第十二話 試練
エイノとコウシンのほうでは――
薄暗い空間で、翠緑色の光はゆっくりと消えていき、空気にはわずかな翠緑の光の粒だけが静かに漂っていた。
コウシンの指先がぴくりと動いた。やがて彼女はゆっくりと瞼を開いた。
まず感じたのは、全身を満たす不思議な軽さだった。
コウシンは驚いたように自分の手をそっと持ち上げた。
全身には痛み一つなく、痺れて動かなかったはずの右腕も、すっかり元通りになっていた。
コウシンはゆっくりと身を起こし、自分の右腕へ視線を落とした。
そして視線を体へ移した。衣服にはすでに乾ききった血痕が残っているものの、そこにあったはずの傷は跡形もなく消えていた。
「夢じゃ……ない。本当に……どうして全部治ってるの……?」
彼女はそっと拳を握り締める。
体内を巡る魔力は安定し、満ち溢れていた。全身には力が漲り、これまでの消耗が嘘だったかのような感覚に包まれた。
コウシンは眉をひそめながら立ち上がり、周囲を見回した。
目の前に広がっていたのは、まるで廃墟と化した光景だった。天井は崩れ落ち、砕けた瓦礫が地面一面に積み重なっている。
「エイノ?」
コウシンは振り返ると、顔面蒼白のエイノが地面に倒れているのを見つけた。
彼女は慌てて駆け寄り、その傍らにしゃがみ込むと、そっと手を鼻先へかざし、呼吸を確かめた。
呼吸は安定している。どうやら気を失っているだけのようだ。
コウシンはそれを確認すると、ようやく安堵の息を漏らした。
コウシンは改めて周囲を見回したが、特別なものは何一つ見当たらなかった。
――それなのに、どうしてすべてが元通りになったのだろう?
コウシンは立ち上がると、傷一つない壁へと歩み寄り、何気なくその表面に手を添えた。
――その瞬間、彼女はぴたりと動きを止めた。
本来は岩のように硬かったはずの壁が、今では驚くほど脆くなっていた。
コウシンが指先で軽く引っかくだけで、ぱらぱらと土の塊が剥がれ落ちる。
コウシンは目を細め、数歩後ろへ下がると、右手を静かに掲げた。
原因は分からない。
だが――今はそんなことはどうでもよかった。
「まずはぶち壊してからだ――金牙穿!」
黄金色の魔力が彼女の掌に凝縮し、鋭い金属の円錐となって壁を貫くように突き進み、激突した。
衝突した一点に小さな亀裂が走り、次の瞬間、その亀裂は、蜘蛛の巣のように中心から瞬く間に四方へと広がっていった。
壁全体が轟音とともに崩れ落ち、大量の土煙が一気に舞い上がった。
コウシンは咄嗟に目を固く閉じ、片手で口元と鼻を覆った。
やがて土煙がゆっくりと晴れるのを待ち、彼女は静かに目を開いた。
壁の向こうには、一本のまっすぐな通路が続いていた。
コウシンは倒れたままのエイノへ一度だけ視線を向けると、踵を返し、その通路へと足を踏み入れた。
通路の両側には滑らかな壁が続いていた。
壁には松明の類は一切ない。だが、その表面には金色の紋様が、まるで血管を流れる血のようにゆっくりと脈動しながら、通路の奥にある扉へと流れ込んでいた。
その扉の隙間からは、かすかな光が漏れ出していた。
「魔力の流れを感じる……この二本の紋様か?」
コウシンは足早に扉の前まで進み、その扉を押し開けた。
――その瞬間、視界が一気に開けた。
目の前に広がっていたのは、部屋でも通路でもない。
コウシンは信じられない思いで振り返った。
だが、そこに通路はなかった。
先ほどまでいた地下空間さえ跡形もなく消え失せ、見渡す限り、四方には荒涼とした大地が果てしなく広がっていた。
地には草木一本生えておらず、風に吹かれて枯れ草が転がっていくだけだった。
遠くには、低い家屋が数棟、ぽつりぽつりと建っているのが見えた。
その家々は壁がひび割れ、至るところで剥がれ落ち、屋根も崩れかけていた。
まるで地震や強風にひとたび見舞われれば、たちまち崩れ落ちてしまいそうな有様だった。
遠方から吹きつける風が、ざらついた砂礫を巻き込みながら頬をかすめた。
コウシンは思わず片手を上げ、その風を遮った。
ここは見知らぬ場所でありながら、どこか懐かしさも感じさせた。
懐かしいのは――彼女がこの場所を知っているからだ。
だが、目の前に広がるこの光景は、彼女の記憶にあるものとはまるで違っていた。
コウシンはゆっくりと数歩前へ進み、遠くに見える集落をじっと見つめた。
その光景を見つめるうちに、胸に浮かんでいた予感は次第に確信へと変わっていった。
ここは――彼女が生まれ育った場所。
金族の中でも最も貧しい辺境の地であり、百錬塔からは遥か遠く離れた土地だった。
ここは――銅村。
かつてこの地には貴重な鉱脈が眠っていたが、度重なる過剰な採掘によって、とうの昔に枯渇してしまった場所だ。
この地の住民たちは、それ以来、最下層の初級鍛將として働き、どうにか生計を立てるしかなかった。
「急げ! ぐずぐずしてたら、今日は飯抜きだぞ!」
遠くから突然、誰かの怒鳴り声が響いてきた。
コウシンが顔を上げると、先ほどまで人影一つなかったはずの広場に、いつの間にか大勢の人影が現れていた。
遠方では風車がゆっくりと回り始め、ギィ……ギィ……と軋む音が静寂の中に響いていた。
老若男女を問わず、人々は皆、埃にまみれた粗末な麻布の衣をまとい、背中に竹籠を背負いながら、腰をかがめて地面に散らばるわずかな鉱石を拾い集めていた。
鈍い光沢しかなく、大きさもまちまちなそれらの鉱石では、ありふれた武器一本すら鍛えることはできない。
それでも人々は宝物でも見つけたかのように、一つひとつを大切そうに拾い上げ、そっと竹籠の中へと納めていた。
「幻境……?」
コウシンは村の中へと駆け出し、記憶にある家を探し始めた。
村の中央にある枯れ井戸の前を通り過ぎると、その傍らには数人の老人たちが腰を下ろしていた。
彼らは誰一人として言葉を交わさず、ただ静かに座っているだけだった。
痩せ細った両手は膝の上に置かれ、その姿は、長い歳月に角を削られた石のようだった。
その瞳には、長い歳月が刻んだ哀愁だけが宿っていた。彼らは、もはや日々の暮らしに何の希望も抱いていないかのように見えた。
その時――
老人の一人が、不意にゆっくりと顔を上げた。
その視線は、まっすぐコウシンへと注がれていた。
「帰ってきたのかい? お前……覚えているのか?」
老人はコウシンとじっと目を合わせ、重々しい口調で言った。
コウシンは思わず息を呑み、一歩後ずさった。
だが次の瞬間、老人は先ほどまで話しかけてきたことなど最初からなかったかのように、再び虚ろな眼差しを浮かべて座り込んでいた。
コウシンは唇をきゅっと結び、それ以上振り返ることはなかった。
そのまま村の奥へと駆け出し――やがて、村の片隅でようやく目当ての場所を見つけた。
玄関には、見覚えのある二つの風鈴が今も掛けられていた。
風鈴の下には、それぞれ二十枚あまりの小さな金属片が吊るされ、風に揺れてかすかな音を奏でていた。
これは金族に古くから伝わる風習だった。
一年歳を重ねるごとに、その者の風鈴へ金属片を一枚ずつ増やしていった。
それは、どれほど遠くへ旅立とうとも、風鈴の音さえ聞こえれば、いつでも故郷への帰り道を見つけられるように――そんな願いが込められた、故郷の象徴でもあった。
「私の風鈴がない……。ここは、まだ私が生まれる前の時代なの……?」
一陣の風が吹き抜ける。
軒先の風鈴が、チリン、チリン――と澄んだ音色を静かに響かせた。
コウシンはそっと手を伸ばし、扉を押し開けた。
屋内は決して広くはなかったが、隅々まで清潔に整えられていた。
中央の木製の机には何枚もの設計図が広げられ、右手の低い棚には、鉱石のサンプルや魔導器の試作品がいくつも並べられていた。
コウシンは木机の前まで歩み寄り、その上に広げられた設計図へと視線を落とした。
それは、彼女がこれまで一度も目にしたことのない設計だった。
幾重にも重なる複雑な線で描かれたその図面は、大規模な施設の設計図のように見える。中央には巨大な魔導炉が据えられ、そこから五本の管路が放射状に外へと伸びていた。
コウシンがその設計図を手に取り、詳しく見ようとしたその時――
奥の部屋から足音が聞こえてきた。
やがて、そこから一組の男女が姿を現した。
男は大柄で、日に焼けた浅黒い肌をしていた。
癖のある巻き髪を揺らし、袖は肘まで無造作にまくり上げられていた。
女は純白のワンピースに身を包み、その上からカーキ色のショールを羽織っていた。
顔色はやや青白く、片手を腰に添え、もう片方の手は男の腕にそっと添えられていた。
コウシンは目の前の光景が信じられなかった。
長年、会いたいと願い続けてきた両親が、今こうして生きた姿で自分の前に立っていた。
――鋼魯と、琳薇緹薾。
「もう一度、東区の銀村へ移れないか掛け合ってみようか? 君は子どもを身ごもっているんだ。この環境じゃ、ゆっくり身体を休めることもできない。」
コウロはリンヴィティエルを優しく支えながら、机のそばまで歩き、そっと椅子へ腰を下ろさせた。
「大丈夫よ。あなたはここにいるほうが、研究もしやすいでしょう? それに――あなたはここで“あれ”を見つけなければならないんでしょう?」
リンヴィティエルはゆっくりと息を吐いた。その表情には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
コウロは黙ったまま腰を下ろすと、内ポケットから一つの輝く鉱石を取り出し、静かに机の上へと置いた。
「魔力コアを安定させられるものさえ見つかれば、この施設全体を稼働させることができる。」
コウシンは目を見開き、愕然とした。
――それは、彼女が魔法師ギルドで手に入れたあの魔鉱石とまったく同じものだった。
大きさこそ彼女の持つものよりはるかに小さいが。
コウシンは思わず一歩踏み出し、その魔鉱石をもっと近くで見ようとした。
――だが、その瞬間。
目の前の光景は音もなく崩れ去り、次の瞬間には、再び荒涼とした大地だけが広がっていた。




