第十一話 回復
エイラとカイロス、その頃――
「数が多すぎる……」
エイラは壁にもたれかかり、小さく息を切らした。
彼女は手を上げて額の汗を拭い、視線をカイロスのほうへ向ける。
そして、現在の状況を冷静に見極めた。
「このまま戦い続けることはできない。魔力はいずれ尽きるわ。」
カイロスは狼の群れの中心に立ち、炎弾を次々と放ち、影狼たちを勢いよく薙ぎ払っていく。
だが、影狼は魔力を吸収する。
長時間の戦闘になれば、たとえカイロスであっても、そう長くは持ちこたえられない。
エイラの足元には、すでに影蝶の死骸が幾重にも折り重なっていた。
それでも、洞窟の奥からはなおも無数の羽音が絶え間なく響いてくる。
「壁をぶち破って外へ逃げるとしたら、成功する可能性はどれくらいある?」
カイロスは手についた血を軽く振り払い、それでも口元には変わらぬ笑みを浮かべていた。
だが、よく見れば、その笑みにはもはや最初のような余裕はない。
呼吸も、次第に重くなり始めていた。
エイラはすぐには答えなかった。
静かに手を掲げると、その背後に再び魔法陣が展開された。
再び無数の影蝶を撃ち落としたあと、彼女の指先はすでにわずかに震え始めていた。
二人は、どれほどの魔力を消耗し、どれほど長くこの終わりの見えない魔獣の群れと戦い続けてきたのか――もはや分からなくなっていた。
二人は力なく背中合わせにもたれ、束の間の休息を取った。
しかし目の前では、倒した魔獣たちの空いた場所を埋めるように、新たな群れがすぐさま押し寄せ、再び襲いかかる態勢を整えていた。
カイロスは静かに手を掲げた。すると、その掌に再び炎が集まり始めた。
エイラも立ち上がろうとした。
だが、その瞬間――
視界がふっと霞み、次の瞬間、目の前の景色がぐにゃりと歪み始めた。
目の前を埋め尽くしていた影蝶の群れは跡形もなく消え去り、その代わりに映し出されたのは、見覚えのある森だった。
彼女は、万霊神樹の前に跪くエイノの姿を見た。
その体は微動だにせず、呼吸の気配すら感じられなかった。
エイラは、これが現実ではないと理解していた。
――影蝶の毒によって見せられている幻覚にすぎない、と。
だが、その光景はあまりにも現実味を帯びていた。
風に乗って漂う花の香りさえ、はっきりと感じられるほどに。
その一瞬だけ、エイラは自分が今なお戦場の真っただ中にいることを忘れてしまった。
「エイラ!」
その叫び声に、エイラははっと我に返った。
だが、もう遅かった。
巨大な黒い影が腹部へと激しく突進し、その一撃をまともに受け、エイラの体は大きく吹き飛ばされた。
そのまま地面へと叩きつけられ、激しい衝撃が全身を貫いた。
エイラは立ち上がろうとした。
だが、目の前の幻覚はなおも消えなかった。
一瞬で森の中へ引き戻されたかと思えば、次の瞬間には再び薄暗い地下道へと引き戻された。
カイロスは駆け寄ろうとした。
だが、その瞬間、不意に膝から力が抜ける。
片膝を地につき、倒れ込まないよう掌を強く地面へ押しつけた。
魔力を消耗しすぎた反動が、一気に全身へとのしかかった。
激しい疲労が体を蝕み、視界はじわじわと霞み、やがて黒く染まり始めた。
だが、その時――
すべての魔獣が、突如として一斉に後退を始めた。
カイロスは訝しげに眉をひそめ、その動きにつられるように背後を振り返った。
その時、四人を分断していた石壁が、重々しい音を立てながらゆっくりと地中へ沈み始めた。
そして闇の奥で――
巨大な一対の瞳が、妖しく暗紫色の光を宿して静かに見開かれた。
その魔獣は、岩のように硬質な外殻に覆われていた。
巨大な鋏にはいくつもの暗紫色の結晶が埋め込まれ、禍々しく脈打っていた。
さらに、尾の毒針の付け根にはひときわ巨大な結晶が宿り、生き物の心臓のように、不気味に脈打っていた。
「A級魔獣――晶体蠍……」
エイラの表情が険しくなった。
「ちっ……魔獣どもが退いたんじゃなくて、道を開けていただけか。」
カイロスの顔から笑みは完全に消え失せた。
今の二人の状態では――あの魔獣に勝ち目など、まったくなかった。
あいつの心臓は、尾にある結晶の中にある。
だが、その尾には鋭い返しがあり、刺されれば猛毒を注入されるため、容易には尾を狙えない。
晶体蠍は、二人に息をつく暇すら与えなかった。
巨大な鋏を大きく振りかぶり、そのまま二人めがけて薙ぎ払った
「炎刃。」
灼熱の刃が晶体蠍の鋏を薙ぎ払う。
だが、その硬質な外殻には、わずかな焦げ跡が残っただけだった。
炎刃を受けた晶体蠍は怒りを燃やし、巨大な鋏を勢いよく振り抜く。
その一撃がカイロスをまともに捉えた。
カイロスの体は大きく吹き飛ばされ、そのまま壁へ激しく叩きつけられた。
「ごほっ! ごほっ、ごほっ!!」
カイロスは壁をずるりと滑り落ち、その場に崩れ落ちた。
胸は激しく上下し、もはや立ち上がる力は残っていない。
口元からは鮮血が絶え間なく流れ落ちていた。
それでも晶体蠍は勢いを緩めることなく、カイロスへ向かって突進する。
その瞬間――
突如として、幾本もの蔓が地面を突き破って飛び出した。
「万藤束縛!」
エイラは手を掲げた。
すると、蔓がたちまち晶体蠍の脚へと絡みつき、その突進を強引に食い止めた。
だが、その拘束もほんの一瞬しか持たなかった。
晶体蠍はあっさりと蔓を引きちぎると、標的をエイラへと変え、そのまま猛烈な勢いで突進してきた。
エイラは咄嗟に防護盾を展開した。
だが――
晶体蠍はその防護盾すら力任せに突き破り、そのままエイラを弾き飛ばした。
二人は地面に倒れ込んだ。
カイロスは、遠方から巨大な鋏が今にも振り下ろされようとしているのを見つめた。
懸命に立ち上がろうとした、その時――
二人の周囲に、一つ、また一つと翠緑色の光の粒が浮かび上がった。
光の粒は二人の手首へと集まり始め、やがて二人の身体を完全に包み込んだ。晶体蠍は動きを止め、目の前で緑色の光に包まれた者たちを見つめながら、わずかに躊躇する様子を見せた。
カイロスは信じられないものを見るように自らの身体を見つめた。裂けた傷口は徐々に塞がり始め、枯渇寸前だった魔力も完全に回復していた。
エイラは自らを包む光を見つめ、信じられないという表情を浮かべた。これほどまでに強大な治癒の力……一体、どこから来たというのか?
「何が起きたのかは分からないけど……どうやら生き延びたみたいだね!」
カイロスはゆっくりと立ち上がり、口元に付いた血を無造作に拭い去ると、再び掌に炎を宿した。
今度の炎の輝きは、戦いの始まりよりもさらに強く、明るく燃え上がっていた。
彼は拳を握り締めた。
体の内に満ち溢れる魔力を感じ取り、再び戦えることへの高揚感が込み上げてくる。
エイラも立ち上がると、再び数本の蔓が魔獣の脚へと絡みつき、その動きを封じた。魔獣は力任せにもがき暴れたが、それでも振りほどくことはできなかった。
カイロスは魔獣の背後に立ち、掌の炎を徐々に燃え上がらせ、ついには腕全体を包み込むほどに燃え上がらせた。
彼は顔を上げ、晶体蠍の尾にある、脈打つように揺れる暗紫色の結晶を鋭く見据えた。わずかに位置を移動し、攻撃に最適な場所を探る。
「気をつけて。あいつの尻尾にはまだ棘がある。猛毒を注入してくるわ」
「問題ない問題ない!」
カイロスは身を低く構え、足元で炎が爆ぜた。
シュッ!
爆発的な推進力とともに、彼は一気に前へと飛び出し、瞬く間に晶体蠍との間合いを詰めた。
晶体蠍は即座にそれを察知し、太く逞しい尾を勢いよく地面へと叩きつけた。同時に、尾の先端から紫黒色の毒液が噴き出した。
「おいおい! そんなに怒るなって!」
カイロスは眉をひそめると、即座に横へ跳び退いた。
エイラは両手を合わせると、足元に再び魔法陣が輝きを放った。
さらに十本もの蔓が地面から一斉に飛び出し、硬い甲殻の隙間へと潜り込んで絡みつくと、その巨大な身体を地面へと縫い留めた。
晶体蠍は耳をつんざくような咆哮を上げ、その身に生えた紫色の結晶が妖しく輝き始めた。すると、身体に絡みついていた蔓も、少しずつ引き裂かれ始めた。
「カイロス!」
エイラは眉を強く寄せた。
魔力は回復したとはいえ、B級とA級の間には依然として大きな実力差があった。無理に拘束を維持しても、このままでは長くは持たない。
カイロスは微動だにせず、晶体蠍を鋭く見据えていた。
その瞳は獲物から一瞬たりとも逸れることなく、ただひたすら待つ――晶体蠍が隙を見せる、その一瞬のために。
彼は左足を半歩後ろへ引き、静かに片手を掲げた。
「爆裂竜息!」
カイロスは蔓を引き裂こうと力を込めた、その刹那。
右足で壁を力強く蹴り、その反動を利用して大きく跳び上がる。掌では紅蓮の炎が猛り狂うように渦を巻き──
彼は大きく腕を振るった。
すると、紅蓮の火柱は咆哮する竜の幻影へと姿を変え、一直線に尾の先端にある紫色の結晶へと襲いかかった。
凄まじい熱波が坑道全体で爆発的に広がる。
エイラの蔓は灼熱に晒され、一瞬で黒く焦げて次々と焼き切れた。彼女は即座に後方へ跳び退き、自らに防御結界を展開する。
「決まった……よな?」
カイロスは着地して体勢を立て直すと、ゆっくりと顔を上げ、目の前に立ち込める煙霧をじっと見据えた。
煙が渦巻く中、その奥から紫色の光がほとばしった。
晶体蠍は苦悶に満ちた絶叫を響かせ、巨大な鋏を狂ったように地面へ叩きつけた。
次の瞬間、尾の先で脈打っていた結晶に一本の亀裂が走る。
その亀裂は少しずつ、しかし確実に広がっていった。
だが、晶体蠍は倒れなかった。
六本の脚で大地を踏みしめ、その巨体を必死に支えていた。
「――死ねぇぇぇッ!!」
カイロスは一歩踏み込み、その亀裂めがけ、渾身の拳を叩き込んだ。
紅蓮の炎と暗紫色の輝きが激突し、二つの力が正面から激突した。
そして――その巨大な結晶は、ついに砕け散った。
無数の結晶片が四方八方へと飛び散る。
晶体蠍の動きはぴたりと止まり、巨大な身体が力なくぐらりと揺れた。
そして次の瞬間――轟音とともに、大地へと崩れ落ちた。
カイロスの右拳を包んでいた炎は、次第にその勢いを失い、やがて静かに消えていった。
彼は荒い息をつきながら、倒れ伏した晶体蠍を見つめた。
そして、その口元には、いつもの不敵な笑みがゆっくりと浮かんだ。
エイラはふと腕輪の存在を思い出し、中央の水晶へと視線を向けた。そこには四つの光球が重なり合って映し出されている。
(どうやら、エイノと鋼心は真下にいるみたいね。)




