第14話 届かぬ想い
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見張りの男たちが去ってから、どれほどの時間が経っただろう。
アスラは見張りが投げて寄越した粗い布を尻の下に敷いて座ると、指先に自分で傷をつけて、血を使って自分の体に魔法陣を描いていた。一心不乱に、休むことなく。耳の付け根と尻尾を意識すれば、まだ疼いていることがわかるが、そのことを考えるのはもうやめた。
燭台の橙色の灯りが壁に刻まれた古い魔法陣をぼんやりと浮かび上がらせて、この空間で魔力を封じる魔法石の効果を高めている。この中で無理やりに魔力を使って封印を破るよりも、逃げ出す際の魔法陣を予め組んでおく方が良いと判断した。魔法陣は封印の中にいれば単なる模様に過ぎない、だからこそ見張りに悟られずに魔法陣を持っていられる。
(毛並みを綺麗にする前に逃げなければ)
用意するべき魔法陣の半分ほどを描き終わった頃に、鉄格子の外から重い足音とガチャガチャした音が近づいてきた。
牢の扉が軋む音と共に、灰色の耳と豊かな尻尾を持つ男が入ってきた。
(狼?)
アスラは声を上げそうになるのをやっと抑えた。その男はどう見ても狼族で、しかも身なりは良く、明らかに見張りの男たちとは違っている。後ろには先ほどのガチャ鉄装備の男たちが控えていた。
「シルヴァヌスだ。銀狐のお嬢ちゃん」
彼は悠然とアスラの前に立った。
「君を購入した商人だ。おっと、そう緊張しなくても、私が君に手出しをすることは無い。飽くまでも仲買人として、君を飼い主に届けるまで大切に保管するつもりだ」
シルヴァヌスはしゃがみ込み、アスラの顔をじっくりと眺めた。
(嫌な顔)
まだそう歳ではなさそうな、せいぜい30代に見える顔。値踏みをするために目を細め、口元には品の無さが出ている。
「ほう……これは上物だ」
大きな手が伸び、狐耳の付け根を掴んだ。
アスラは必死で叫びを堪えた。唇を血が滲むほど噛み、喉の奥で声を押し殺す。
しかし、乱暴に耳を引っ張られた瞬間、堪えきれなかった。
「ギニャッ……!」
小さな獣の声が、喉から零れた。
シルヴァヌスは満足そうに目を細め、笑った。
「気が強い方が高値で売れる。いい反応だ」
彼は耳を離し、尻尾の先を軽く摘まんで弄ぶように動かした。アスラの体が小さく跳ねる。
「獣族の俺が、なぜ同じ獣族を売るのかって聞きたそうな顔をしているな? そりゃあ、獣族に詳しいからだよ。商売が繁盛して金を持てば、誰からも獣族だと見下されたりはしない。耳や尻尾を隠して暮らす必要もない。あんたみたいに、どっちつかずの姿を偽って過ごすより、ずっとましだと思わないか?」
シルヴァヌスは鼻をひくつかせ、アスラの首筋に顔を近づけた。
「ニオイからすると……この女は純粋の狐族ではないな。人間族との混血だ」
アスラの胸が、冷たく締め付けられた。
「混血にしては尻尾も耳も感度が良過ぎるけどなあ。まあいい。買い手には純血だか混血だかなんてわからんだろう。人間には嗅ぎ分けられないからな」
下品な品定めの言葉が、耳に突き刺さる。
アスラはただ、静かに耐えていた。
やがてシルヴァヌスは立ち上がり、部下に命じた。
「入浴させて、毛並みを整えろ。高値で売るんだ。綺麗に仕上げておけ」
魔法制御の首輪を嵌められるとアスラは連れ出され、地下から一段上がった湯気の立つ部屋に通された。女たちが大きな木桶に湯を張り、銀の梳き櫛や香油の瓶を並べている。高価な洗剤の香りもして、それは思わず懐かしさを覚えるようなものだったが、湯に触れる前に勝負をかけなければいけなかった。
視線を走らせて、状況を確認する。
部屋の中には女が3人。戸口に見張り。窓は無い。
「さっさと脱いで」
中年女がそう言ってアスラの服に手を伸ばした。それを押し留めて、「ここでは見張から見えるから嫌だ」とぐずぐずと泣いて見せる。女は舌打ちをすると、「めんどくさいわね。少しだけ隠してやるから、さっさとしなさいと」と言って、湯桶の前に半分ほど、布の幕を張った。
(今……!)
女たちがアスラの服を脱がせようと手を伸ばした瞬間、アスラは動いた。
黒魔術を極力抑え、指先で影を操って首輪の継ぎ目に力を注ぐ。黒い霧がわずかに立ち上り、金属が軋む音がして、パァンと小さな音を立てて封印は壊れた。
同時に女の口元に向けて魔法を飛ばす。白魔法だ。本来は傷口を塞ぐ術を口元に貼り付ける。ややあって女たちはどさりと倒れた。
「おい、なんかあったか——」
見張りの男のところまで跳んで近付くと、用意しておいた黒魔法の衝撃波をぶつけて昏倒させ、廊下の様子を確認すると、どこかの窓か出入り口に出ることを祈りつつ脱兎のように駆け出した。
見知らぬ屋敷は勝手がわからない。地下から上って来た時の様子から見当をつけて走るが、広い上に変わった構造の建物のようで、廊下を走ってもどちらにいけば外に出られるかわからない。
「封印が解かれたぞ!」
「狐が逃げた!」
声が響き、足音が迫る中、やっと張り出しを見つけて走り出ようとした、その瞬間——
男たちが飛び出し、アスラに掴みかかる。
アスラは作っておいた魔法陣で黒魔術を起動しながら、元々の敏捷さで身をかわした。小柄な体をより低くして男たちの手をすり抜ける。先に魔法陣を用意しておくのは思いの外上手く行って、魔法の制御に苦労は無かった。
「傷をつけるな! 商品だぞ!」
彼らは銀狐に怪我をさせないよう、手加減せざるを得ないのだ。
アスラはやっと外に出て、バルコニーを蹴って浮かび上がる。
(逃げられる……!)
しかしそれも、長くは続かなかった。
シルヴァヌスの声が響いた。
「狼影根を散布」
彼が合図すると、粉末状の何かが大量にぶつけられた。
「正式には狼影根と言うのだよ。物凄く高い品だが、狐にはよく効く」
「っ……!」
粉が喉と鼻を塞ぎ、全身の魔力が激しく乱れる。
飛空術が崩れ、アスラの体が床に落ちかけた。
「ギニャアアアアア……!」
狐の叫びが喉から迸る。
耳と尻尾が激しく疼き、黒魔術が暴走しかける。
父皇帝の真紅に染まった瞳が脳裏をよぎり、狂気に飲まれる恐怖が全身を襲う。
それでもアスラは最後の力を振り絞り、抵抗した。
(暴走したら……私は……)
意識が急速に遠のいていく。
(ダメだ…)
「た…す…け…」
助けてと。
アスラの口からは無意識のうちに言葉が溢れた。
*
落ちた意識は悲しい夢の中にあった。
アスラがアイトに会った最後の日。ウォレスと結婚するよりもずっと前のことだ。
「どうしてドミヌス様は奥様をお迎えにならないのですか?」
聞いてみたいと思っていたことが、つい口から出てしまった。無遠慮な質問。アスラにしてみれば聞かないことには思い切りがつけられない、でも踏み込むべきではないこと。
叱られても仕方のないことを聞いているのに、アイトは一瞬、目を細めただけだった。いつもの飄々とした笑みが、ほんのわずかに揺らいだように思えて、アスラはもう胸が苦しかった。アイトを苦しめるつもりなんてなかった。
「もう結婚しているからです」
低い、穏やかな声だった。
アスラは首を傾げた。そんなはずは無い。アイトに妻はいないし、アイトの前世であるアクイラ卿だって、結婚はしていないはずだ。
「私には公にしていない妻がいるんですよォ。今は彼女と近くにはいられませんが……」
その時の瞳は、切ないほど優しく、どこか痛みを帯びていた。
憧れの相手が結婚していると聞いては悲しく無いわけもないのに、なぜだか悲しんでいるのはアスラではなくアイトのように思えて、胸がきゅうっと締め付けられた。
近くにいられない、とは、死んだという意味なのだろうか。
「ンフ。そんな顔をしなくてもいいのですよォ」
アイトは笑った。
「近くにいられないことを悲しく思わないわけではないのですが、それ以上に、そのひとの存在そのものに救われるということもあるのです」
「お心の中にいらっしゃるということですか?」
「ええ。私の胸の内では、常に、片時も離れることはない。アスラ、あなたもそういう人と出会えるように祈っていますよ」
それはあなたです、アイト様——
声にならない言葉を抱えて、アスラは強く生きようと思った。
アイトに頼るのではなく、少しでもアイトを支えられる存在になりたいと思った。
お読みいただきありがとうございました。




