鳩 9
二回言ったことは嘘だ。今回の物語にはそんなことが書いてありますが、そうでもないだろうと思います。「分かった、分かった」というのも、嘘というより、適当に流しているだけだという方が、正しいかもしれません。
ただ、あえてこの極端な法則を使わせてもらっています。恥ずかしながら、他に思いつかなかったというのもありますが、人の経験はそれぞれだし、そこから見い出だした法則も、真実であるものもそうでないものも含めてそれぞれだと思ったからでもあります。
なので、残念ながら、「二回言ったことは嘘」という法則は、実際に応用することはできません。この物語の中だけの法則だと思っていただければ幸いです。
鳩
赤ん坊というのは面倒だ。なんで泣いているのか、さっぱり分からない。人気のない古びた木造の家が並ぶ住宅街の真ん中に、これまたその古風な風景とは不釣り合いな真っ白に輝く大きなドラッグストア。その広い店内の真ん中で、ベビーカーに埋もれている赤ん坊が突然、泣きだした。
「もしかして、これがお気に召さなかったのか?」
俺はカゴに入れていた紙オムツを取り出し、目の前にあるトイレットペーパーの並ぶ棚に戻す。赤ん坊の泣き声が一際大きくなった気がした。
「うるせえな。戻るの面倒なんだよ。むしろ、いいじゃねえか。『あら、紙オムツのところまで行く手間が省けたわ。』って言うお母さんだって、きっといるだろ。おまえはまだ知らないかもしれないけど、世の中広いんだよ。」
俺はそこまで言うと、あることに気が付いた。ごく当たり前のことだ。
「生まれたばっかりのおまえに何が分かるんだよ?」
そうだ。言葉は愚か、紙オムツの種類も、『商品は元の場所に戻すべき』という倫理観も何も知らない赤ん坊が、そんなことで泣くはずがない。
赤ん坊には快と不快の二種類の感情しかない。郭公のおっさんのセリフが頭をよぎり、笑ってしまう。俺は屈みこみ、ベビーカーに座っている赤ん坊と視線の高さを合わせる。
「じゃあ、この感情は何だろうな。」
悲しみでもない。寂しさでもない。恐怖でもなければ、懐かしさでもなく、切なさでもない。感動でもない。昨日から、俺を苦しめるこの感情は何なんだ。前触れもなく、突然俺を苦しめ、しかし一方で、その苦しみに浸っていたいと思う、この感情は何なんだ。快と不快だけだったら、もう少し分かりやすいのか?
「おまえなら、どう感じるんだ?」
当然、赤ん坊は答えることなく泣き続ける。それでも、俺は答えを待った。
「あの。ちょっとすいません。」
俺は首を回転させ、後ろを向く。そこには、白く滑らかな肌をした二本の足があった。なんとなくばつが悪くなり、慌てて上を向く。肩までの長さのある黒髪の女性だった。顔の全てのパーツの形が整っており、それらが全て最善の場所に収まっている顔だった。要するに、美人だった。
「ここに紙オムツを置いたのは、あなたですか?」
女性はトイレットペーパーの山に埋もれた紙オムツを指さし、無表情で尋ねてくる。どうやら、説教をするために声をかけたわけでもないらしい。俺は立ち上がる。
「さあ。知らね。」
俺はそう言ってその場を立ち去ろうとする。ベビーカーに手をかけたとき、俺の中で反発が生まれた。紙オムツがここにあって、何が悪い?
「紙オムツがここにあって、何が悪い?これはな、トイレットペーパーを買いに来たお母さんがだな―」
「ついでに紙オムツを買うためにある、でしょ?」
女性は笑う。俺はその笑顔に戸惑う。口角を上げ目の端を緩めるその笑い方は、郭公のおっさんが笑ったときの顔に似ていた。
「聞いていたのか?」
「ごめんなさい。」
そうは言うものの、その顔からは反省の色はうかがえない。知っているなら聞くなよ。何か別の目的があるのか?女性の顔を見つめていると、女性も俺の目を見ていることに気が付いた。女性の黒く澄んだ目は、微動だにせずにこちらを見ている。耐えられなくなり、俺は目を逸らす。目から心を覗きこまれているような錯覚を起こした。
「回りくどいことして、ごめんなさい。本当はそんなこと、どうでもいいんです。」
じゃあ、なんなんだよ?そう思い、女性に視線を戻したとき、女性は柔らかい笑みを浮かべながら、人差し指を下に向ける。
「泣きやまないんでしょ?」
女性の指さす方に視線を向ける。赤ん坊がベビーカーの中で両手両足を思い切り曲げ、身体を小さく縮ませ泣いている。そうだ。泣いていたんだ。大声で泣いているにもかかわらず、俺はすっかりそのことを忘れていた。女性が軽く微笑むと、しゃがみ込みベビーカーの中を覗きこむ。俺はそれを黙って見ている。
「泣いているね。」女性がつぶやく。
「泣いているな。」俺はつぶやく。
「怖がってるね。」女性がつぶやく。
「何を?」俺はつぶやく。
「さあ?」
女性は立ち上がる。赤ん坊は相変わらず泣き続けている。俺に向かって一歩踏み出すと、再び俺の目を覗き込んでできた。俺は咄嗟に目を逸らす。美人に見つめられるのは、悪い気はしない。しかし、やはり心を読まれている気がして、それは不愉快だった。
「何で泣いているのさ?」
「知らねえよ。オムツが気に入らなかったんじゃないか?」
女性が微笑む。人差し指を俺の頬に近づける。避けようとしたときにはすでに女性の指先は、俺の頬を軽くなでていた。
「君のことだよ。」
「なに?」
女性が人差し指を見せてくる。その指は濡れていた。頬を擦ってみる。柔らかい液体が手の甲を濡らした。間違いなく、それは涙だった。
「これは泣いているんじゃない。涙が流れただけだ。ただの生理現象だ。勝手に泣いてるって決めつけんじゃねえ。泣いてない。断じて泣いてないぞ。」
「嘘だね。」
無表情で断言する女性の言葉に、俺は動揺する。指摘されたからではない。実際、俺は泣いているという自覚がなかった。
「二回同じこと言ったら、それは大抵嘘なんだって。分かった、分かった、みたいに。覚えておくといいよ。結構役に立つから。」
「それは違うな。実際、俺は泣いてない。紙オムツを放置したことがばれて悲しくなったわけでもなけりゃ、赤ん坊の素晴らしい独唱に感動したわけでもない。」
俺は原因不明の動揺を隠そうと反論する。女性の顔がわずかに歪む。俺の勢いに押されたのか、それとも呆れているのか、よく分からない。
「あのね、悲しくなくても感動してなくても、泣くときはあるんじゃないの?」
「ない。絶対にない。断言しよう。なんなら、いまから外に出てアンケート取ってやるよ。『あなたは悲しくなくても、感動していなくても泣きますか』ってな。」
女性が指さす。俺は女性が口を開く前にその理由に気がつき、軽く舌打ちする。
「いま、二回言った。そんなこともあると思ってるでしょ。」
俺は髪をかき乱す。この女性と会話していると、どうも心が乱れる。しかし、心が乱れるからといって、不快には感じない。すると、何の前触れもなく黒い海に佇む黒い影が俺の脳裏に横切った。見覚えがあると思ったら、夢の中に出てきた光景だった。黒コートの男は、白い布を抱えている。やはり、顔は見えない。
「それで、何を悩んでるの?」
「何も悩んでいない。強いて言うなら、悩みがないことが悩みだ。あっ、いま『悩み』って二回言ったが、これはどうなんだ。」
女性の顔が歪む。眉がわずかに下がり口角が下がったその顔は、明らかに呆れていた。
「死の恐怖。」
どこからか声が聞こえてくる。会話に乱入してきた声に俺は周囲を見渡すが、目の前の女性以外に人影が見当たらない。女性は何に驚いたのか、わずかに目を見開いている。なんてことはない。その声の主は俺だった。
「あんたはどうだ?死が怖くないか?当たり前にあった世界が突然消えるのは、怖くないか?」
俺は俺自身が口走っている問いに戸惑う。そんなこと、今まで考えたこともねえよ。
「そうだね。死ぬのは嫌かな。でも、それよりももっと怖いものがある。」
女性は淡々と述べる。その言葉に感情などなかったが、それが何よりも救いだったのかもしれない。この手の質問には、つまらない傲慢や英雄気取りの同情が絡みやすい。そして、その感情は間違いなく、自らが相手よりも質の高い人生を送っているのだと、自らを納得させるために生まれたものだ。そんな人間が、死の恐怖を、世界の消滅の恐ろしさを理解しているとは思えない。
「言葉にするのは難しいんだけどさ、簡単に言っちゃえば―」
女性は俺の目の前で人差し指をたてる。
「罪悪感。」
「罪悪感?」
女性は頷く。微かに揺れる髪から桜の香りが漂う。
「生きていて、思いもよらない壁にぶつかって。自分の選択でも、どうしようもない不可抗力でも、運命を呪い、世界に幻滅して、自分を責める。何が悪かったんだって責め続けて、もう戻らないあの日に思いを馳せる。」
女性の声色が変わった。まるで詩を読むかのようなその言葉を、澄んだ声が伝える。その声が静かに俺の中に溶け込む。
「君が持っている感情はそんなところかな。」
歌が終わる。俺は眠気が覚めたように、意識が急にはっきりとした。まるで、別の人物に乗っ取られていた意識を取り戻したかのように、しっかりと本来の思考で物事を把握できるようになっていた。
「何言ってんだ?わけわかんねえ。」
女性は何も言わない。俺は次の言葉を待ったが、女性は微笑むだけだった。その笑顔が崩れる前に立ち去ろう。俺はベビーカーを押す。
「そうだ。あんた、好きな花あるか?」
俺は振り返り、なんとなく尋ねてみる。気が緩んだのか、女性の笑顔がわずかに崩れた気がした。
「楓。」
女性は無愛想に答える。しばらく待ったが、それ以上何も言わなかった。
「そうか。覚えておこう。」
再び女性に背を向け、立ち去る。ちょっと待てよ。楓は花だったか?そう思い、振り返ったが、そこにはもう女性の姿はなかった。
そこで異変に気が付き、ベビーカーを覗きこむ。赤ん坊というのは面倒だ。なんで笑っているのか、さっぱり分からない。
分かんねえ、分からねえよ。




