第二十六話 帰途
エイラの視線は、ひたすらその手に向けられていた。
手を伸ばしさえすれば――あの幸せだった時間へ帰れる。
彼女は震える手を伸ばした。
指先がその手に触れようとした、その瞬間――
足元から伝わってくる冷たさに、エイラははっと我に返った。
彼女はゆっくりと俯き、足元の雪原を見つめた。
そして、再び目の前の三人へと視線を向ける。
両親と幼いエイノ――家族が、彼女の目の前に立っていた。
その顔には、彼女が何よりもよく知る笑顔が浮かんでいる。
「エイラ、帰っておいで。」
父はそこに座ったまま、彼女へ手を差し伸べた。
エイラはただ静かに、目の前の光景を見つめていた。
これは、ずっと望み続けていたもののはずだった。
なのに――
……なぜだろう。
どこかがおかしい。
彼女はゆっくりと振り返り、遠くへと目を向けた。
あの光球が、明滅を繰り返している。
まるで、今にも消えてしまいそうだった。
エイラは、ふとあることを思い出した。
(そうだ……星……)
彼女はゆっくりと、伸ばしていた手を引っ込めた。
そして再び、あの光球へと視線を向けた。
「お姉ちゃん?」
背後から、エイノの不思議そうな声が聞こえてきた。
エイラは固く目を閉じ、深く息を吸った。
再び目を開いた時、その瞳に宿っていたのは、揺るぎない決意だけだった。
彼女はもう一度足を踏み出し、遠くに浮かぶ儚い光球へ向かって歩き始めた。
「エイラ。」
「エイラ、早く帰っておいで。」
背後から、両親の声が再び聞こえてきた。
彼女は足を止めなかった。
その声は、次第に遠ざかっていく。
エイラは、もう二度と振り返らなかった。
――分かっている。
あそこはもう、二度と帰ることのできない場所なのだから。
「お姉ちゃん、僕たちのこと、いらないの?」
ギュッ――
エイラは不意に足を止めた。
伸ばしかけた手が、かすかに震えていた。
背後から、再び幼いエイノの声が聞こえてきた。
「僕たち、ずっと一緒にいようって……約束したのに……」
その声には、寂しさと嗚咽が滲んでいた。
「僕を、置いていくの?」
エイラは唇を強く噛み、答えることなく、ゆっくりと拳を握り締めた。
(これは全部、幻だ。ここで迷ってはいけない……。)
「お姉ちゃん……また、僕を置いていくの……?」
エイラの肩が小さく震える。
彼女はゆっくりと目を閉じた。
脳裏には、幼いエイノの姿が何度も浮かんでは消えていった。
彼はまるで小さな子犬のようだった。
彼女がどこへ行こうとも、いつも後ろをついてくる。
あの頃の彼はまだ歩くことさえおぼつかなかった。
それでも、すっかりくたびれた小鳥のぬいぐるみを抱きしめ、転びそうになりながら、懸命に彼女の後を追いかけていた。
森から木屋へ、木屋から王宮へ。
来る日も来る日も、ずっと同じだった。
けれど、魔族の侵攻が起きてから――
彼はもう、昔のように彼女へ寄り添うことはなくなった。
彼女は、とっくに慣れたつもりでいた。
けれど今、こうして思い返してみると――
胸の奥には、どうしても言葉にできない痛みが残っていた。
「お姉ちゃん……約束したよね?」
背後から、再び声が響いた。
エイラは振り返らなかった。
ただゆっくりと目を開く。
その瞳は、わずかに赤く滲んでいた。
そして、遠くで今にも消えそうになっている光球へと視線を向ける。
「あなたは今でも、私にとって一番大切な人だよ。でも今は……私一人で行かなきゃ。」
そう言って、再び歩き出す。
靴底が、深く積もった雪へ沈み込む。
背後から聞こえていた声が、次第に消えていく。
そして、遥か遠くにあった光球が――この瞬間、ほんの少しだけ強く輝いた。
エイラの足取りは次第に速くなっていった。
足元から伝わる痛みも構わず、やがて彼女は走り始める。
怖かった――
次の瞬間には後悔して、振り返り、その幸せだった日々へ飛び込んでしまいそうで。
彼女は固く目を閉じ、ほとんど無我夢中で前へと走り続けた。
やがて、温かな何かが全身を包み込んだ。
エイラはそこで初めて足を止める。
膝から力が抜け、そのまま雪の上に座り込んだ。
小さく息を切らしながら、ゆっくりと顔を上げる。
星は彼女の目の前に、手を伸ばせば届くほど近くに浮かんでいた。
彼女は再び振り返り、背後へと目を向ける。
遠く離れた木屋は、今も静かに雪原の中に佇んでいた。




