鷹 7
現実と幻の区別ができなくなる。そんな体験をしたことがないので、いくら想像してみたところで、それは偽りなのです。
物語というのは、もしかしたら嘘の塊なのかもしれません。自らの体験を重ねて物語を紡いでいる方も多くいますが、少なくとも私の場合はそうです。
それでも、物語は全くの虚構というわけでもありません。そこには、伝えたいことがある。そして、その伝えたいことは嘘なんかではない。
長々と書きましたが、とりあえずはこの物語を楽しんでいただければ幸いです。
鷹
目を開ける。煤なのか、カビなのか黒く薄汚れたコンクリートの天井が見える。太陽の光が小さな窓から入ってきて、天井に光の帯を作っている。俺は決して寝心地がいいとはいえない赤いソファーから起き上がる。無機質のコンクリートの地面に散乱する紙やファイル。五つほどある事務机の上も同じような状況だ。この部屋は見捨てられていた。昨晩、見捨てられていたのを見つけた。
俺は起き上がると、また作業を始めた。足元に落ちていた紙を拾う。寿司屋の出前のチラシだった。左手に持ち替える。次に目についた紙を拾う。何やら棒グラフがたくさん書かれている。左手に持ち替える。それを繰り返す。
部屋の隅には昨日の作業分の紙の山がいくつも積み上げられていた。いくつも積み上げられていたが、部屋の状況は昨日と大差がないようにも思えた。俺が寝ている間に誰かが紙をばら撒いていったのではないだろうかと疑いたくなるほどだ。
紙が左手で抱えきれなくなり、部屋の隅に向かいその紙の山を置いた。そのとき、乾いた金属音が鳴り響いた。咄嗟に振り返る。音は足元から聞こえてきた。足元を見ると、ナイフが落ちていた。俺はそれを拾おうと手を伸ばす。すると、また金属音が鳴り響いた。金属と金属を互いに叩き合わせる音が、ナイフのある方から鳴り響く。カチカチという音が頭に鳴り響き、その音は徐々に大きくなっていく。頭が締め付けられる。左手がネックレスを握りしめる。
痛みに耐え、なんとかナイフを手にとる。ナイフを手にした瞬間、甲高く長い音が耳を貫いた。振り返る。そこには背の低い白い物体がいくつもあった。その白い物体は微かに震えていた。この耳障りな音はその白い物体が発しているようだった。ナイフを握り直し、その白い物体に飛びかかる。ナイフを上から突き立て、振り切る。白い物体は、古くなった皮膚のように薄く剥がれ落ち、バラバラに飛び散る。俺は次から次に白い物体を破壊していく。
肩で息をする。音はもう消えていた。紙の山は跡形もなく消え去っていた。一度大きく息を吐き出し、落ち着かせる。
「どけ、ガキ。」
俺は振り返る。誰もいない。空耳だろうか。いや、これは記憶だ。記憶が俺に語りかけてきた。瞬きの瞬間、映像も現れた。
ロッジハウスのような家。台所が見えるリビングルーム。机の上には花瓶があり、マグノリアの花が飾られている。リビングルームの中央で子供にかぶさる母親。その背中と足元には赤黒い染みが滲みだし、その姿は、剥製のように動きが失われていた。その手前には不衛生に伸ばした髪と髭が目立つ、やや肥満気味の包丁を持った男と野球帽を目深にかぶった少年が対峙していた。
「死にたいのか?」
少年は動かなかった。恐怖のためではない。少年は相手を観察していた。今、この状況を冷静に分析していた。分析したうえでの不動だった。男は脅しているつもりなのか、むやみに包丁を少年に突き出している。
「何で殺した?」
少年の声は自然だった。「好きな食べ物は?」と尋ねるように、少年は男に尋ねていた。
「うるせえ!おまえみたいなガキに何が分かる!」
男は少年に向かって突進する。少年はそれに対応できず、男の突進を正面から受け、後ろに勢い良く倒れる。野球帽が宙を舞う。男が少年に乗り、包丁を振り上げる。少年はその動きを見ていた。面倒くさそうな目で、男の動きを見ていた。男が包丁を振りおろす。
包丁が突き刺さる。男が荒い呼吸をする。男の目が見開かれる。包丁は突き刺さっていた。しかし、刺さった場所は首を横に曲げた少年の顔の横の床だった。男は慌てて包丁を引き抜こうとする。すると、少年が口を大きく開き、男の指にかみつく。男は悲鳴を上げ、咄嗟に包丁から手を離す。少年は素早く右手を動かし、包丁を引き抜く。引き抜くやいなや素早く握り直し、右手を男の胸めがけて振り上げる。
包丁の刃が男の胸に埋もれた。男は声を出さず、呼吸を震わせる。少年は男の下から這い出すと、起き上がり、男を軽く蹴り倒す。男は頭から地面に倒れ、赤黒い血が床に滲みだした。少年は男を見ていた。ケンカに負けた相手を見下ろすような目で、痙攣する男を見ていた。
「人を殺さないと生きていけない?笑わせるな。」
少年は血に汚れた手を見る。
「汚れるのは俺だけで十分だ。これは俺だけの使命で義務だ。」
少年がこちらを向く。目が合う。俺に笑いかける。
―そうだろ―
少年が指を指す。その方向を見る。木目がくっきりと浮かぶフローリングの上に一枚の紙が白く輝いている。
俺は力強く目を閉じる。目を見開くとそこは灰色のコンクリートの部屋に戻っていた。先程少年が指さした場所には、何千枚もの紙が散らばっている。なんとか、少年が指さした位置を思い出し、それらしいところの紙を何枚か拾い上げる。一枚、二枚とめくっては、その場に捨てていく。
顧客名簿のような紙を捨てた後、俺の手の動きは止まった。
黒田 一輝(4ヶ月 男)
父:黒田 清正(42歳) 職業:IT企業「GLASS CEIL」 代表取締役
7月5日、『雀』の爆破により死亡。
母:黒田 雅子(38歳) 職業:数学教師 現在、城西高校勤務
7月6日現在、子供の捜索願、今だ提出せず。
居場所:不明
現在、『郭公』が誘拐中。7月6日、八代 哲が『雀』に暗殺を依頼。
俺はその他の紙を地面に落とすと、手にしている髪を四つ折りにしてコートの内ポケットに入れる。ターゲットの情報を探していたのだが、どうやらおまけつきらしい。まさに一石二鳥だ。
出口に向かう。どこからか笑い声が聞こえる。
笑っていたのは俺だった。




