勝手に意地を張って結婚して、結局は狐であることまで暴かれて迷惑をかけたのに、叱ることさえせずに大切にしてくれる。涙が出そうになって、アスラは短く礼を述べると、与えられた寝室に体を滑り込ませた。
何もかもが、酷く混乱していた。
思考がとっ散らかって、何ひとつまともに考えることもできない。感情が乱れて、全てをいっぺんい抱え過ぎていた。悲しさも怒りも。黒魔術が暴走しかけた時の怖さも。耳や尻尾を掴まれた時の嫌悪も。自分の叫び声を聞いた時の絶望も。アイトの顔を見た時の言葉にならない感情も。見えない何かがバラバラになって自分の輪郭が保てなくなるような錯覚を体感し、どうしていいかわからなかった。
アスラは小さい頃から、感情的になることが殆ど無い。父皇帝の最期を見てから、感情的になることを無意識に抑制しているところがあった。だから、自分の気持ちをまとめられないことに不慣れだ。
それでも今できることをしてしまおうと、引き千切るように、汚い服を脱いで、風呂桶に張られた水に魔石を放り込んで温めると、体を洗い流した。ウォレスに馬車に乗せられてから、時間にすればおそらく丸々2日かそこらだろう。時間の長さ以上に、汗も泥も、吐いた時の汚れもあって酷い状態だ。排泄だってろくにできなかったので、多分ちょっと漏らした。
(この状態でアイト様に抱えられた…)
一連の出来事で気にしなければならないことは、絶対にそれではない。
だが受け止め切れないほどの諸々を一度に体験してしまったアスラにとって、トドメになったのはそこだった。
(どうすればいいのだろう)
どうにもならない。起きたことは起きたのだ。変えようがない。それに、アイトはそんなこと気にしてもいないだろう。戦場暮らしが長いのだ。汚れなどに動じるはずもない――わかっていても、耐え難いのだ。そしてそんなことを気にしてしまう自分も嫌だった。
魔石の隣に置かれた石鹸を引っ掴んで、アスラは取り憑かれたように全身を洗った。耳も尻尾も。何度も何度も洗った。毛が抜けるのではないかというくらいに乱暴に洗い続け、それでも肌も毛並みも痛むどころか指通りも滑らかになっていくばかりなのに気付いた。
(銀葉石鹸だから…)
アイトの気遣いだ。そう思ったら急に込み上げてきた。
「っ…うーっ…」
押し殺した声でアスラは泣いた。泣いて泣いて、全てを流してしまいたかった。
銀葉の良い香りがふわりと漂う。
泣くだけ泣いたら落ち着いた。
(眠るべきなんだろうな)
体は確実に疲れている。回復魔法を使ったけれども、それと睡眠は別だ。魔法とは、危機的状態から脱するための一時凌ぎであって、寝ることと食べることでしか本当の回復には至らない。
(でも…)
少しで良いからアイトの側にいたい、と願う気持ちを抑えられなかった。
もう外は明るい。早ければ今日のうちにも、アイトは引き上げてしまうだろう。状況的に、シルヴァヌスという男からオヴァムという貴族がアスラを買おうとして、獣裔取引法に違反したことはわかった。手続きが終われば、忙しいアイトがこのままここにいるとは思えない。下手をすれば、アスラが眠っている間にアクイラ要塞に帰ってしまう。
そこまで考えて、アスラは枕片手に、部屋の扉に手をかけた。アイトは寝室で眠っているだろうが、居間に陣取れば、アイトが出かける時にはわかるだろう――その時はそう思った。
(嘘…)
部屋の扉を開いたアスラが見たものは、長椅子に背をもたれて眠るアイトだった。
(よほどお疲れだったのかしら…)
城に招かれていた頃に、うたた寝くらいは見たことがある。何しろアイトは四六時中忙しいのだ。でもそれは何年も前のことで、久々に見る寝顔は新鮮に映った。
(…やっぱり、綺麗だなあ)
高い鼻梁、眉と目の間が狭い凛々しい顔立ち、きっちり結ばれた唇。太い首も肩の線も胸板も芸術品のようだ。アイトは初めて会った時からずっと、とても落ち着いた話し方をするけれど、本当はそれほどの歳ではない。転生者だから肉体の若々しさと表情や振る舞いが常人とは異なるだけ。アイトの肌も、筋肉も、成熟した美しさと肌の瑞々しさを同時に湛えている。良いだけ鍛えた美しさに、アスラは見惚れた。
じっと見る機会は本当に滅多にない。起きている時なら、全て見透かされてしまうから。子供の頃にキッパリと断られ、踏み込んだ質問をしたことで、アイトに大切な人がいることを知ってしまった。これ以上、困らせたくない。
多くの人は、アイトを美しいとは言わずに恐ろしいと言う。
その力、転生者ということだけでなく、姿形が恐ろしいのだそうだ。
(他にこんなに美しい方を、私は見たことがないのに)
初めて見た瞬間から、アイトは優雅な野生動物のように美しくて、それでいてどこかが懐かしさを感じさせるのだ。
(大きな鳥だと思ったんだよね。飛んできたから…)
頼る者を亡くしたアスラを守りに飛来した黒鳥。宮殿から逃げ出したあの時だけでなく、今もなお。
アスラは一度寝室に戻ると、毛布を持って来てアイトにそっと掛けて、自分は長椅子の半分に丸くなった。
(今だけ…)
触れず、ただ近くにいることを許して欲しかった。
*
(どうしろと…)
アスラの部屋の扉が開く気配で、アイトは慌てて寝たふりを決め込んだ。
起きていると気付かれて、アスラの部屋の扉をじっと見つめていた理由などを聞かれたら、答えられるものではない。
幼児だったアスラを保護してから、信頼関係を築いて余りある接し方をしたと思う。親を亡くし、元々の身分さえ失ったアスラに、可能な限りの安全と、心の平安と、教育を与えたかった。この数年は眩い成長をしたアスラを遠去けたが、気付いた信頼は少しも変わらずに残っている。あんなに傷つけられ、疲れ切っていたアスラと目が合った瞬間、互いに通じるものがあった。
信頼する大人の男からの視線に、ほんの少しでも邪なものが混じっていると気付けば、アスラはどれほど傷付くだろう。
温かい気配は必死で目を閉じているアイトのすぐ近くに来たように感じられた。心臓の鼓動を彼女に聞かれるのではないかと、どうか己の醜い心に気付かないで欲しいと祈った。
少しだけ気配が離れたかと思うと、毛布が掛けられた。大きな体を包むように丁寧に掛けられているのがわかり、この子はなんと温かいのだろうと思う。彼女はそのまま長椅子に乗り、寝そべったようだった。アイトの腕にふわふわの狐耳が触れ、こそばゆいような、切ないような、不思議な感覚を憶えた。
しばらくして健やかな寝息が聞こえ、アイトはようやく目を開く。
丸くなって眠る姿は頑是無い童女のようで、目尻の涙の跡に気付けば、それはやはり複雑な感情を持つ、もう大人になろうとしている聡明な女性なのだった。
「…私の側は、今でも安心していただけるってことでしょうか」
低い声で呟くと、アイトは毛布をアスラの上に移し、しばし微睡むことにした。
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