鳩 13
勘違いが文学を生む。これまで読んでいてお分かりの通り、この物語の殺し屋たちは勘違いばかりしています。「ロミオとジュリエット」もロミオが勘違いしていますし、「マクベス」も勘違いではありませんが、「それは、おまえのこじつけだろう。」と言いたくなるような展開があります。
信じたことが真実になる。雉はそうとも言いました。覚えていますか?
鳩
俺はベビーカーを押しながら全速力で走った。そのせいで、ベビーカーが大きく揺れたが、不思議と赤ん坊が泣きだすことはなかった。
後ろを振り返り、誰もついて来ていないことを確認すると、ゆっくりと速度を落とし、止まった。呼吸が速い。ベビーカーの中を確認すると、赤ん坊は何事もなかったかのように眠っていた。
「おいおい。こんな貴重な体験、逃すつもりなのかよ。まあ、起きてても忘れちまうんだろうけどな。」
独り言がコンクリートの壁に反射し、反響する。俺はベビーカーを押し、再び歩き出す。
何度目かの曲がり角を曲がろうとするとき、前から人影が飛び出してきた。思わず腰に手を回すが、なんとか思いとどまり、拳銃は引き抜かなかった。
目の前に現れた人影は、黒いコートのフードを目深にかぶっていて、その顔までは確認できなかった。しかし、日常を生きている人ではないことはすぐに分かった。その男の手にはどす黒いナイフが握られていたからだ。
それを見て、俺はある人物に思い至った。舌切雀。最近、この業界で騒がれている、無差別に人をナイフで刺殺する殺人鬼。だとすると―
「おまえが雀かよ。」
男は頭を下げ、頷いたように見えた。が、それは違ったようだ。男は肩を震わせ笑っていた。その声を聞いたせいか、足の筋肉が固まった。笑い声は収まらず、男は立っていられなくなったのか、壁に寄り掛かった。
「答えろ!てめえが郭公のおっさんを殺ったのかよ!」
男はゆっくりと壁から離れる。その動きはバレエのダンサーを思わせるような滑らかな動きで、その男の雰囲気とのギャップが異様なものに対する警戒心を引き立てた。男はゆっくり歩を進める。
「おまえは俺を知らないのか?」
「だから、こっちが聞いてんだろうが。知っているのか、知らねえのかは、それから判断すんだよ。」
そう言った途端、男の姿が見えなくなった。俺は咄嗟に足を振る。足に独特の柔らかさと硬さが伝わる。ナイフを落としたのか、金属音が響く。すかさず、俺は後ろに飛びのく。視線を下にやると、男が地面に手をついて、立ち上がろうとしている。
俺は腰に手を回し、拳銃を握る。握ると掌に痛みが走った。手に視線を送ると、握っているのは拳銃ではなかった。十字架のネックレスが俺の掌に痛みを与えていた。慌てて腰に手を回し、拳銃の感触を確かめながら男に向かって構える。不幸中の幸いか、男はまだ態勢が整っていなかった。男はこちらを見ると、にんまりと口を横に広げた。
「どうした、震えているぞ?」
焦点を男から自分の手元にゆっくり合わせる。確かに、狙いが定まっていなかった。しかし、自分の手が震えているとはとても思えなかった。視界がぶれているといった方がしっくりくる。
「おまえ、人を殺したことないだろう?」
「黙れ。」
男が不敵な笑みを浮かべる。確かにこの男の言う通り、黒田を殺し損ねた俺は、人を殺したことがない。
「目の前にいるのは、おまえの復讐相手だ。郭公を殺した張本人だ。人と思うな。いや、人であったとしても、人を殺した人間は人に殺されるべきだ。だから、撃てよ。」
男は両手を広げる。その姿は処刑されるのを待つ囚人のようでもあったし、磔にされた救世主のようにも見えた。
「俺は、犠牲を出したくない。」
なんとか声を振り絞る。男は息を小さく漏らし、やがてそれが笑い声になる。
「犠牲?俺を殺すことが?何の冗談だ?」
男は前に一歩踏み出す。俺は拳銃でそれを牽制する。男はそれを気にせず、さらに一歩前に進む。
「犠牲っていうのは、失って得ることだろ?動物は、食べるために狩りをする。食べることで、自らの命を維持するエネルギーを得る。どうだ?俺を殺すことはお前にとって本当に犠牲か?」
「俺は動物じゃない。人間だ。」
男は軽く首を左右に振った。正面に顔を戻すと、先程までの不気味な笑みが嘘のように、表情のない顔が俺の目に移った。
「同じだ。」
その声が聞こえると同時に、男は銃口の狙う先から消えていた。慌てて辺りを見渡すと、ベビーカーの前に立つ男の姿が見えた。
黒コートが風になびく。その瞬間、男の背後に海が見えた。いつか見た夢の中の、黒い海。誰もいない砂浜で赤ん坊を消した、黒コートの男。
「こうしたら、もう少しやりやすくなるか?」
男は不気味に歪んだ笑みを浮かべると、ベビーカーに向け、ナイフを振りかざす。
男の動きが止まる。ナイフがゆっくり地面に落ち、静かに音を鳴らす。男が膝から崩れ落ちる。左胸の辺りを抑えた男は、こちらを見ると先程と変わらない笑みを浮かべる。
俺は震える手で、なんとか拳銃をしまう。壁に寄り掛かると、急激に胸を満たしたものを吐き出そうと何度も嘔吐を繰り返したが、何も出てはこなかった。




