第九話 魔獣
カイロスとエイラ、その頃――
「あいつら、下に落ちたってことか? でも、さっきここを通ってきた時には、穴なんてなかったよな?」
カイロスは腑に落ちない様子で首をかしげた。
彼は周囲へ視線を巡らせた。
背後には、先ほど突如としてせり上がった石壁。左右には、さっきまで四人で進むかどうか話していた二つの通路が続いている。
エイラは真っ暗な通路の入口まで歩み寄ると、小さく首を傾け、耳を澄ませた。
何の物音も聞こえない。あまりにも静かで、その沈黙がかえって不気味さを際立たせていた。
その時――
左右それぞれの壁面に、黄金の紋様が一本ずつ浮かび上がった。
その金色の紋様は石壁に沿ってゆっくりと流れ、やがて見えない奥深くへと続いていった。
カイロスもその異変に気づいた。
彼は壁へそっと手のひらを当て、その内を流れる魔力の流れをじっと探る。
「すごい量の魔力が流れてる……。これは地道にもともと組み込まれていた魔法の仕掛けだろ? どうして急に起動したんだ?」
エイラは答えなかった。
その代わり、何かの気配を感じ取ったように、静かに表情を引き締めた。
再び背後の暗い通路へと視線を向けた。
そこには相変わらず、一筋の光すら届かない漆黒の闇が広がっているだけだった。
だが、エイラには感じられた。
闇の奥深くから、無数の視線がこちらをじっと見つめているような気配を。
エイラはカイロスのもとへ戻ると、静かに手を上げ、漆黒の奥深くをまっすぐ指差した。
「焼け。」
「了解! 炎弾!」
カイロスが威勢よく応じると、指先から一発の火球が放たれた。
炎弾は一直線に漆黒の通路へと飛び込み、その闇を切り裂くように突き進んでいった。
轟──!!
爆炎が闇を切り裂き、地道全体を一瞬にして照らし出した。
その光は、深奥に潜んでいたものすべてを容赦なく照らし出した。
地道の最奥には、無数の影狼が闇に身を潜めていた。
炎の光に照らされ、その影は長く地面へと伸び、低く身を構えた影狼たちは、鋭い爪を地面へ深々と食い込ませていた。
無数の深紅の瞳が、二人をじっと見据えていた。
だが、影狼たちは自ら襲いかかってくることはない。
低く身を伏せ、喉の奥から威嚇するような唸り声を漏らしながら――獲物が自ら踏み込んでくるその瞬間を、静かに待ち構えていた。
「おっ! ちょうど体を動かしたいと思ってたところなんだ。こいつら、全部倒しちゃっていいんだよな?」
カイロスはそう言いながら前へ歩み出て、首や肩を鳴らして軽く体をほぐすと、両腕を前へ突き出した。
その掌から炎が噴き上がり、手首を伝って腕全体を包み込むように広がっていく。
カイロスが構えを取った、その瞬間――影狼たちが動いた。
鋭い爪が地面を引っかき、耳障りな音を響かせた。喉の奥から漏れる低い唸り声は、まるで合図だった。
その声が地道にこだますると同時に、無数の影狼が一斉に飛び出し、二人へと襲いかかった。
カイロスは一歩も退かなかった。
口元に獰猛な笑みを浮かべると、魔力を両脚へ集中させた。
次の瞬間、地を蹴り、一瞬で狼の群れのど真ん中へ飛び込んだ。
「火舞!」
その声とともに、紅蓮の炎がカイロスを中心に幾重もの輪となって外へ広がった。
まるで一輪の巨大な花が咲き誇るかのように。
灼熱の熱波が一瞬にして地道全体を飲み込み、轟然と駆け抜けた。
先頭を駆けていた影狼たちは、迫り来る炎に押し返された。
鋭い爪が地面を引き裂き、石床には幾筋もの長い爪痕が刻まれていった。
反応が遅れた数匹は、その身を炎にかすめられた。
毛皮は一瞬で燃え上がり、苦痛に満ちた低い悲鳴を上げた。
残る影狼たちも攻撃の足を止めざるを得なかった。
燃え盛る炎の輪の外側を苛立たしげに歩き回りながら、深紅の瞳でカイロスをじっと睨みつける。
そして、再び飛びかかる機会を静かにうかがっていた。
揺らめく炎に照らされながら、カイロスは獰猛に口角を吊り上げた。
その瞳には、戦いを心から楽しむような興奮の光が宿っていた。
「炎刃!」
カイロスは大きく一歩踏み込み、右腕を力強く振り抜いた。
腕に巻きついた炎はその動きに呼応し、燃え盛る半月の刃となって前方へと薙ぎ払われた。
炎刃が、正面の影狼たちへ一直線に走った。
「おらぁっ! これでも喰らえ!!」
紅蓮の炎刃が空気を切り裂き、狼の群れの中で炸裂した。
影狼たちはまとめて吹き飛ばされ、勢いよく石壁へと叩きつけられた。
火花が四方へ飛び散る。
間近にいた影狼たちは炎に包まれ、苦しげな唸り声を上げながら地面を激しく転げ回り、必死に体に燃え移った炎を振り払おうとしていた。
わずか数瞬のうちに――
先ほどまでカイロスを取り囲んでいた狼の群れは、そのほとんどが倒れ伏し、炎の外でなお牙をむいているのは、ほんの数匹だけとなっていた。
「なかなか手際がいいわね。」
エイラは分かれ道の入口に立ったまま、どこか他人事のように、ぱちぱちと拍手を送った。
その口調はあまりにも淡々としていた。
まるで今の激戦も、ただ訓練を一度終えただけ――そんな程度の出来事でしかないかのように。
「褒めてくれてありがと~。でもさ、ここってこんなもんなのか?」
カイロスは振り返ると、にやりと笑い、腕にまとわりつく炎を気軽く振り払った。
その時だった。二人が言葉を交わしている最中――
地道の奥深くから、再び低く響く狼の遠吠えがこだました。
二人は同時に振り返る。
漆黒の闇の最奥で――再び、無数の深紅の瞳が浮かび上がっていた。
「ちっ、まだ終わりじゃないのかよ。」
カイロスは眉をひそめ、背後の闇を睨みつけた。
「影狼。B級魔獣。闇の中で群れを成して生息し、一つの群れは非常に大規模。一匹見かけたら、その周囲には百匹以上いると考えたほうがいい。」
エイラは携帯している手帳を開き、そこに記された文字へ視線を走らせながら淡々と読み上げた。
「はぁ!? 百匹以上!? この地道にそんな数入りきるのかよ!? それに、地道にいるのってC級魔獣だけじゃなかったのか?」
カイロスは思わず目を丸くしながら、先ほど自分が倒した影狼の数を頭の中で必死に数え始めた。
エイラは答えなかった。
静かに手帳を閉じると、明るく照らされた背後の通路へと視線を向ける。
(……この地道が、このまま何事もなく終わるとは思えない。)
そんな胸騒ぎだけが、どうしても拭えなかった。
地道へ足を踏み入れた時からずっと――誰かに見られているような感覚が、彼女の胸から消えることはなかった。
まるで何かが、地下のどこかで――。
岩の隙間に、闇の奥に、ひっそりと身を潜めながら、ずっと自分たちを見つめているかのようだった。
エイラは静かに身をかがめ、足元に落ちていた小石を一つ拾い上げた。
――カッ! 指先で軽く弾かれた小石は、真っすぐ地道の奥へと飛んでいった。
ゴゴ……ゴゴゴッ――。
その瞬間、左右の壁が同時に軋むような音を立て、壁一面に十数本もの亀裂が走った。
次の瞬間、その裂け目の奥から、無数の黒い影がどっと溢れ出した。
無数の影蝶が地道いっぱいに溢れ出した。
その数は優に百を超え、黒い群れがびっしりと通路を埋め尽くしていた。
あまりの密集ぶりに、思わず総毛立つような光景だった。
群れはわずかに差し込んでいた光さえ覆い隠し、次の戦いの段取りを素早く思い描いていた。
「なんだよ、あれ……?」
カイロスは頭上を埋め尽くす黒い影を見上げながら、次の戦いを素早く組み立て始めていた。
「影蝶。D級魔獣。少しだけ毒を持ってる。」
「どんな毒なんだ?」
「幻覚を見せるだけよ。それより、自分のほうに気をつけて。影狼は魔力を吸収するわ。」
「了解。」
カイロスは軽く笑みを浮かべて応えた。
その掌に宿る炎は一瞬にして勢いを増し、灼熱の熱波が再び地道全体を駆け抜けた。
その凄まじい熱気に阻まれ、反対側から押し寄せていた影蝶たちも、それ以上近づけずにいた。
エイラはわずかに眉をひそめた。
何も考えず、何の準備もなく戦うことは、彼女の最も好まない戦い方だった。
だが今、この状況は――すでに彼女の想定を大きく外れ、制御不能なものへとなりつつあった。
突然せり上がった石壁。突如として現れた落とし穴。そして、次々と姿を現す魔獣たち。
そのすべてが、あまりにも唐突で、あまりにも制御不能だった。
その時、不意に――
足元の地面が激しく揺れ始めた。
天井からは小石がぱらぱらと降り注ぎ、そのうちのいくつかがエイラの肩をかすめ、そのまま地面へと叩きつけられた。
だが今は、考えるのをいったん後回しにするしかなかった。
何よりも先に対処すべきなのは――目の前でじわじわと距離を詰めてくる影蝶の群れだった。
エイラは静かに右手を掲げた。
その背後に、翠緑色の魔法陣がゆっくりと展開する。
魔法陣の前には百枚を超える緑の葉が次々と浮かび上がり、一枚一枚の葉の縁には、刃のように鋭い輝きが宿っていた。
「緑葉穿刺。」
その詠唱と同時に、宙に浮かぶ無数の葉刃が一斉に放たれた。
翠緑の閃光が闇を切り裂いた。
群れを成していた影蝶は次々と葉刃に貫かれ、その力を失ったものから、まるで雨のように地面へ降り注いだ。
一瞬のうちに、影蝶の群れにはいくつもの隙間が生まれた。
だが、それもほんの数秒のこと。
すぐさま後方からさらに多くの影蝶が押し寄せ、たちまちその空白を埋め尽くしてしまった。
エイラの表情がわずかに険しくなった。
――終わりの見えない戦いになりそうだった。




