第七章 祓うもの、鎮めるもの
そう勇んで祈祷学園を出たはいいものの。
「まいった……」
コンビニで腹ごしらえを済ませたあと、椿はあてもなく鴨川をぶらついていた。
なにせ紙片だけでは、あまりに手がかりが少ない。
燃えかすのような状態から見て取れるのは、元がなにかの符だったことくらいだ。
(符、か……)
銃火器ならともかく、護符や呪符についてはほとんどなにも知らない。祈祷師が好んで使っていた道具のひとつで、霊力を高め、怪異を祓っていたということくらいか。
出町橋を渡って鴨川デルタへ。
いつ来てもにぎやかな場所だと思った。大学生がギターをかき鳴らし、親子連れが飛び石で遊んでいる。さいきんは緊急出動が多くてしばらく来ていなかったが、一年生のころは梓や杏とよく来ていた。最後に来たのは、たしか柊が転校してくる少し前だった気がする。
鴨川デルタを過ぎ、河合橋を渡る。
符についていまから調べるのは現実的でない。種類だけでも多すぎる。そもそも符は手段のひとつであって、土蜘蛛にたどり着かなければ意味がない。
(わかってんだよな……)
どうすべきか、なんて最初からわかっている。わかったうえで、うじうじともっともらしく言い訳を並べて逃げていただけだ。
「あー……っ、くそ」
踵を返す。河合橋を渡り、鴨川デルタへ。
喧騒に包まれながら、武骨なスマートフォンを取り出す。学園から支給される軍用のそれの画面を慣れた手つきでタップする。
ほどなく、目当ての名前が表示された。
「……ふぅ……」
意を決して通話ボタンをタップ。
ワンコール。
ツーコール。
スリーコール。
無機質な機械音だけが耳元で鳴り続ける。
「………………」
繋がらなかったことに、少し安心してしまった。なさけない。
あとでかけ直そう、と思って終話アイコンをタップしようとして――
通話画面に切り替わった。
「あっ」
思わずスマートフォンを落としてしまった。何度か地面を転がって、慌てて拾いあげる。
「わ、わりぃ、神宮寺! スマホ落としちまって――」
『いえ』
聞いたこともない冷えた声だった。当然だと思う。それでも、こうして電話に出てくれただけでもありがたい。
「あのさ……そのっ、きのうは――」
『要件をお聞きします』
「――じつは――」
●
『そういうことでしたら、わたくしの家に来ていただけませんか』
そう言われたのが、だいたい一五分くらい前だ。
「いや、オレ神宮寺の家なんて知らな――」
『タクシーの運転手さんに神宮寺と言えばわかります』
そのとおりだった。
河原町通で慣れないタクシーに乗り込んだ。ひとの良さそうな小太りの運転手に「神宮寺、ってわかりますか?」と訊くと「もちろん」と返ってきた。
「もしかして、お兄さんは神宮寺さんとこのお嬢さんと同級生かいな?」
「はぁ……えっと、柊……さんならオ……僕と同じクラスですけど」
「名前までは知らへんのやけど、その子とちゃうかな。神宮寺さんとこ、お嬢さんはひとりだけやったはずやし」
「……有名なんですか?」
「京都でタクシー乗ってて神宮寺さん知らへん運転手はおらへんよ。……そうか、いまの若い子たちは神宮寺さん知らへん子もいてるんやなぁ」
ポン、っとお腹を叩きながら運転手はしみじみと言った。
「昔はなぁ、祈祷師さんいうたら神宮寺さんやった。いまでこそ減ってきとるが、ひどいときはお客さんの半分以上を神宮寺さんに運んだもんや。ハイヤー業界に知り合いいてるんやけどな、そいつも前に似たようなこと言うてたわ」
信号待ちでタクシーが止まる。普段は緊急車両にしか乗らない椿にとって、それだけでも新鮮な体験だった。
どうやら道が混んでいるらしく、その後ものろのろと亀のようにしか進まない。
「わしも若いころ、怪異やなんやに何度も襲われたことあったけど、助けてくれたんはいっつも神宮寺さんとこの祈祷師さんやったわ」
バックミラー越しに運転手と目が合った。
椿の表情を見て、運転手は話を続ける。
「当時は日本でも、指折りの祈祷師一族やったらしいわ。……いや、それはいまでも変わらんかったかな。はっきり覚えてないんやけど、それがなぁ……」
「なにかあったんですか?」
そのとき、対向車線でクラクションが鳴った。
ふたりの視線が同時にそれる。タクシーが道のド真ん中で客を下ろしていて、周りの車が揃って目くじらを立てていた。
「悪いとは思うとるんやけど、下手に進んでメーター転がすわけにもいかへんしな」
運転手は頭を掻きながらそう言った。タクシー業界もいろいろと大変らしい。
「……ああ、そうそう。軍用祈祷の話やったな」
椿は生唾を飲み込んだ。
「帝国が軍用祈祷に舵を切ったんはこの十数年の話やけど、そっから祈祷師さんの数がえらい減ってしもうてな。むかしは月に何度かは祈祷しもって歩き回ってたもんも、いまじゃとんと見んくなったしなぁ」
「……それは……」
「――あぁ、いやいや! 帝の御考えは正しかったと思うとるよ! それに軍用祈祷を否定しとるわけとちゃうくて……実際、怪異の被害はずっと減っとるんやし」
運転手はなぜか椿に言い訳をした。真剣に聞き入って、顔をしかめていたからだろうか。それとも椿が祈祷兵団の軍服を身にまとっていることに気づいたからだろうか。
「……ただなぁ、こんだけ祈祷師さんが減ると、寂しいんも事実なんや」
運転手はハンドルを指でとんとんと叩きながら、
「これからは祈祷師さんも生き残るの大変や思うよ。一代、二代程度の家ならあれやけど、それが神宮寺さんとこみたいに何百年も続く御家ともなったら、自分の代で簡単に潰すわけにもいかへんしな。なんとかして生き残らな、って死に物狂いになるんとちゃうかな」
「………………」
「お嬢さんも大変やろなぁ」
それっきり車内は無言だった。何度か運転手は話をしたそうにしていたが、椿の顔色を見て口をつぐんでいた。
そうしてしばらく走り続けるとようやく渋滞を抜け、タクシーはするすると進みだした。
それから少し経って、運転手が窓の外を指さした。
なんだ、と思って椿は目を向ける。
一秒。
二秒。
ようやく運転手の言いたいことが理解できた。
「……うそ、だろ……」
「はじめて見た人は、みーんなそういう反応をするよ」
鴨川から少し東へ入った山際。
そこにかまえられた豪邸――椿の貧相な語彙では、そうとしか言えなかった――高い塀に囲まれ、三つの瓦屋根が見える。そのうちのひとつは五重塔みたいな形をしていた。
「あれが神宮寺さんや」
●
タクシーから降りて、たっぷり一分は背の高い門扉を見上げていただろうか。明るい赤茶けた石でできた塀は、(値段が)とても高そうだった。
塀は視界の端から端までを埋めていた。
見える範囲すべてが神宮寺家の敷地らしい。学園の訓練場を見て驚いていたのはいったいなんだったのか。
ここまでくると、自分のような庶民には羨望も嫉妬も出てこない。
出てきたのは単純なひと言「すげぇ……!」
「ふぅ……」
あらためて門扉を前にする。
意外、というかインターホンは普通にあった。それもどこででも見かけられそうなものだった。なぜかほんの少し安心して、同時に拍子抜けもした。
ボタンに指を置く。
と、
『どちら様でしょうか』
「うおっ、っ!」
ひっくり返りそうになった。
無機質なカメラのレンズが、まぬけな声をあげた椿を容赦なく映している。
『当家になにかご用でしょうか』
声のトーンが二段階くらい下がった。
女性の声だ。明らかに不審がられている。
このままだとまずい。
「あ、っと、すみません。オ……僕は番匠谷椿といいます。じんぐ……柊さんのクラスメイトで――」
『これは大変な失礼をいたしました、すぐに迎えを向かわせます! 少々お待ちくださいませ!』
「え? あ、はぁ……?」
三段階くらい上がったトーンで言われた。
インターホンの奥のほうから『お嬢様の御学友がお見えになりました!』『はやく車を回しなさい!』『お茶の準備を――』『納戸から――』などといった声や物音が聞こえて、ガチャリとインターホンが切れた。
「……なんだ?」
そのまま言われたとおり待つこと数分。
重そうな門扉が音を立ててようやく開いた。
「たいへん長らくお待たせし申し訳ございません、番匠谷様。どうぞこちらへ」
奥から現れた初老の男性が恭しく礼をした。絵に描いたような執事服姿だ。
「………………」
執事の後ろには、うそみたいなリムジンが停まっていた。
乗るのはもちろん、見るのもはじめてだった。
というか、ひと様に車のドアを開けてもらうのもはじめてだったし、敷地内を車で移動するのだってはじめてだ。
数分前までは、まるで感じていなかった羨望と嫉妬の感情が簡単に芽生えた。
なるほど、こうやって人は犯罪に身を堕とすらしい。
(神宮寺に会ったら土下座のひとつやふたつして、許してもらうつもりだったけど……絶対にしてやるか)
椿のいびつな思考とは対照的に、リムジンはなめらかに旋回すると、ゆっくりと発進した。
「ご訪問いただきありがとうございます。わたくし、神宮寺家で執事長をしております、五斗田と申します」
「ど、どうも……」
「屋敷までは少しお時間をいただきます。大変心苦しくは存じますが、しばしご辛抱を――」
敷地内を数分運転しないと家――ではなく屋敷に着かないらしい。どうなってんだ。
まるで揺れない冷房の効いたリムジン。革張りの椅子。冷蔵庫らしきものがあったので開け――ない。
(旅館の冷蔵庫みたいに開けたら料金が発生するかもしれないからな……!)
五斗田がバックミラー越しに椿を見ながら言った。
「どうぞ、お好きなものをお好きなだけお飲みください」
「っ、ありがとう、ございます……」
言われて仕方なく開けた。
中には炭酸飲料からブラックコーヒーまで、未成年の飲めるものがひと通り揃っていた。どれもキンキンに冷えている。
目移りすることなく、水の入ったペットボトルを手に取った。見たことも聞いたこともないようなメーカーの、なんか、そういう高そうな水だった。
(ぜんぜん落ち着かねぇ……!)
背中が痒くなってきた。
軍用車両の狭苦しい荷台へ放り込まれることに慣れている身としては、この上なく快適なはずの車内が、まるで拷問のように感じられた。
そうこうしている間に、リムジンが影に覆われた。
窓の外に目を向ける。
観光パンフレットに載っていてもおかしくない深い竹林が広がっていた。帝国の人間としては心が和む光景だが、ひと様の、それもクラスメイトの実家の庭の一角だと思った途端にむずむずする。
「お嬢様は、学園ではどのように過ごされていますか」
不意に話しかけられ、椿はぴしりと背筋を伸ばして答えた。
「……神宮寺さんはみんなと仲良くしています。転校してきてひと月ほどですが、座学はみんなが教えてもらっていて、とても助かっています」
「それはなによりでございます。軍用祈祷についてはいかがですか」
「――とても頼りにしています」
間が空いたのは許してほしい。たしかに土蜘蛛は柊がいなければダメだったが、それ以外ではあまりにも頼りない。
言葉を選ばず言うのであれば、祈銃を持たず霊力のみで戦ってくれたほうが助かる。
これまで実戦、授業を含めて重大なフレンドリーファイアが起きなかったのは、きっと柊がこれまで積み重ねてきた徳の賜物だ。
もちろん、そんなことは口が裂けても言えない。
「番匠谷様は信頼できるかたのようですね」
椿は思わずバックミラーに目を向けた。
五斗田のしわを刻んだ顔がにやりと笑んでいる。椿はふと、この人むかしは悪かったんじゃないか、と思った。
「お嬢様は神宮寺家の次期当主です。持って生まれた才能は当然として、幼少のころからそれはそれは厳しい教育を施されてきました」
まるで自慢の娘、いや孫を語る祖父のように柔和な物言いだ。
「なによりお嬢様ご自身がそうなるべく努力を続けてこられました。手前味噌ではございますが、お嬢様ほど才能に溢れ、また研鑽を積んだ祈祷師は、神宮寺家の歴史を紐解いてみても数えるほどしかいないと、わたくしは思っています」
とはいえ、
「時代の流れは変えられません。帝のご意向であれば帝国民としては従うしかない。いくらお嬢様が祈祷師として優れていたとしても、慣れ親しんだ符や数珠を捨て、見たこともない祈銃や破魔矢を手に取るしかない。それが現代の祈祷師の在り方なのですから」
「………………」
「お嬢様も、それはもちろん理解しておられますが」
バックミラー越しに五斗田が椿を見た。
虫なら殺せるかもしれないほどのするどい眼光に射抜かれ、思わず水を口に含んだ。
それがまずかった。
「お嬢様の射撃能力は壊滅的です」
「ぶふっ!」
やってしまった。
自分が一生働いても絶対に買えないリムジンの中で。
だけど、いまのはどう考えても五斗田が――いや、まずはなにより誠意を見せなければ。
「す、すすすみません!」
「お気になさらず。――御学友でけがをされたかたはいませんか?」
「え? ……い、いまのところは、まだ……」
「それはずいぶん成長なさいました。屋敷で祈銃の訓練をされていたころは、何人の庭師と執事が凶弾に撃ち抜かれたことか」
笑うな、番匠谷椿。
もしここで柊を少しでも馬鹿にしたように取られたら、一生債務者として生きることになるぞ。
「お嬢様は祈祷兵としての才には、なにひとつ恵まれなかった。一〇〇年前に生まれたなら稀代の祈祷師として後の歴史書に名を残していたでしょうが、時代はそれを選ばなかった」
竹林を抜ける。
陽の光に照らされて見えたのは、学園の訓練場くらいの屋敷が二棟と遠くから見えた五重塔。
「それでも神宮寺家三八代目当主を継ぐ者として、お嬢様は軍用祈祷の道を選ばれました。番匠谷様、どうかこれからもお嬢様のことを支えていただけますよう、よろしくお願いいたします」
リムジンが車止めに入った。いち客人、それもVIPでもなんでもない、ただのいち学生を出迎えるために、十数人のメイドと執事が待ち構えていた。
いまさら椿は、じつはぜんぶ柊が仕組んだ盛大な仕返しなんじゃないか、と思った。
●
「「「ようこそお越しくださいました! 番匠谷様!」」」
リムジンから降りた椿は集っていた十数人のメイド、執事に唱和され、頭を下げられた。痒かった背中が、これ以上ないほどむずむずする。
柊はいいとこのお嬢様だとは思っていたが、想像の百倍はお嬢様だったらしい。
「ご足労いただきまして誠にありがとうございます。わたくしはメイド長を務めさせていただいております、森ノ宮と申します」
目が回りそうな椿の前に立った森ノ宮と名乗るメイドは、スカートの裾をもって慇懃に礼をした。
「ど、どうも……」
「お嬢様は現在、書庫にて調べ物をしている最中でございます。まだしばらくかかるかと存じますので、応接室にてお待ちいただいてもよろしいでしょうか」
「は、はぁ。それは全然かまいません……」
「ありがとうございます。ご案内いたします」
森ノ宮の先導で神宮寺家の敷居をまたいだ。
外観は純和風の屋敷だが、意外と中はそうでもなかった。てっきり畳廊下でも連なっているのかと思っていたが、廊下には冗談みたいな毛足の絨毯が敷かれていた。一定の間隔で置かれた灯籠っぽい照明で雰囲気は出ているが。
壁には歴代のお偉いさんだと思しき人たちの自画像も飾られていた。パッと見たかぎりでは、女性のほうが多い。そのだれもに、どことなく柊の面影が見える。
「こちらは歴代の神宮寺家の御当主様たちです」
森ノ宮が案内してくれた。
そこでようやく気づいた。インターホンで受け答えしてくれたのは、彼女だったらしい。
(ってことは、もう何年かしたらここに柊の自画像も並ぶのか……)
なんとなく不思議な気分だった。
「こちらでございます」
きょろきょろしながら廊下を進むこと数分。
ようやく椿は応接室にたどり着いた。
意外というか、なんというか。応接室も洋風の造りだった。
「どうぞ、おかけになってお待ちください」
「はい……」
森ノ宮に勧められたので仕方なくソファに座ったが、本当は座りたくなんてなかった。どう見てもなにかの革でできた高級なソファだったから。
落ち着かないので視線が忙しなく動く。
応接室には絵画や彫像など、高そうな調度品ばかりが所狭しと並んでいた。なんとなく部屋の造りにはそぐわない気もしたが、たぶんきっとこれが上流階級というものなのだろう。しらんけど。
(一般すぎる庶民の感覚だけどな……ん?)
視線が大きな窓へ向けられた。
窓の向こうには立派な日本庭園が広がっていた。鹿威しや松の木など、いかにもなものの奥に、ここに来るまでに抜けてきた竹林も見えた。
(ここだけ見てよ)
そうして少し経ち、さすがに心が少し落ち着いてきたころ。
「失礼いたします」
五斗田がお茶を持ってきた。
お抹茶とカステラ。
そこまではまだ良かったが、椿の目はそれらが入れられている器に釘付けだった。
(ぜったい、高い……!)
素人目で見ても高級だとわかる器。さすがにうん千万もするような器ではないだろうことは、なんとなく察せた。
だが、うん十万はするかもしれない。
「粗茶でございますが」と五斗田。
そんなわけあるか、と叫びたい気持ちを全力でこらえ、震えないように丹田に力を込めて器に手をつけた。
そこでまた問題が発生した。
抹茶をたしなむ作法があることは知っているが、その作法をまるで知らない。
抹茶は音を立てて飲むものだったか。
最初は菓子に手をつけるべきだったか。
器を回すのはどうするんだったか。
器ではなく、椿の脳内がぐるぐると凄まじい勢いで思考していると、
「――五斗田さん! 森ノ宮さん! これはいったいどういうことですか!?」
顔を真っ赤にした着物姿の柊が、叩きつけるように扉を開けて入室してきた。
「来客をお伝えしていなかったわたくしにも落ち度はありますが、限度というものがございます! これではただの成り金の接待ではありませんか!」
「なにをおっしゃいますか、お嬢様。わたくしどもは次期当主の御学友様に対して、最低限のおもてなしをしたにすぎません」
「五斗田の言うとおりでございます。それどころか、神宮寺家としてこの程度のおもてなししかできず、番匠谷様にはたいへん心苦しい思いをさせたのではないかと……われわれ臣下一同、たいへん心を痛めております」
「あ、あの、いま以上に手厚くもてなされたら、胃がすり潰れちゃうんですけど……」
かっこん、と鹿威しの音が日本庭園に木霊した。
なぜかとてもまぬけな音に聞こえた。
●
「それでは、わたくしたちはこれで……」と五斗田。
「なにかありましたらいつでもお申し付けください……」と森ノ宮。
「はやく出ていってください!」と柊がぷりぷりと言った。
執事長とメイド長は柊にこっぴどく怒られた後、不承不承のていで出ていった。
応接室からは高そうな絵画や彫像がすべてなくなっていた。どうやらあれは良かれと思って五斗田たちが納戸からわざわざ運んできたものらしく、普段はなにひとつ飾られていないらしい。
応接室に残った調度品はテーブルの上の花瓶だけ。
青い一輪挿しには夏らしく、小さな向日葵が生けられている。ただそれだけなのに、ずっと品が良い。
「五斗田たちが、たいへんな失礼をいたしました」
「あ、いや、オレのほうこそ急に押しかけて悪かったよ……」
柊は書庫で調べ物をしていて、椿の来訪を伝えるのを忘れていたそうだ。なにやら騒々しいと思って出てきたら案の定、ということだったらしい。
顔を真っ赤にしていた柊が咳払いをひとつ挟む。
それだけでいつもの凛々しい表情に戻っていた。
「それでは、さっそくなんですが電話で話していた紙片を――」
「いや、待ってくれ。その前に」
ソファから立ち上がり、柊の正面に立つ。
生成りの着物に身を包む柊は、普段にも増して凛とした雰囲気をまとっている。あらためて名家のお嬢様ということを強く意識させられた。
「悪かった! オレ、梓たちのことでイライラして、神宮寺に当たり散らすようなこと言ったり、その、ひどいことも言って……」
頭を下げる。
梓と杏があんなことになって焦っていた。
自分で解決したい、仇を討ちたいと独りよがりになっていた。
その結果、自分を心配してくれた少女を傷つけてしまった。
「売り言葉に買い言葉で言ってしまったけど、あれはオレの本心ってわけじゃ――」
「吐いた唾は飲めません」
「………………」
「本心ではなかったのかもしれない。その場の勢いで言っただけだったのかもしれない。それでも番匠谷さんはたしかに言葉を発して、わたくしの耳はそれを聞きました」
「――いや、それは――!」
勢いよく頭を上げる。
柊は、氷のように冷え切った黒瞳で椿をまっすぐ見据えていた。
怒っているとも呆れているとも、あるいはそのどちらも孕んでいるようにも見えた。
「人のことをどう思っていようとも自由です。番匠谷さんがわたくしのことをノーコンだと思っていようと、化け物だと思っていようともお好きにどうぞ。ですが、それを口に出すのは話がべつです」
「………………」
「謝罪は受け入れます。ですが、わたくしはあなたを軽蔑します」
「――っ、わかった……」
いまはこれ以上なにを言っても聞き入れてくれないだろう。
「そんなことより紙片を見せていただけますか。土蜘蛛の件はわたくしも気になっていたので、少し調べていました」
「ああ」
仕方がない。いまはとにかく前へ進むことだけ考えよう。
紙片を取り出し、テーブルに置く。燃えかすのような紙片は、気をつけないと崩れてしまいそうだ。
柊は優しい手つきでそっと触れた。
「ずいぶんと旧い術式が施された符ですね」
「そうなのか」
「えぇ。これは――」
そういって、柊は書庫から持ってきた六法全書みたいな本をめくりだした。
「――これです」
広げられたページには難しい術式がびっしりと書き記されていた。
「すまん、わからん」
軍用祈祷で必要なのは基本的に霊力だけ。
符や祈祷に対する知識なんて必要ない。
むしろ銃火器の扱いや構造の知識のほうが何倍も役に立つ。
椿が符に刻まれた術式の話についていけるはずもなかった。
「簡単に言うなら、これは先帝時代に多かった術式です」
「………………」
「納得いかない顔をしていますね」
「当たり前だろ」
図書室の資料に書かれていたことがそれだった。
「知らなかった。皇帝家には派閥が存在するんだってな」
「えぇ」
「ひとつは現帝、つまり怪異は祓うべき、あるいは滅するべきものだって考える派閥。資料には過激派って書かれてたな。軍用祈祷を推し進めた帝、とも書かれていた」
「そしてもうひとつが、怪異との共存共栄を目指す保守派。先帝時代は――というより、歴史で見れば保守派の時代のほうがずっと長いのです」
「クソが」
反吐が出そうな考え方だ。
「怪異と共存なんかできるわけないだろが。あいつらはしつけのできない猛獣と同じだぞ。檻に入れても檻ごとぶっ壊す存在だ。そんなのと――」
「わたくしはそう思いません」
「あ?」
聞き捨てならなかった。
「どういう意味だ?」
「そもそも祈祷師の多くは、いまの話で言うなら保守派の人間なのです」
「……なんだと?」
「わかりやすく言うなら軍用祈祷では怪異を祓う、と言います。文字通り、怪異の存在を祓い、滅することを指します」
柊が胸の前で指を組んだ。祈祷師が祈りを捧げる指折の仕草だ。
「一方、祈祷師は怪異を鎮める、と言います。祈りを捧げることで暴れる怪異を鎮める。そうして互いに干渉しないようにするのです」
「……そんなことはじめて聞いたぞ」
いくら勉強嫌いとはいえ、自分は帝を最高司令官に戴く帝国祈祷兵団の候補生だ。過激派や保守派といった言葉をいままで一度も聞いたことがないのは、さすがにおかしいだろう。
「番匠谷さんが知らないのも当然です。保守派はそういったことを吹聴しないよう、歴代の帝から強く要請されてきたのですから」
「いったいどうし――」
「不敬ですよ」
「………………」
「そんなことより、いまはほかに考えるべきことがあるのではないでしょうか」
「……そうだな」
いまは過激派や保守派なんてどうだっていい。とにかく欲しいのは、この符と土蜘蛛についての情報だ。
「それで? どんな術式なんだよ」
「これは怪異を鎮めるための術式のひとつです。荒れる怪異を鎮め、あるべきところに送り帰す――珍しいものではありません。祈祷師であれば、どなたでも見たことはあるでしょう」
それよりも柊はべつのことが気になった。
「ずいぶんと旧い帝国記章のようですね。先帝ではなく先々帝……いえ、もっと昔の――」
柊は、紙片をためつすがめつ眺めて言った。
燃えかすのような紙片には、柊が言う術式とはべつに帝国の記章が記されていた。
帝国記章は帝が崩御するたびに変わる。
欠けてはいるが、紙片に記されている記章は今代とも先帝とも違うものに見える。
その発言を聞いて、椿はようやく自分が役立てそうだと思った。
「術式よりも、そっちがヒントになるんだな」
「そうですね。この時代の帝の派閥や背景がわかれば――」
「心当たりがある」
鹿威しの音が凛々しく日本庭園に響いた。




