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第一話 転移

 この両手で、物語を書き換えられるのか。



 薄暗い部屋の中、パソコンのモニターが放つ青白い光だけが、少年の疲れ切った顔を照らしていた。

 窓の外はすでに夜の帳に包まれ、カーテンは風に揺れ、かすかにはためいていた。

 辺りは不気味なほど静まり返っていた。ページをめくる音と、古びた扇風機が回るたびに軋む音だけが静寂を破っていた。


「……こんなふうに死んだのか?」

 林諾(リンノ)は手にした漫画をめくりながら、信じられないといった表情でぽつりと呟くと、無意識のうちに数ページ前まで戻り、もう一度読み返した。


 漫画の最後では、翠緑の短髪をした少年が、巨大な神樹の前に膝をついて座っていた。

 その髪も身体も次第に灰となり、風に乗って消えていった。


 それは、『命運之星(めいうんのほし)』に登場するエイラの双子の弟――エイノだった。

『命運之星』は、今もっとも人気を集めているファンタジー小説だ。

 物語は、天才少女・エイラを中心に描かれている。

 彼女は驚異的な才能を持ち、その力を武器に成長を遂げ、やがて世界の女王へと上り詰めた。


 だが、林諾が惹かれていたのは彼女ではなく、エイノのほうだった。

 何でもこなせる天才よりも、一歩ずつ着実に前へ進む平凡な人間のほうに、どこか親しみを覚えていた。


 彼ははっきりと覚えている。

 作中でエイノは笑顔を浮かべながら、こう願いを口にしていた。

「僕は、自由に、幸せに生きていきたい。」

 彼もまた、自由に、幸せに生きていたかった。今のように、次の食事すらどこで手に入るか分からない人生ではなく。


 だが、物語の結末で、彼は何ひとつ手にすることはできなかった。自らを犠牲にしてエイラを頂点へと押し上げた末に、成し遂げたものも、栄光も、地位も、そして命さえも失ってしまった。


 物語の最後に、歓声を浴びていたのはエイラだった。

 誰一人としてエイノのことを覚えてはいなかった。彼はまさに、典型的な踏み台にすぎなかった。


 ガタンッ!

 林諾は勢いよく立ち上がり、椅子が床を擦る耳障りな音が部屋に響いた。

「俺だったら! 絶対に生き抜いてみせる! 至高の玉座に座ってみせる!」

 思わず叫んだその声は、狭い部屋の中に虚しく響き渡り、やがて静けさが戻った。

「……口で言うだけなら、本当に簡単なんだけどな。」

 苦笑を浮かべると、力なく椅子へ腰を下ろした。


 彼はモニターへ視線を向け、コメント欄を開いた。案の定、コメント欄にはツッコミが並んでいた。

「作者、ヒロインの弟のこと、ちゃんと覚えてる?」

「エイラ=勝ち組、エイノ=踏み台。」

 林諾はそれを見て、思わずそのコメントに「いいね」を押してしまった。


 そのとき、モニターの右下に通知が一件表示された。

【地球ONLINEが正式リリースされました。】

「ん? なんだこれ? また広告か?」

 林諾は眉をひそめ、反射的に「閉じる」ボタンへカーソルを動かした。


【地球ONLINEへようこそ】

 突如、画面いっぱいにポップアップが表示された。

「なんだよこれ? こんなのダウンロードした覚えないぞ。」

 マウスを動かしてもまったく反応がない。林諾はすぐさまパソコンの電源プラグを引き抜いた。

 PC本体の動作音は止んだ。しかし、モニターの画面はなお映し出されたままだった。


【体験期間:30日間】

【まもなく――『命運之星』へ接続します】

【警告:ゲーム内での死亡は、現実世界での死亡を意味します】

【ゲームへの接続を確認しますか?】

「何を確認しろっていうんだ?」

【プレイヤーの参加を確認しました】

「いつ確認したんだよ!?」

【カウントダウン開始――3、2、1】

「ちょ、待――!」


 言い終えるより早く、モニターは眩い光を放ち、一瞬にしてすべてを飲み込んだ。

 意識は次第に霞み、身体は引き裂かれ、再構築されていくような感覚に襲われた。


 しばらくして、部屋は再び闇に包まれた。

 ただ古びた扇風機だけが、静かに首を振り続けていた。まるで最初から、ここには誰一人として存在しなかったかのように。

 そよ風がやさしく吹き抜け、木々の枝葉が風に揺れ、さらさらと葉擦れの音を立てていた。

 小鳥たちの澄んださえずりが響き渡り、ほのかな花の香りが鼻先をくすぐった。


 林諾はゆっくりと目を開けた。視界に飛び込んできたのは、見慣れた部屋ではなく、一面に広がる真っ白な天井だった。

 彼は身を起こし、部屋の中をぐるりと見渡した。

 木製の窓枠には精巧な彫刻が施され、壁には温もりを感じさせる木目が広がっていた。

 枝葉の隙間から差し込む木漏れ日が、床に揺らめく光と影の模様を描き出している。


「……ここは、どこだ……?」

 ベッドの縁に手をついて立ち上がると、素足で木の床板を踏みしめた。

 ひんやりとした感触を覚悟していたが、足裏に伝わってきたのは、むしろ心地よい温もりだった。


 鼓動は抑えきれないほど速くなり、何かが起ころうとしている――そんな予感が彼の中を満たしていた。

 次の瞬間、無数の見覚えのない光景が脳裏になだれ込み、砕け散ったガラスの破片のように飛び散っては、再び一つへと組み上がっていった。


 激しい頭痛に耐えきれず、彼は立っていられなくなり、そのままベッドへと崩れ落ちた。額を押さえながら、苦痛に顔を歪めた。

 やがて意識もはっきりし、痛みも消え去ると、彼はふらつく足取りで部屋の隅に置かれた鏡の前へと向かった。


 鏡に映っていたのは、翠緑色の瞳だった。その瞳は、驚愕に見開かれている。

 墨緑色のやや長めの髪は肩まで伸び、少し乱れた前髪が額にかかり、幾筋かの髪が眉と瞳をそっと覆っていた。


「異世界転移……? マジかよ?」

 鏡に映る少年は呆然とした表情を浮かべていた。その顔は――まさしく物語に登場するエイノそのものだった。

 頬に走る痛みが、今の自分が本当にエイノになってしまったという現実を、否応なく突きつけてきた。

 これは夢でも、幻覚でもなかった。


 コン、コン――。

 不意に部屋の扉が控えめにノックされ、その音に林諾の全身がぴんと張り詰めた。

「殿下、お食事は食堂でお召し上がりになりますか? それとも、お部屋までお持ちいたしましょうか?」

 扉の向こうから、柔らかな問いかけが聞こえてきた。

「ぼ、僕……すぐに下ります。」

 どこかぎこちない返事になってしまったが、扉の向こうの足音が遠ざかっていくのを確認すると、ようやく安堵の息を吐いた。


 彼は自分の両手へと視線を落とした。すらりと伸びた白い手。かつての、分厚いまめと無数の傷跡に覆われた自分の手とは、まるで別物だった。

 拳をぎゅっと握りしめ、ゆっくりと開いた。その一つひとつの感覚を確かめるように、彼はこの身体が現実に存在していることを実感した。

 しばらくその場に立ち尽くしたあと、彼は深く息を吸い込んだ。

 そして踵を返し、部屋を後にした。


 ダイニングルームは、彼の想像をはるかに超えるほど広々としていた。数メートルはあろうかという大きなガラス窓から、陽光が遮るものなく降り注ぎ、室内を明るく照らしていた。


 二十人はゆうに座れる長テーブルには真っ白なテーブルクロスが敷かれていた。

 銀製のカトラリーが整然と並べられ、陽光を受けて上品な輝きを放っていた。

 テーブルの花瓶には白いアイリスが数輪生けられ、凛とした佇まいを見せていた。

 エイノは席に着くと、周囲にいる者たちを一人ひとり静かに観察した。


 一人の侍女が進み出てエイノの手を清め、もう一人の侍女が料理をテーブルへと並べていった。

(豪華すぎるだろ……めちゃくちゃ美味しそうだ。)

 蓋が開けられた瞬間、芳醇な香りがふわりと立ち上り、エイノは思わずごくりと唾を飲み込んだ。


 目の前に並ぶ料理は、芸術品と見紛うほどの美しさだった。焼き上げられた肉は香ばしい焼き色をまとい、湯気の立つ野菜スープとともに食欲を強く刺激してくる。

 かつての彼は、カップ麺ですら特売の日を狙って買うほどだった。

「一つ買ったら一つ無料じゃなきゃ、俺は絶対に金を出さない」が信条だった男なのだ。

 それが今では、ミシュランの三つ星にも匹敵するような極上の料理を、しかも無料で好きなだけ味わえるのだから、夢のような話だった。


 そう思うと、彼は再び目の前の料理へと視線を戻し、迷うことなく肉を一切れ切り分け、そのまま口へ運んだ。

 次の瞬間、その目がぱっと輝いた。

「うまいっ!!!」


 肉は信じられないほど柔らかく、ジューシーだった。一口噛むと、濃厚な肉汁が口いっぱいに広がった。

 絶妙な火加減で仕上げられており、ほどよい弾力を残した食感だった。焦げた苦みも一切感じられなかった。

 続いて濃厚なスープをひと匙口に運んだ。芳醇な香りが口いっぱいに広がり、豊かな風味が身体の奥までじんわりと染み渡った。

ご視聴ありがとうございました。╰(*°▽°*)╯

台湾出身ですので、日本語に不自然な表現などがありましたら、ぜひ教えていただけると嬉しいです。

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