第三話 脱出
エイノは足早に部屋へと駆け戻った。
彼はベッドのそばへ向かい、あらかじめ用意しておいたリュックを肩に担いだ。その動作には一切の迷いがなく、手際もよかった。
だが、ドアノブに手をかけたその瞬間、扉は先に外から開かれた。彼は思わず動きを止め、反射的に一歩後ずさった。
扉の向こうには、シアナ女王が立っていた。純白のドレスは床を引くように広がり、淡い茶色の長い髪が背中へ流れていた。
シアナはゆっくりと部屋へ足を踏み入れた。足音は驚くほど静かだったが、その一歩一歩には、胸を震わせるような圧があった。
「エイノ、どうして? 外に出れば何が起こるのか、あなたは何も分かっていないのに。」
その声は静かだったが、重くのしかかるような圧迫感を帯びていた。
だが、エイノは怯まなかった。顔を上げ、まっすぐに彼女を見つめ返した。その声は決して大きくはなかったが、揺るぎない落ち着きを湛えていた。
「母上。もう温室の花のままではいたくありません。」
「エイノ! 私はあなたのためを思って言っているのです! どうしてそこまで頑ななのですか?」
シアナの声にはわずかな怒気が滲んでいた。彼女は一歩、また一歩とエイノとの距離を詰めていった。
エイノは一歩も引かなかった。ただ静かに彼女を見つめ返した。
そのとき、彼の脳裏に、もう一つの世界で聞いた声がよみがえった。
「私たちはあなたのためを思って言ってるのよ!」
「将来どうするつもりなの!」
多くの人が、彼のためを思ってそう言ってくれた。
だが、彼は頑固で意地っ張りだった。自分が望まない生き方だけは、決して受け入れようとはしなかった。
その結果、卒業後の彼は就職先を見つけられず、アルバイトや日雇い仕事でどうにか生活をつないでいた。
毎日、値引きされた食べ物で命をつなぐ日々。みじめで、どこか滑稽な暮らしだった。
彼のためを思うこと――それは本当に彼のためなのだろうか。
そもそも、「彼のため」とは一体何なのだろうか。
それでも、彼ははっきりと分かっていた。──後悔はしていない。
もし他人に敷かれた道を歩むだけなら、自分はただの飾り人形にすぎなかっただろう。
黙り込むエイノを見つめながら、シアナの表情は次第に和らいでいった。
彼女は、エイノの心が揺らぎ、自分の思いを理解してくれたのだと思った。
シアナは穏やかな笑みを浮かべた。
「エイノ、あなたがただ……」
「それは母上が思う『僕のため』であって、僕が望むものではありません。」
エイノは顔を上げ、揺るぎない眼差しでそう言い切った。
そして言葉を終えると、彼はくるりと背を向け、窓辺へと歩き出した。
彼の両手が窓枠に触れようとしたその瞬間――。
背後から冷え切った声が響いた。
「止まりなさい。」
次の瞬間――予兆もなく、凄まじい魔力が一気に解き放たれた。
目には見えない圧力が頭上からのしかかり、その場に立っていることすら困難なほどだった。
部屋は悲鳴を上げるように軋み、壁に掛けられた絵画もかすかに揺れた。
そしてテーブルの上に置かれていたガラスのコップは――パリンと乾いた音を立てて砕け散った。
エイノは肩にずしりとした重みを感じた。まるで見えない巨大な手に押さえつけられたかのようだった。
耐えきれず膝が折れ――ドンッと鈍い音を立て、彼は床へと膝をついた。
冷や汗が額を伝って流れ落ちた。彼は固く拳を握り締め、両手を床につけて必死に身体を支えた。力を込めすぎた指の関節は、白く変色していた。
シアナはその場に立ち尽くしたまま、その瞳にほんの一瞬、耐えがたい痛みをこらえるような揺らぎがよぎった。
本当は、ここまで強引な手段を取りたくはなかった。彼を傷つけることだけは望んでいなかったのだ。
だが、それでも彼を行かせるわけにはいかなかった。
あの予言を現実のものにしたくはなかったからだ。
「あなたには抗えません。ここにいなさい。」
その声には有無を言わせぬ威圧感が宿っていた。シアナは一歩、また一歩とエイノへ近づいていった。
「外にはおいしい食事も、侍女も、権力も、お金もありません。あなたは……」
その言葉は不意に途切れた。
シアナはその場で立ち尽くした。
床に膝をついたままのエイノが、ゆっくりと顔を上げた。
額には冷や汗がびっしりと浮かんでいた。
両腕は小刻みに震えながらも、なお両手で必死に体を支えていた。
そして少しずつ、少しずつ――立ち上がろうとしていた。
エイノは奥歯を強く食いしばり、かすれた声で言った。
「僕は……操り人形なんかじゃない。」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に激しい痛みが走った。まるで何かが胸を突き破ろうとしているかのようだった。
次の瞬間、清らかで純粋な魔力が突如として彼の内側から噴き上がった。
まるで長きにわたって押さえつけられていた枷に、ついに亀裂が走ったかのようだった。
エイノの身体から翠緑色の光が溢れ出した。
その輝きは心臓から肩へ、腕へ、そして全身へと駆け巡っていった。
彼を押さえつけていたあの圧倒的な威圧感が、少しずつ緩み始めた。
まるでシアナの魔力を、一歩ずつ押し返していくかのようだった。
「あり得ない……そんなはずが……!」
シアナは瞳をわずかに見開き、信じられないものでも見るかのように小さく呟いた。
それは本来ここに存在するはずのない魔力だった。
ましてや、エイノの身に宿るなどあり得るはずがなかった。
二つの魔力は激しくせめぎ合い、互いを拒絶し合っていた。
シアナは小さく苦しげな声を漏らし、その顔色はみるみる青ざめていった。
やがて魔力の反動に耐えきれず、その場へ力なく崩れ落ちた。
周囲から驚愕の声が次々と上がった。
だが、エイノは振り返らなかった。
彼はゆっくりと立ち上がった。呼吸は乱れ、肩で荒く息をしていた。
先ほどまで溢れていたあの強大な魔力は、すでに跡形もなく消え去っていた。まるであれはただの幻だったかのように。
彼はうつむき、かすかに震える自分の両手を見つめた。
先ほど現れたものが一体何だったのか、彼には分からなかった。
だが、今はそれを考えている場合ではなかった。
エイノは大きく深呼吸を一つすると、窓辺へと歩み寄り、窓枠へと足をかけた。
自由がこれほどまでに近く感じられたのは初めてだった。
彼は指を口元へ添え、高らかに口笛を吹いた。
しばらくして、遠くから澄んだ鳴き声が響いた。
純白の影が雲を突き抜け、こちらへと飛来した。
翼を大きく広げ、陽光が純白の羽毛の上を流れるようにきらめいていた。
一羽の魔鳥が静かに舞い降りた。
エイノは口元に笑みを浮かべ、その背へと軽やかに飛び乗った。
「エイ……」
シアナは重いまぶたを懸命に開いた。
霞む視界の中、今にも遠ざかろうとしているその背中が目に映った。
伸ばしかけた手は宙で止まったまま、その背中へ届くことはなかった。
そして彼女はそのまま意識を失った。
「急げ! 早く星湖女皇をお呼びしろ!」
侍女たちは一斉に慌ただしく動き出し、その場はたちまち騒然となった。
エイノは魔鳥の羽毛をぎゅっと掴んだ。耳元では、激しい風が唸りを上げながら吹き抜けていく。
城は背後で次第に小さくなり、あの豪奢な牢獄は、ついに彼方へと置き去りにされた。
エイノはもう胸の高鳴りを抑えきれなかった。
両手を大きく広げ、空へ向かって大声で叫んだ。
「やった……! やっと出られた!」
叫び終えた勢いで危うく落ちそうになり、慌てて魔鳥の背に伏せ、必死に羽毛へしがみついた。
シロは呆れたようにひと声鳴くと、そのまま翼を羽ばたかせ、飛び続けた。
緑耀の森でもっとも栄えた地域を抜け、無数の木造の家々や街並みの上を飛び越え、さらに果てしなく広がる翠緑の樹海の上空を駆け抜けていった。
そのとき、不意に手の甲へ鋭い痛みが走った。
「っ……!? 何だこれ?」
視線を落とすと、右手の甲には緑色の魔法陣が浮かび上がっていた。
その紋様は精巧かつ複雑で、蔦が絡み合うように流れるような線を描いていた。
中央には、五枚の葉が葉柄を中心へ向けるように放射状に並んだ紋章が刻まれていた。
エイノは眉をひそめた。
手を伸ばして触れようとした、その瞬間――魔法陣は跡形もなく消えていた。
城門の上空から、魔鳥が急降下した。
エイノは手を伸ばし、ちょうど立ち去ろうとしていたエイラの手首を、とっさに掴んだ。
次の瞬間、エイラの身体は魔鳥の背へと引き上げられた。
エイラが振り返ると、そこには得意げな笑みを浮かべたエイノがいた。
「……五分遅刻。」
エイラは呆れたような表情を浮かべ、どこか諦め混じりの声で呟いた。
だが、魔鳥の姿を目にした瞬間、その瞳にわずかな変化が宿った。
彼女は以前、庭園でこの魔鳥を見かけたことがあった。まさか、それがエイノの魔鳥だったとは思いもしなかった。
「出てこられた!」エイノはアイラの言葉など聞こえていないかのように、興奮した様子で大声を上げた。
エイラは思わず、(今ここで魔鳥から飛び降りて生き残れる確率はどれくらいだろう)と考えてしまった。
こんな大馬鹿者が自分の弟だなんて、あまり認めたくなかった。




