第十話 崩落
エイノとコウシン、その頃――
二人は傷一つない壁の前に立ち、わずかな亀裂でもないかと探していた。
「マジかよ……? 本当にひび一つ入ってないのか?」
「この壁、本当に頑丈だな。」
「で、これからどうする?」
エイノが答える間もなく――
その時――
ゴゴゴゴッ――!!
頭上から小石が次々と降り注ぎ、パラパラと音を立てながら二人の頭や肩へ降りかかった。
エイノとコウシンは同時に身構え、反射的に後ろへ飛び退いた。
次の瞬間――
ドォンッ!!
巨大な岩が二人の目の前へと轟音を立てて落下した。
衝撃で地面には細かな亀裂が蜘蛛の巣のように走った。
あとほんのわずかでも位置がずれていたら、その巨岩は二人をそのまま押し潰していただろう。
「ちょっ、待って! 何これ!?」
エイノは背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
二人は同時に頭上を見上げた。
先ほど自分たちが落ちてきた穴には、巨大な岩が塞ぐように引っかかっていた。
だが、落石の音は止まらない。
次の瞬間、穴の縁に一本の亀裂が走り、その亀裂はじわじわと周囲へ広がっていった。
その亀裂は壁面にまで達した――
バキバキバキッ――!!
大量の落石が雪崩のように降り注ぎ、空間全体が崩壊を始めた。
コウシンは咄嗟にエイノへ飛び込み、そのまま彼女を突き飛ばした。
エイノは何が起きたのか理解する暇もなく吹き飛ばされ、その背中を部屋の隅へ激しく打ちつけた。
次の瞬間、閉ざされた空間は完全に崩れ落ちた。
大小さまざまな岩石が降り積もり、辺りはもうもうと立ち込める土煙に包まれた。
土煙で視界は閉ざされ、耳に届くのは、岩が転がり落ちる轟音と、自分の乱れた呼吸だけだった。
どれほどの時間が経ったのか。
エイノはゆっくりと目を開けた。
最初に意識へ飛び込んできたのは、耳の奥で鳴り続ける甲高い耳鳴りだった。
彼は鉛のように重い腕をどうにか持ち上げ、激しく痛む額を押さえた。
指先が傷口に触れた瞬間、鋭い痛みが走り、思わず息をのむ。
全身が悲鳴を上げるように痛んでいた。
「っ……」
彼は歯を食いしばりながら体を起こし、脛にのしかかっていた岩を押しのけた。
そのまま地面へ倒れ込み、大きく肩で息をした。
しばらくして意識がはっきりしてくると、目の前の光景も少しずつ鮮明になっていった。
さっきまでいた空間は、もはや見る影もないほど変わり果てていた。
床には砕けた岩が一面に散乱し、天井は半分以上が崩落している。
そして、唯一の出入口だったあの穴も、無数の巨岩によって完全に塞がれていた。
エイノは辺りを見回したが、コウシンの姿はどこにも見当たらなかった。
「コウシン! どこだ!」
エイノは慌てて立ち上がった。
だが、一歩踏み出した途端、力が入らず、その場に崩れ落ちた。
痛みなど気にする余裕はない。
返事は――ない。
何の応答も返ってこない静寂に、エイノの胸は少しずつ冷たく沈んでいった。
「コウシン! コウシン! どこにいるんだ!」
エイノは何度も叫んだ。
だが、返ってくるのは自分の荒い息遣いだけ。
辺りは、不気味なほどの静寂に包まれていた。
エイノはふらつきながら前へと這い進み、一つ、また一つと岩を押しのけていく。
そしてついに、岩の下敷きになって気を失っているコウシンを見つけた。
彼女はその場に半ば膝をつくように倒れ、全身は鮮血に染まっていた。
額の端からは一本の血が頬を伝い、ぽたり、ぽたりと地面へ滴り落ちている。
エイノは信じられないという表情のまま、震える手でそっと彼女の手に触れた。
冷たく、硬い。
それは、生きている人間の体温でも感触でもなかった。
その事実を悟った瞬間、エイノの胸は恐怖に締めつけられた。
彼はコウシンの呼吸を確かめることさえ、怖くてできなかった。
目元は抑えきれずに赤く染まり、涙がこぼれ落ちた、その瞬間――
彼は掌に伝わる、わずかな動きをはっきりと感じ取った。
「コウシン! 生きてるのか!」
エイノは安堵と歓喜が入り混じった表情で、彼女の肩をしっかりと掴んだ。
「うるさい……っ、ごほっ!! なんで急に崩れたんだ……?」
コウシンはエイノの顔を見るなり、いつものように何か言い返そうとした。
だが、全身を襲う痛みがそれを許さなかった。
先ほど落石が降り注いだ瞬間、コウシンは即座に魔法を発動し、全身を金属のような硬さへと変化させていた。
しかし、その反応も落石の速さには及ばず、最も激しい衝撃をまともに受けてしまった。
今の彼女は、右腕の感覚を完全に失っていた。
コウシンは立ち上がろうとした。
だが、全身を走る激痛に阻まれ、思うように体を動かすことすらできない。
彼女は深く息を吸い込み、その痛みに耐えようとした。
しかし、体は震えを抑えきれず、小刻みに揺れていた。
彼女の視界は再びぼやけ始めた。
もはや立っているだけの力すら残っておらず、そのまま力なく崩れ落ちた。
「コウシン!」
エイノは慌てて彼女の体を支えた。
腕の中の彼女の体は、異様なほど冷たかった。
彼はそれがコウシンの魔法によるものだとは知らない。
ただ、その冷たさは、生きている人間が持つ温もりとはあまりにもかけ離れていた。
「どうしよう……! 治癒だ、治癒……! 落ち着け、思い出せ……! 治癒魔法……!」
エイノは取り乱しながら、必死に治癒魔法の知識を思い返した。
「緑耀祈福! お願いだ……! 緑耀祈福!」
エイノが叫ぶと、淡い緑の光が彼の掌に浮かび上がった。
その光はコウシンの傷口を優しく包み込み、流れ続けていた血は少しずつ止まっていった。
だが、それだけだった。
彼にできたのは、出血を止めることだけ。
それ以上のことは、何一つできなかった。
「緑耀祈福……! 頼む……!」
再び淡い緑の光が灯った。
だが、その輝きは先ほどよりもさらに弱々しかった。
エイノは諦めなかった。
何度も、何度も――。
そのたびに緑の光は灯った。
しかし、その輝きは回を重ねるごとに薄れていき、やがて消え入りそうなほど淡くなっていった。
彼の心は、今にも壊れそうだった。
胸の奥で渦巻く恐怖は、際限なく膨れ上がっていく。
――自分が変えようとしていた物語は、人を死なせるためのものだったというのか。
彼ははっきりと覚えている。
物語の終盤になって初めて、金族の大鍛將が亡くなったという知らせが届いた。
ならば、彼女が本来こんな場所で命を落とすはずがなかった。
魔力が尽き果てても、それでも彼は諦めようとしなかった。
だが、腕の中の彼女の呼吸は、少しずつ、少しずつ弱まっていった。
エイノは恐ろしかった。
このまま彼女が、自分の腕の中で息を引き取ってしまうのではないかと。
この世界に来て以来、彼はずっと信じていた。
――原作どおりに進まなければ、未来の結末は必ず変えられる、と。
……なのに、結果はどうだ。
変わった。確かに、変わってしまった。
――物語の最後まで生き延びるはずだった人が、こんなにも早く死を迎えようとしているのだから。
「緑耀祈福……」
エイノはもう一度、震える手を掲げた。
だが――掌には、光は灯らない。
ほんのわずかな輝きすら、宿ることはなかった。
「どうして……どうしてだ? 何も出ない……。俺はただ、彼女の死を早めるためにここへ来ただけだったのか……」
エイノが力なくそう呟いた、その時。
彼の右手の甲に、あの見覚えのある魔法陣が再び浮かび上がった。
だが、その時のエイノは――
手の甲から伝わる灼けつくような熱に、まったく気づいていなかった。
「あああああっ――!」
次の瞬間、胸の奥に激しい痛みが走った。
鼓動はみるみる速さを増し、まるで体内を何百本もの蔓が這い回っているかのような異様な感覚が全身を駆け巡った。
その感覚を、自分ではどうすることもできなかった。
まるで体の奥底で、何かが目を覚まそうとしているかのようだった。
エイノはコウシンをそっと地面へ横たえると、自分の体を抱え込むようにうずくまった。
激痛に耐えるように身を縮める中、手の甲は次第に熱を帯びていった。
やがて、翠緑色の魔法陣がゆっくりとその姿を鮮明に現し、静かに回転を始めた。
だが、エイノはそれを一瞥することさえなかった。
彼は苦しげな眼差しをコウシンへ向け、その瞳は拭いきれない罪悪感で満ちていた。
「お願いだ……誰でもいい……彼女を……助けてくれ……」
激痛はやがて限界を超え、エイノの意識はついに途切れた。
彼が瞼を閉じた、その刹那――
密室の中に、一つ、また一つと、淡い緑の光が静かに浮かび始めた。
次の瞬間、莫大な魔力がエイノの体内から一気に噴き上がった。
翠緑色の光は空間全体を覆い尽くし、その輝きは壁の奥深くへと染み込むように広がっていった。
すると――壁の向こうで、何かが彼の呼びかけに応えるような気配が生まれた。




