第十九話 暴走
コンコン――。
エイラは扉を軽くノックした。
「今、行く!」
扉を開けたのは、ひときわ大柄な男だった。
顔には立派な髭をたくわえ、全身は鍛え抜かれた筋肉で引き締まっている。
だが、何よりも目を引いたのは――
その両手に刻まれた、無数の古い傷跡だった。
「こんにちは。依頼人の方で間違いないでしょうか?」
エイノは依頼書を取り出しながら尋ねた。
「ああ、そうだ。私が依頼人だよ。本当なら私のほうから迎えに行くべきだったんだが、すまなかったな。」
「い、いえ! 僕たちも今着いたばかりですから!」
エイノは慌てて両手を振った。
てっしんは豪快に笑うと、玄関の扉を大きく開いた。
「さあ、まずは中へ入ってくれ!」
「お邪魔します!」
三人はそう挨拶をすると、てっしんの後について家の中へと入っていった。
屋内は驚くほど清潔に整えられていた。
机や椅子はきちんと配置され、壁際の武器棚には様々な剣が並べられていた。そのどれもが鏡のように光を映すほど丁寧に磨き上げられていた。
そして部屋の隅には、透明なケースが一つ置かれており、その中には一冊の本が大切そうに収められていた。
「さあ、座ってくれ!」
てっしんは三脚の椅子を運んできて並べると、一人ひとりの前に水の入ったコップを置いた。
「ここまで来るのは大変だっただろう。ご苦労さま!」
エイラは依頼の本をテーブルの上へそっと置いた。
「こちらがご依頼の品です。どこへ置けばよろしいでしょうか?」
てっしんの視線は、その本へと静かに落ちた。
その表情には、どこか寂しげな色が浮かんでいた。
数秒の沈黙のあと、彼はゆっくりと手を伸ばし、本を手に取った。
その仕草はあまりにも丁寧で――まるで一冊の本ではなく、何よりも大切な宝物を扱うかのようだった。
「これは……私の妻の日記なんだ。」
「えっ? 奥様の、ですか?」
エイノは少し首を傾げた。
(さっきの鍛冶屋のおじさんは、全部息子さんに関係する依頼だって言ってたのに……?)
「……ああ。この日記は、妻が亡くなってからずっと息子が持っていたんだ。私は……どうしても我慢できなくて、つい持ち出して読んでしまった。」
てっしんは本をそっとテーブルへ戻し、三人へと視線を向けた。
「――これが今回の依頼の本当の内容だ。この日記を、息子の部屋へ元どおりに戻してほしい。……そして、本人には決して気づかれないように。」
「あの、一つお聞きしてもいいですか? どうしてこっそり読まなければならなかったんですか?」
「情けない話なんだが……私は前代の大鍛將だった。金族のために、自分の時間も、この身も、すべて捧げて生きてきた。」
「えっ……前代の大鍛將だったんですか?」
「ああ。かつて金族が魔族の侵攻を受けた時、私は一人、また一人と住民を救って回った。だが……彼女だけは、救えなかった。」
「……息子さんは、あなたを恨んでいるんですね。」
エイラが不意に口を開いた。
「ああ……。」
てっしんは否定することなく、自嘲するように小さく笑った。
「だったら、どうして奥様を選ばなかったんですか?」
エイラはまっすぐてっしんの瞳を見つめる。
「エイラ……。」
カイロスとエイノは、同時に息をのんだ。
「奥様は、あなたの大切な人だったんでしょう? 一生を共に歩む相手だったはずです。……あなたにとって、家族は一番大切な存在じゃなかったんですか?」
てっしんは怒ることもなく、ただ静かに俯いた。
「……私は、大鍛將だった。皆を守らなければならなかった。それが、私の責任だったんだ……。」
「だから何ですか! 奥様だって、あなたの責任だったでしょう。あなたは皆を救ったのに――ただ一人、奥様だけは救わなかった。」
部屋は、しんと静まり返った。
エイラは何かを言いかけて口を開いた。
だが次の瞬間、何かに気づいたように表情を変えると、踵を返して部屋を飛び出した。
「エイラ!」
エイノは慌ててその後を追いかけた。
カイロスだけが、その場に取り残された。
彼は引きつった表情のまま固まり、恐る恐るてっしんへと視線を向ける。
(えっ……まさか、俺一人でこのおじさんと!?)
「……あの子も、まったく同じことを言っていた。」
てっしんはそれ以上は何も語らず、ただ日記をカイロスへと差し出した。
「この本を……デックに届けてくれ。」
そう言うと、てっしんは立ち上がり、深々と頭を下げた。
カイロスも反射的に慌てて立ち上がり、思わず背筋を伸ばした。
「エイラ!! 待って!!」
エイラはエイノの声を聞くと、その場で足を止めた。
エイノは彼女のもとまで駆け寄る。
彼には分かっていた。
エイラが動揺した理由は、てっしん本人ではない。
――てっしんの選択が、あの日のことを思い出させてしまったのだ。
「エイノ……私は、まだ手放せない。あの人が憎い。……それ以上に、自分自身が憎い。」
エイラは唇を強く噛みしめ、その瞳は深い悲しみに満ちていた。
エイノは何も答えなかった。
そして、エイラの胸の奥底に封じ込められていた記憶が、再び脳裏によみがえった。
それは、翠耀の森が数百年の歴史の中で、ただ一度だけ魔族の侵攻を受けた日のことだった。
青々と生い茂っていた森は業火に包まれ、無数の木々が次々と倒れ落ちる。
立ち上る黒煙は、かつて澄み渡っていた青空を覆い尽くしていた。
耳をつんざくような爆発音が絶え間なく響き渡り、泣き叫ぶ声、怒号、そして刃と刃がぶつかり合う金属音が戦場を埋め尽くしていた。
「助けてぇぇぇ――!!」
「お願い! 誰か、この子を助けてぇぇ!!」
「西側が突破された! 至急、援軍を頼む!!」
エイラはエイノの手を握りしめ、城の最上階に立ち、一本、また一本と木々が業火に飲み込まれていく光景を、ただ無力に見つめていた。
その時だった。
エイラの視線が遠くにそびえる万霊神樹を捉えた瞬間、その瞳が大きく見開かれる。
炎はすでに神樹の周囲まで燃え広がり、一歩、また一歩と、その巨大な幹へと迫っていた。
エイラは一瞬たりとも迷わなかった。
握っていたエイノの手をそっと放すと、そのまま万霊神樹へ向かって駆け出した。
「エイラ! どこへ行くんだ――!!」
エイノは一瞬呆然としたあと、慌てて手を伸ばして彼女を引き止めようとした。
だが、その指先がかすめたのは、衣の裾だけだった。
エイノは腕に抱えた人形をぎゅっと抱きしめたまま、その場に立ち尽くし、声を張り上げて泣き叫んだ。
「エイラ――!!!」
(万霊神樹だけは……絶対に燃やしちゃだめ! あれが焼かれてしまったら、みんなの魔法が消える……お父さんも、消えてしまう!)
エイラは燃え盛る森の中をひたすら駆け抜けた。
両脇では炎が天へと噴き上がり、立ち込める黒煙が目を刺し、とても目を開けてはいられなかった。
道中では、誰もが彼女とは反対方向へ逃げていた。
「戻れ! あっちは魔族だらけだぞ!!」
それでもエイラは足を止めない。
むしろ、その叫びに背中を押されるかのように、さらに速度を上げて駆け続けた。
やがて――巨大な万霊神樹が、その視界に飛び込んできた。
本来なら翠緑の輝きを放つ神樹は、今や業火に包まれ、その炎は幹を伝いながら絶え間なく上へと燃え広がっていた。
「いやぁぁぁっ!!」
エイラはすぐさま魔力を練り上げた。
翠緑色の光が神樹を優しく包み込み、燃え盛っていた炎は少しずつその勢いを失っていった。
――その瞬間だった。
立ち込める黒煙の中から、一つの漆黒の影が凄まじい勢いで飛び出してきた。
エイラには反応する暇すらなかった。
その影は一瞬で彼女へ襲いかかり、そのまま地面へと押し倒した。
胸元に強烈な衝撃が走り、小さな身体は宙へと弾き飛ばされた。
そのまま地面へ激しく叩きつけられ、口元からはゆっくりと血が流れ落ちる。
エイラは苦しげに顔を上げた。
霞む視界の中――
見慣れた後ろ姿が、ぼんやりと映った。
「お母さん――!!」
エイラは残された力を振り絞り、その名を叫んだ。
シアナの足がわずかに止まる。
反射的に振り返ったその瞬間――母娘の視線が重なった。
だが、その時。
別の方角から、再び悲痛な叫び声が響き渡る。
「助けてぇぇぇ――!!」
「女王陛下! 東区が突破されました!」
シアナはエイラを見つめた。
その背後では、助けを求める悲鳴が次々と響き渡る。
法杖を握る手が、かすかに震えた。
目の前にいるのは、自分の娘。
――だが、その向こうには、自分の助けを待つ無数の民がいた。
その迷いは、ほんの一瞬だった。
だが、その隙を逃さず、魔族は再び鋭い爪を振り上げ、エイラへと振り下ろした。
――その瞬間。
一つの人影が、何の躊躇もなく飛び出した。
エイラを強く抱き寄せ、自らの身体でその一撃を受け止めた。
「シヴィルトン!」
シアナは反射的に二人のもとへ駆け出そうとした。
だが、その背後から響き渡る無数の悲鳴が、再び彼女の足を縛りつけた。
シヴィルトンはエイラを固く抱き寄せ、その小さな身体を胸に抱き込むようにかばった。
手にした長剣は絶え間なく振るわれ、迫り来る魔族を次々と押し返していく。
「お父さん……」
エイラは彼の服の裾を強く握りしめ、涙をこぼした。
「もう大丈夫だ。」
シヴィルトンは彼女を見下ろし、優しく微笑んだ。
そっとエイラの目元の涙を拭うと、静かに顔を上げ、遠くに立つシアナへと視線を向けた。
燃え盛る森を隔てて、二人の視線が交わる。
言葉はなかった。
それでも、その一瞬だけで十分だった。
シヴィルトンは静かに微笑んだ。
それは、心の底から浮かべた穏やかな笑みだった。
シアナは法杖を握る手を震わせながら、ゆっくりと目を閉じた。
そして再び瞼を開いた時、その瞳から迷いは消え去り、揺るぎない決意だけが宿っていた。
「……お願い。」
彼女は小さくそう呟くと、きっぱりと踵を返し、助けを待つ民のもとへと駆け出していった。
エイラは、シアナが迷いなく背を向けて走り去っていく姿を見つめていた。
頬を、一筋の涙が再び伝った。
――あの瞬間。
エイラの目には、誰よりも敬愛していた母が、すべての人を選んだように映った。
ただ一人――
自分も。
そして、お父さんも。
選ばれることはなかった。
エイノは黙り込んだままのエイラを見つめ、一体何を言えばいいのか分からなかった。
さっき彼女が家を飛び出したのを見た瞬間、気づけば反射的に後を追いかけていた。
けれど、こうして隣に立ってみて初めて気づいた。
自分には、彼女を慰める言葉が何一つ見つからなかった。
エイノは知っている。
エイラは今もなお、父の死を受け入れられずにいることを。
あの日――彼女は自らの目で見届けたのだ。
父がその場に膝をつき、その身体が少しずつ灰となり、風に乗って儚く散っていく姿を。
ただ、エイノはシヴィルトンがどのように命を落としたのかを知らなかった。
あの日、幼かったエイノは終始城の中に留まっており、炎が鎮まるまで一歩たりとも外へ出ることはなかった。
だからこそ、かつてのエイノも、この世界へ転生してきた今のエイノも――
あの戦いを自らの目で見たことはなく、その日に何が起きたのかも、何一つ知らないままだった。




