第二話 計画
一日目──
エイノは食事を終えると、城の中をあちこち歩き回った。
この城は漫画で見たものよりもずっと美しく、廊下の両脇にはアイリスが咲き誇り、鮮やかな緑の葉が陽光を受けて輝いていた。
後ろに侍女二人と護衛二人がずっと付き従っていなければ、目の前に広がるこの景色は間違いなく百点満点だっただろう。
(働かなくても、食事も寝る場所も用意してもらえるなんて、この生活、案外悪くないかも。)
彼は庭園へと足を運び、果てしなく広がる森を眺めた。そして外へ出ようとしたところ、後ろにいた護衛たちに制止された。
エイノは踏み出しかけた右足を黙って引き戻し、少し苦笑した。
(どうやら、観光できる範囲はここまでみたいだ。)
二日目──
エイノは部屋の中であぐらをかき、目を閉じて、自分の体内を巡る魔力をじっくりと感じ取っていた。
微かではあるが、まったくないわけではない。
記憶にある手順どおりに右手を掲げ、魔力を少しずつ掌へ集めようと試みる。
「できた!」
興奮して声を上げた次の瞬間、掌に宿った緑の光は消え去った。維持できたのはわずか五秒だった。
光の消えた右手を見つめ、エイノは思わずため息をつく。
どうやら原作で描かれていたのは誇張ではなく、本当に魔力量が少ないようだ。
三日目──
あまりにも退屈だったエイノは、一日目に城内を歩き回っていたとき、偶然通りかかった書斎のことをふと思い出した。
天井まで届く木製の本棚には、数え切れないほどの本が整然と並べられていた。
エイノはその中から一冊を何気なく引き抜いた。
『緑耀の森の歴史』
……戻そう。これはさすがに退屈そうだ。
『五族概論』
……これも戻そう。
『魔物図鑑』
……これは少し読んでみるか。どんな魔物が載っているのか気になる。
ふと、書斎の片隅に積まれていた数冊の本が、彼の目を引いた。
『誰からも愛される魔法使いになる方法』、『幸運蓄積理論』、『魔晶百万枚を最速で稼ぐ方法』
「なんだ、この妙な本は?」
エイノは首をかしげながらも、手は正直だった。気がつけば、その本を開いて読み始めていた。
「毎日お年寄りを一人助けると、幸運値が上がる。」
……なんだか怪しいな。半信半疑のまま、エイノはもう一ページめくった。
「笑顔でいれば、きっと誰かが君を愛してくれる。」
エイノは無言で本を閉じ、元の場所へ戻した。
(こんな本、いったいどこの馬鹿が買うんだ?)
庭園では、庭師が不意にくしゃみをした。
「誰か俺の悪口でも言ってるのか?おかしいな、この前買った本、どこへ行ったんだ?」
四日目──
エイノはベッドに寝転び、真っ白な天井をぼんやり見つめながら、窓の外の大木から葉が一枚落ちるのを、ただぼんやり眺めていた。
来る日も来る日も、変わり映えのない日々。しかも、この城から出ることすらできない。
こんな生活は、あまりにも退屈だった。
幸いなことに、窓の外には時折一羽の白い魔鳥が姿を見せる。これは、エイノが幼い頃から密かに育ててきた魔鳥だった。
名前は、ひねりもなく『シロ』。エイノにとっては、たった一人……いや、一羽だけの友だった。
「お前は自由に空を飛べて、羨ましいな。」
「ピィ?」
「外の世界はきれいなんだろ?」
「ピィ、ピィ!!」
「お前の翼、俺にくれないか?代わりに俺の腕をやるから。」
「……」
シロは何も答えず、そのまま背を向けて飛び去っていった。
五日目──
エイノは窓辺に立っていた。
今日はシロの姿が見えない。何気なく遠くへ目を向けると、何本かの木がわずかに揺れた。
見に行きたいと思ったその瞬間、ふと我に返る。
そもそも自分はここを出ることができない。しかも、その場所がどこなのかさえ、本当は分かっていなかった。
そのとき、エイノはようやく気づいた。
自分には何ひとつ自由も、選ぶ権利もないのだと。
まるで操り人形のように、操り手の思い通りに動かされているだけだった。
かつて一度、この城を出ようとしたことがあった。だが、庭園を抜けることすらできず、そのまま諦めるしかなかった。
この城から一歩でも外へ出ようとした瞬間、大勢の者たちが慌てた様子で後を追ってきたからだ。
幾つもの視線が、まるで壊れ物でも扱うかのように、細心の注意を払って彼を見つめていた。
深夜――辺りは静まり返り、窓の外からは蝉の鳴き声だけが途切れることなく響いていた。
白銀の月明かりが部屋へと差し込み、床に淡い光の帯を描き出す。
その静かな白い光の中へ、一人の影が踏み込んだ。
エイノは窓辺まで歩み寄ると、俯いて小さくため息をついた。
五日だ。
丸五日もの間、彼はこの場所に閉じ込められ、まるで着せ替え人形のように、誰かが望む姿を演じ続けていた。
「原作はすべてエイラの視点で描かれている。彼女の目に映るエイノは、過保護にされているだけの役立たずだった。」
彼は顔を上げ、窓の外へと視線を向けた。
「五日目か……。今の俺は、原作のエイノと何も変わらない。このままじゃ、いずれ俺も同じように死ぬ。それなら、俺がここへ来た意味は何なんだ?」
部屋は再び静寂に包まれた。
ふいに彼は衣装棚を開け、その奥でようやく小さな鞄を見つけた。
そして、一つの決意を固めた。
翌朝早く、彼は誰にも告げることなく、部屋をそっと抜け出した。
「で、殿……殿下! お待ちください!」慌ただしい足音が背後から迫ってきた。
彼は振り返ることなく、そのまま歩き続けた。
大広間を抜け、長い廊下を進み、階段を下り、庭園へと足を踏み入れた。
その瞬間、遮るもののない柔らかな陽光が彼の頬を照らした。それは、この数日で初めて感じた、紛れもない本物のぬくもりだった。
彼は足を止め、目を閉じて、大きく息を吸い込んだ。
頬を撫でていく風を感じた。ほんの数秒にすぎなかったが、それだけで生き返ったような心地よさが胸いっぱいに広がった。
そして彼は目を開き、おぼろげな記憶を頼りに、訓練場への道を進んだ。
城の裏手には、石造りの塀にぐるりと囲まれた広々とした一角があった。
場の中央には、無数の大木が訓練用の的のように整然と並んでいた。
そして、その中央には一人の少女がいた。墨緑色の長い髪は腰まで流れ、そよ風に乗ってふわりと揺れていた。
銀色のヘッドチェーンを身につけ、その中央には一粒のルビーが嵌め込まれており、陽光を受けて淡い輝きを放っていた。
少女はその場に静かに立ち尽くし、何の反応も見せなかった。
その墨緑色の瞳には温もりも感情も宿っておらず、まるで波一つ立たない湖面のようだった。
その少女こそが、原作のヒロイン――エイラだった。
エイノは、原作で語られていた彼女の人物像を思い返した。並んでいたのは、「冷淡」「物静か」「感情を見せない」――そんな言葉ばかりだった。
だが、エイノの記憶の中には、ぼんやりとした光景が残っていた。純白のワンピースをまとったエイラが花を抱え、屈託のない笑顔を浮かべている姿だった。
エイラは一度だけエイノへ視線を向けた。エイノはぼんやりと立ち尽くしていた。どう反応すればいいのか分からなかったエイラは、結局そのまま気に留めることなく視線を外した。
彼女がそっと手をかざすと、翠緑色の光が指先へと集まり始めた。
次の瞬間、光球は凄まじい速さで前方へと放たれ、大木を貫いた。
舞い散る木くずと木の葉の向こう。穿たれた穴の先には、そのさらに奥に立つ一本の木がかすかに見えていた。
一連の動作は無駄がなく、鮮やかで、一瞬たりとも迷いは感じられなかった。
彼女は詠唱すらしていなかった。それでも、今のはただの通常攻撃にすぎなかった。
「エイラ──!」エイノが声を張り上げる。その呼び声は、広々とした訓練場に響き渡った。
エイラは顔を上げてエイノを一瞥した。その眼差しはひどく淡々としていて、まるで取るに足らない他人を見るかのようだった。
そして再び視線を落とし、指にはめた魔法の指輪を静かに回した。
「エイラ!!」今度はさらに声を張り上げ、そのまま彼女のもとへ駆け寄った。
今度は少女も手を止め、顔を上げて真正面から彼を見つめた。
感情の欠片も映さないその瞳に、一瞬だけ彼は言葉を失った。だが、すぐに気を取り直し、大きく息を吸い込んだ。
「君と一緒に依頼を受けに行きたい。君がカイロスとパーティーを組んでいることは知ってる。」
その言葉が放たれた瞬間、背後にどよめきが走った。
「殿下! どうかお考え直しください!」
「女王陛下から固く禁じられております!」
「外は危険すぎます!」
あちこちから制止の声が飛び交い、その耳障りな喧騒にエイラはわずかに眉をひそめた。
「うるさい。」
エイラが淡々と言い放った、その一言だけで、周囲の喧騒はぴたりと止んだ。
彼女は改めてエイノへと視線を向けた。その眼差しにはどこか複雑な色が宿っていた。しばらくの沈黙のあと、彼女はようやく再び口を開いた。
「……どうして?」
「僕は……あれみたいになりたいんだ。」
エイノはふと顔を横に向け、その視線の先では、一輪のタンポポが風に乗って遠くへ舞っていた。
「死ぬ。」
エイラは彼の視線を追うようにそちらへ目を向けると、返事を待つことなく、そのまま言葉を続けた。
「あなたが使えるのは基礎魔法だけ。身を守る術もなく、治癒魔法も満足に扱えない。魔獣に遭遇すれば、間違いなく死ぬ。」
「たとえ死ぬとしても、僕はここから飛び立ちたい。」
エイノはふっと微笑んだ。彼は死ぬのが怖い。だが、それ以上に怖いのは、この城でただの展示物のように朽ちていくことだった。
陽光がその翠緑の瞳に映り込んだ。その一瞬、エイラはわずかに目を見開いた。
なぜなのかは分からない。だが、目の前の彼の姿が、記憶の中にいる弟と少しずつ重なって見えた。
彼女はすぐに我に返ると、くるりと背を向け、もう彼を見ようとはしなかった。声色は相変わらず淡々としていた。
「五分だけ。女王陛下のほうは、自分で何とかして。」
「約束だよ!」そう言い残すと、彼はすぐさま踵を返し、部屋へと駆け戻っていった。
足音が次第に遠ざかっていった。
エイラは立ち尽くしたまま、次第に小さくなっていく背中を見つめていた。そして、しばらくして、小さく呟いた。
「……違う。」




