第38話 森の主
ギルドの中は昼時らしい賑わいに包まれていた。
酒場スペースでは冒険者達が酒を片手に騒ぎ、受付前では依頼帰りの連中が報酬を受け取っている。武器の擦れる音、笑い声、誰かの怒鳴り声――普段と変わらない光景のはずなのに、その賑わいはどこか落ち着かず、ざわめきの奥に薄い緊張が張り付いていた。
誰かが無意識に武器へ触れ、誰かが何度も入口へ視線を向けている。
理由は分からない。
ただ、全員が“森の件”を気にしていた。
「……広がるの早ぇな」
グリスが周囲を見回しながら低く呟く。
「一週間前に報告した時は、ここまで空気変わってなかっただろ。緑龍が目覚めたってだけでも十分厄介なのによ」
「でも最近ずっと変だったよね」
マリーも落ち着かなさそうに辺りを見渡した。
「魔物の縄張りとか、前と全然違ってたし」
「ああ」
グリスは小さく息を吐く。
「最初は森の異常だけだった。けど日に日にズレがデカくなってったんだよ。普通なら“主”が動けば周囲は静かになる。でも今回は逆だ」
「全部が外へ押し出されてる」
レナが静かに続ける。
「ゴブリンもボアも関係ない。縄張り争いとかじゃなく、何かから逃げてる動きだった」
「外縁部まで影響が出始めていた」
ダンも低く言う。
「ここまで森全体が乱れるのは異常だ」
シンは黙ったまま周囲を見る。
確かに空気がおかしい。
聞こえてくる音は多い。でも、その一つ一つが妙に尖って聞こえる。笑い声すら無理に明るくしているみたいで、普段みたいな気楽さがない。
(みんな分かってるのか)
その時、脳の奥へ静かに情報が流れる。
『ギルド入口方向より接近反応を確認』
(……?)
『対象の呼吸・足音に乱れを確認。緊急性が高い状態と推測します』
次の瞬間だった。
ギルドの扉が勢いよく開く。
鈍い音が響き、何人かの冒険者が反射的にそちらを向いた。
飛び込んできたのは、一人の冒険者だった。
泥だらけだった。
肩で荒く息をし、鎧には深い爪痕が走っている。顔色も悪い。その姿を見た瞬間、ギルドの空気が変わる。
「どうしました!?」
受付嬢が慌てて駆け寄る。
男は息を整える暇もなく叫んだ。
「森の魔物が暴走してる! ついに森の主が動き始めたんだ! 外縁部まで魔物が逃げてきてるぞ!」
ざわめきが止まる。
次の瞬間、ギルド内が爆発したように慌ただしくなる。
「どの辺だ!?」
「外縁まで来てるのか!?」
「被害は!?」
椅子が鳴り、武器を掴む音が重なり、空気が一気に張り詰めていく。
「落ち着いてください、詳細を!」
受付嬢が声を張る。
男は荒い息を吐きながら続けた。
「ゴブリンもボアも関係ねぇ! 縄張りも無視して全部外へ流れてきてる! ただ緑龍から逃げてるって感じじゃねぇんだ!」
その声には、はっきり恐怖が混じっていた。
「森の主そのものが、何かに苛立って暴れてるみてぇだった……!」
空気が変わる。
グリスの表情が険しくなる。
「……は?」
マリーも顔を青くした。
「ちょっと待って、それって……緑龍がおかしいってこと?」
「そこまでは見えてねぇ!」
男は叫ぶ。
「でも空気が変なんだ! 木が倒れてるし地面まで抉れてる! 魔物共もただ逃げてるだけじゃねぇ、何かに追われるみてぇに暴れてやがる!」
脳の奥へ情報が流れ込む。
『高出力エネルギー反応を感知』
『発生源:森深部』
シンの背筋を嫌な汗が流れた。
(チャッピー)
『危険度判定を更新します』
一拍。
『対象:緑龍と推定』
その言葉が妙に重く残る。
周囲ではすでにギルド職員達が慌ただしく動き始めていた。
「警戒依頼を出せ!」
「森周辺の冒険者を集めろ!」
「単独行動は禁止だ!」
飛び交う怒号の中心には、はっきりとした恐怖があった。
そんな中、レナだけは静かに森の方向を見ていた。
「……ありえない」
小さな呟き。
シンがそちらを見る。
レナは目を細めたまま続けた。
「緑龍は縄張りを荒らさない。あれは森を支配する側」
「なのに周囲ごと壊してる……」
ダンも低く続ける。
「何かに反応している可能性がある」
沈黙が落ちる。
シンは無意識に拳を握っていた。
脳の奥で、静かに情報が流れる。
『警告』
『現在戦力では危険度が高いと予測』
(……だろうな)
怖くないわけじゃない。
むしろ逃げるべきなのかもしれない。
それでも、なぜか視線は森の奥へ向いてしまう。
そこに何かがいる。
そんな確信だけがあった。
「どうする?」
レナがこちらを見る。
短い問い。
シンは小さく息を吐いた。
『推奨:調査』
苦笑が漏れる。
「お前、本当に危険なの好きだよな」
『否定します。生存率向上を優先しています』
(同じだろ、それ)
小さく笑ってから、シンは頷いた。
「ああ、行こう」
その瞬間だった。
森の奥から、低い咆哮が響く。
空気そのものが震え、ギルド内の全員が息を呑む。
誰もが理解した。
森の主が、動き始めたのだと。




