10. 知る
五十嵐 汐那は、恩師の娘だ。
控え目な性格だが、転んだ人にすぐさま手を差し伸べられる優しい子だった。
――2036年。交通事故により、その短い生涯を閉じるまでは。
◇◇◇
一瞬、意識を失っていたらしい。
ディーが“網”の先を求めた直後、突如激しい流れに叩きこまれ、平衡感覚が無くなるほど視界が滅茶苦茶に回った。あまりの事態に意識を手放したらしく、気が付いたときには奇妙な場所で目を覚ました。
白と黒の世界。地面には等間隔で白く光る正方形が並び、それ以外はすべてが黒く塗り籠められていた。白い正方形の中心からは、円柱が伸びて天井に突き刺さっている。正方形が唯一の光源らしく、辺りは薄暗かった。
(どこだ、ここは……)
地面で光る正方形はときおり明滅を繰り返し、静寂に相反して視界は忙しない。光に対して天井が高すぎるようで、上を仰ぎ見ても暗闇が広がるばかりだった。
――audit_skn_impl07_2157.log
情報が流れ込む。
天井を眺めて歩いていたら、いつの間にか地面の正方形を踏んでいたらしい。それが情報の流れ込んだ原因だと気が付いたディーは、意識して更に深く触れた。
(インプランター?セキナ、監査……ログ…………)
知っている響きが、点と点を線でつないでいく。“網”、パーティション、身体の無い意識体。もし、ここがそうであれば、すべて辻褄が合う。
しかし、ディーの思考がまとまるよりも前に、情報の波が押し寄せた。
2157年、セキナがインプランターに着任。
2158年、インプランターから離脱。
内歴2100年、貧困層の夫婦から誕生。
内歴2105年、インプランターの権能を自覚。
内歴2108年、夫婦の元を離れる。
内歴2116年、他インプランターと接触、攻撃を受ける。
(今、ここは、2116年のはずだ。であれば、この表記は……)
それは、ディーが知るよりも遥か未来。しかし、本来の――おそらく西暦――は、違うらしい。
なぜならば、<内歴>などという単語は存在しない。つまり、造語だ。<内歴>が“内の年月”を示すならば、外がある。そして、外の年月にあえて特別な表記をあてていないということは、それが一般の側――本来の暦であることを示す。
(つまり、外は……“現実”で、内が――)
◇◇◇
「仮想空間とはいえ、五感はシミュレートされますから……無茶は控えてくださいね、エン」
そうエンを諭したのは、白い髪と緑の瞳を持つ青年だった。
病室に居るのは、エンと青年――名は、ユード――の2人だけだ。辺りは不自然なほど人の気配が無く、診療所の外から届く街の喧騒はどこか遠い。
「セキナに勘繰られてる可能性を考えて、ニグモイ君の前から姿を消そうと思ってさぁ。死ぬのが一番手っ取り早いと思ったんだ……まあ、上手くいかなかったんだけど」
仮想空間内で死をシミュレートしたアニマは、初期化される。仮想空間での記憶が消え、仮想空間とは違う領域へ一時的に移動する。エンは、記憶の削除はしないよう、事前にユードへ依頼していた。
エンが片手を持ち上げて、自身の火傷を見つめる。そして、同時にユードの様子を観察した。
「……次は、こんな無茶をする前にせめて私に一声掛けてください。まだ軽度ですが、火傷による感染症も罹っています。火傷と一緒に治しますよ」
ユードはエンの探りに気がついたが、穏やかな物腰を崩すことは無かった。エンが居る方へ人差し指を向けると、そのまま宙を切る。ユードの視界にだけ、エンのシミュレート情報を示す半透明のウィンドウが並んだ。
「助かるよ、流石に2週間うごけないのは支障があるからね。あっ、でも火傷は見た目だけ残しておいてほしいかな。急に治ったら、怪しまれるから」
エンの言葉に、ユードは違和感を覚えた。エンはニグモイの前から姿を消そうとしていたはずだ。しかし、今の口ぶりでは、まるで今後もニグモイと共に行動するようではないか。
「ニグモイの前から姿を消したいのでは?例のギャングに報復されたように見せかけて、行方を眩ませることもできますよ」
「ああ……いや、大丈夫。ニグモイ君たちに助けられた時、彼の仕事仲間からセキナの情報が手に入ってね。今はそっちを追いたいんだ」
ユードの目に驚きが浮かぶ。それが単なる驚きなのか、意図していたことが上手くいかなかったことに依るのか、エンは判別しきれなかった。
ユード曰く、この仮想空間でセキナを見つけることは、今まで出来なかったと口にしていたからだ。
「仕事仲間……その人物の動向は、こちらで追いましょうか?」
その仕事仲間が、この仮想空間に本来存在しないアニマ――すなわち、ディーだとは言えない。そのことは伏せて、エンは白を切った。
「うーん……悩むけど、やめとくよ。キミと私が手を結んでるのは、バレない方が騙し討ちとか……色々と仕掛けやすいし」
真実を交えた尤もらしい嘘を用意したが、ユードの反応はエンが拍子抜けするほど、あっさりしていた。
「分かりました。手に余る事態が起きれば、いつでも連絡してくださいね」
ユードが言いながら、宙で何かを操作する素振りを見せる。その直後、エンは火傷の痛みや倦怠感が自身の身体から消え失せるのを感じた。
「我々は、クェンの現状も見過ごせません。貴女の無茶を止める権利はありませんが……取引のみを重視している訳ではないとだけ、お伝えしておきます」
ユードの言葉に、エンは沈黙を選んだ。そして、一礼してユードが消えた後も、エンはユードが立っていた場所を見つめていた。
(今更そんな言葉を喜べるほどの素直さは、私に無い。ただ、クェンが欲しい言葉を、人類じゃなくAGIがくれるとはね……)
このパーティション059を、クェンの安住の地とする。それがユードとの取引における条件だ。
現実世界から隔絶された仮想空間。ここにもクェンへの差別意識はあるが、それでも身体が満足に動かせる。それで、十分だ。
(貴女の無茶を止める権利はありません、ね。……ハハ、やっぱ死のうとしてた理由くらいは、見当がつくか)
クェンの脳内機構は、人類をアニマ化する上での基礎フォーマットを生み出した。その過程で人の道から外れた行為が行われ、結果クェンは真っ当なアニマ化ができていない。そんなクェンを仮想空間で正しくシミュレートできるか、それはエンにとっての重要事項だ。
(……クェンの犠牲で生き永らえた人類など、滅びればよかった)
当時、差別されて追いやられたクェンが不当な理由で連行されていったが、ほとんどの人間が気にしなかった。あるいは、腫れ物扱いで目を背けた。なにせ、そのためにテロ組織と協力した独立の蜂起をさせたのだ。
「ふ……はは、アハハハハ……!」
分かっている。人間なんて、自分も、クェンも含めてそんなものだ。
愚かで、無関心で、そして少しの弾みで破滅する。それだけのことだ。分かっている。分かっている。
――ただ、憎い。利己で、クェンを貶めた奴が。
「ハハハハ!ハハ!……フッ、ハーッ、ハーーッ……」
狂気の奔流に呑まれる自身を、エンは自覚していた。感情に任せて全てを投げ打つ情動を抑えられるのは、まだ憎悪の清算が終わっていないからだ。
(ヴァルアー、必ずお前に地獄を見せてやる……)
そのための材料は、すぐそばにあるのだから。




