鳩 5
平和であることは、素晴らしいことです。ただ、その平和の奥に争いや略奪が身を潜めているかもしれない。小さいものに見えるかもしれないけれど、当事者にとってはものすごく重大なことだったりもする。それこそ、「他人の人生を破壊」することかもしれない。
郭公が「平和過ぎる」と指摘していますが、彼が言いたいのは、平和だと思って生きる上での犠牲について考えることをやめてしまっている、ということです。決して、平和はよくないと言っているわけではないので、あしからず。
鳩
俺は戦っていた。何の情報も攻略法も分からず、いろいろ手を尽くすがその行動は全て意味をなさない。相手の目的も分からない。蓋がかたくて開けられない乗りの佃煮のビン。目的も手段も皆目見当が付かない数学の試験。俺の人生には、いろいろと困難があったはずだが、今、俺は人生で初めて両手を上げたくなった。
俺は哺乳瓶を机に置き、両手を上げた。
「一体何なんだよ?何でこいつは泣いてんだよ?何が欲しいんだよ?」
郭公のおっさんが赤ん坊を布でぐるぐる巻きにし、抱いている。オムツも確かめたが、排便はしていなかった。
「赤ちゃんには快と不快の二つの感情しかない、らしい。」
俺は髪を掻き毟る。郭公のおっさんは眉一つ動かさずに赤ん坊をあやしている。
「そんな豆知識、今はどうでもいいんだよ。今、俺達のするべきことはこいつの要望に応えること。そして、満足してもらって静かにしてもらうことだろ。」
俺はテレビのリモコンに手を伸ばし、電源を入れる。夕方はニュースかドラマの再放送ぐらいしかしていない。ニュースは何かの特集ばかりだった。ドラマは青春ものだった。先公が生徒を信じ、生徒が先公を信じていた。こんな先公だったら、学生生活は楽しかっただろうな。でもな、そんな似たような生徒が集まった教室なんてねえよ。そんなに似た人間が集まるなら、戦争なんて起きない。世界は平和だ。
「鳩は車を持っているか?」
「警察が俺なんかに免許くれねえよ。」
そうか、と郭公のおっさんはつぶやく。なぜ、そんなことを確認したのかは分からない。俺はドラマを見続ける。赤ん坊の泣き声のせいでセリフがほとんど聞こえない。映像から想像すると、不良にからまれた仲間を救うため、不良生徒が単身、不良集団に立ち向かっていく。
「『烏』の神隠しにあった人間は転生しないらしい。」
赤ん坊の泣き声を通り抜け、郭公のおっさんの声が耳に入ってくる。
「マジか?」
転生しない。生まれ変わらないということか。生まれ変わることが果たして幸せなのかどうかは人によって違うのだろうが、とにかく、俺はその『烏』の力に驚く。
「嘘だ。」
郭公のおっさんが目尻の皺を増やし、笑う。なんなんだよ、と俺はつぶやきテレビに視線を戻す。多勢に無勢だったのか、やはり不良学生は不良集団にやられている。なんか、かわいそうだな。学生も、不良集団も。一体、こいつらは何のために戦って、何を守れているのだろうか。
「この国は平和すぎると思わないか?」
俺は再び郭公のおっさんの方を向く。郭公のおっさんはもう笑っていなかった。
「平和であることはいいことだ。奪い合い、傷つけ合う国家よりも、協力し、支え合う国家の方が持続力もあるだろう。なによりも、自らの命の保証がされる国家は、いかなる人類にとっても理想の国家だろう。そのはずなんだ。」
郭公のおっさんはそこで言葉を切る。泣き叫ぶ赤ん坊を見下ろし、赤ん坊を左右に一定のリズムで揺らす。
「しかし、悲しいことに人間は次元が低い。人間は自分しか把握することができない。いや、その自分すら完全に把握することはできない。他人の人生に至ってはなおさらだ。想像力が豊かな人間ならば、ある程度はその大きな能力の欠落を埋め合わせることができるだろう。しかし、想像力に欠ける人間は、他人の人生をいとも簡単に破壊する。そして、自らがその類の人間であることを自覚していない人間が増えてきた。殺さずとも、他人の人生を破壊することがあることを認識出来ない人間が、そのことに気がつかない人間があまりにも多くなってきた。」
「殺さずとも、人生を破壊する?」
郭公のおっさんは大きく頷いた。それきりだった。「だから、俺はこんな仕事をしているのだ。」という言葉が続くのではないかと思っていたが、そんなこともなかった。テレビでは先公が現れ、不良集団を一人で蹴散らしていた。
「なあ。俺が死んだら、おまえは泣いてくれるか?」
答えなかった。何が言いたいのか、よく分からなかった。気がつけば赤ん坊は静かになっていた。




