鳩 6
早口言葉。みなさんは、いくつ言えますか?私は「生麦、生米、生卵」ぐらいしか言えません。何度も練習した記憶があります。早口言葉も、訓練、なんですかね?
そういえば、「キノピオ、ピノキオ」を五回言ってみて、とかオリジナルの早口言葉をつくったりもして遊んでいました。われながら、いい出来だと思っています。
ちなみに、東京特許許可局は存在しないらしいです。
鳩
俺は暗くなった郭公のおっさんの家で横になっていた。「今日は泊っていけ。」と言ってくれた郭公のおっさんの言葉に甘えて泊めさせてもらった。最期ぐらい、我儘言ってもいいだろう。手を天井に伸ばす。伸ばした手は暗闇よりさらに暗かった。
「眠れないのか?」
「眠っている。」
しばらく沈黙が続く。俺が体を起こすと、郭公のおっさんが壁に寄り掛かっているのが見えた。
「おっさんも眠れないのかよ。」
「いや、おまえが眠れなさそうだったからな。眠れるまで見守っているんだ。」
「おっさん、まさか殺す気じゃないよな?」
俺は冗談半分に言う。郭公のおっさんは目尻の皺を増やす。マジかよ?
「おまえは狙われているんだろ?大方、依頼に失敗したか何かで消されようとしている。」
郭公のおっさんは手で拳銃を作り、俺に向けてくる。俺は両手を上げる。
「ああ、その通りだよ。だから、俺は運び屋のアジトを突き止めて、失敗を帳消しにしようとしたんだよ。でも、あんたは運び屋じゃなかった。それだけさ。」
最後の方は声が消え入りそうになった。俺は消される。それだけだ。なるほどな、と郭公のおっさんは頷く。
「ターゲットは黒田か?」
「何で分かるんだよ?」
「おまえは黒田の屋敷の様子を見に来ていたじゃないか。てっきり、おまえが黒田を殺したと思っていたが、どうやら爆殺は専門外らしいしな。」
「何で分かるんだよ?」
同じセリフを繰り返す。
「あれにスナイパーライフルが入っていたからだ。」
郭公のおっさんが俺のリュックサックを指さす。しばらく、そのリュックサックを漠然と眺めていた。次の瞬間、ある可能性が頭をかすめ、俺は慌ててリュックサックに駆け寄り、中身を確かめる。俺は目の前の現実に愕然とする。
「おい、おっさん!俺の商売道具どこにやったんだよ!」
「おまえは『鳩』だろう。平和の象徴だ。今のおまえに必要なのはライフルなんかじゃないさ。」
「だからって―」
俺の声はそこで遮断された。赤ん坊がマナーも知らない音量で泣き出した。俺は思わず耳を塞ぐ。これが俗にいう夜泣きというやつか。郭公のおっさんが赤ん坊の寝ているベッドに近寄り、赤ん坊を抱き抱える。
「一つ、質問があるんだが。」
郭公のおっさんの声が、赤ん坊の泣き声をもろともせず、はっきりと俺の耳に届く。
「なんだよ?」
「東京特許許可局は実在するのか?」
郭公のおっさんは突っかかることなく、流暢に発音をした。外人が英語をしゃべるときのような、川が流れるような自然な発音だった。
「知らねえよ。東京きょっきょ――東京特許きょきょきょく――とうきょう、とっきょ、きょかきょく――」
「言えたな。」
郭公のおっさんの目尻の皺が増える。
「だからなんなんだよ!」
俺の怒鳴り声にさらにそれ以上の音量の泣き声が重なる。そして、俺の声は余韻を残すことなくかき消された。
「だーもう、うるせえよ。それ、なんとかしてくれよ。寝たくても寝られねえよ。」
「なんとかしたら寝てくれるか?」
「寝る寝る。寝るから何とかしてくれ。」
郭公のおっさんはベッドからタオルを取り出すと、それで赤ん坊をぐるぐる巻きにした。しばらくそのぐるぐる巻きになった赤ん坊を揺らしていると、泣き声は徐々に小さくなり、やがて静かになった。小さくて静かな息遣いが聞こえる。
その安らかな息遣いが、俺の記憶の箪笥の戸を静かに開いた。まだ生きるのに仕事が必要だということも、一日が二十四時間というのがあまりにも短いことも、男と女の根本的な違いも実感していなかったあの頃。学校の友達の家に行ったり、近くの河原でサッカーをしたり、真面目そうな眼鏡君をからかってみたり、仲直りしたり、喧嘩してみたり、絶交してみたり。あまりに当たり前な生活で、殺し屋になるなんて思いもしなかったあの日々。
今、俺は何をしたいのだろうか?
「何を考えている?」
俺は顔を上げる。いつの間にか俯いていたらしい。郭公のおっさんは立ち上がり、赤ん坊を静かにベッドに置いた。
「いや、俺、今何してんのかな、って思ってさ。これじゃあ、一般人と同じだろ。本当に俺は殺し屋になったのかなって。」
郭公のおっさんはしばらく突っ立ていた。目尻に皺を増やすと、静かに俺を指さした。
「おまえは殺し屋なんかじゃないさ。なぜなら、まだ人を殺してないからだ。」
俺は何も言わない。言う必要はない。その通りだからだ。俺は殺し屋になり損ねた。ただの一般人だ。
「おまえは殺し屋と一般人を別に考えているみたいだけどな、どちらも同じ人間だ。平穏な日々を望むのは、幸福を望むのは当たり前のことだ。たとえ人を殺そうと、人の人生を踏みにじってしまっても、何不自由ない生活を送っていても、やはり自らの心の平和を望んでしまう。」
郭公のおっさんが一歩ずつ俺に近づく。俺の近くまで来ると、その場に座り込む。
「殺し屋でも一般人でも、生きている限り犠牲を払う。ときにはその犠牲が、人殺しに値するようなものだったりするだろう。その犠牲はやがては自分に帰ってきて、心を乱す。犠牲を払わないように生きるというのも一つの手なのかもしれない。でも、それはあまりにも不自然で、息苦しいときもある。それも、心の平和とは程遠い。」
「じゃあ、どうすればいいんだよ。」
俺は郭公のおっさんから目をそらす。テレビは静かに黒い画面を映している。
「それは、分からない。分からないが、犠牲にしているものの存在を認識していれば、もしかしたら答えが見つかるのかもしれない。」
俺は口から短く息が漏れるのに気がつく。息が漏れたかと思うと、今度はそれが笑い声になった。あまりにもバカバカしい。
「そんなこと、いちいち考えてたら生きていけねえよ。肉も食えねえ。」
それを聞いた郭公のおっさんも笑う。笑いながら、俺の頭に手を乗せた。父親が小さな息子にするような動作だった。
「考えなくていい。この話を忘れてもいい。聞いてくれただけでいいんだ。」
俺は郭公のおっさんの手を静かにどけ、横になる。しかし、郭公のおっさんが眠りについても、俺は目を閉じることすらできなかった。天井に手を伸ばす。相変わらず暗闇よりも暗い腕が伸びている。
俺は今まで払った犠牲ほど立派な人生を過ごしてきたのだろうか?
何を青臭いことを。そう思いつつも、その疑問が頭から離れず、俺はしばらく、眠りに身を任せることが出来なかった。




