その九
気づけば、時計は深夜二時を回っていた。
窓の外のネオンも少し減って、街は静かになり始めている。
唯ちゃんはソファで膝を抱えながら、ぼんやりテレビもつけずに座っていた。
僕は隣で、空になった缶コーヒーを指で転がす。
不思議だった。
特別なことなんて何もしていない。
ただ話して、笑って、一緒に歌っただけ。
それなのに、今までのどんな時間より、心が満たされていた。
唯ちゃんが小さく呟く。
「ねえ」
「ん?」
「今日、帰したくないな」
その声は、甘えるみたいに小さかった。
僕は冗談っぽく笑う。
「また言ってる」
「だってさ……帰ったら、夢みたいに消えそうで」
唯ちゃんはそう言って、うさぎのクッションをぎゅっと抱きしめた。
僕は少し迷ってから、静かに聞く。
「唯ちゃん、怖いの?」
唯ちゃんは少しだけ黙った。
そして観念したみたいに笑う。
「うん。怖い」
「何が?」
「幸せになること」
その言葉に、胸が締め付けられる。
唯ちゃんは視線を落としたまま続ける。
「期待するとさ、なくなった時つらいから」
「……」
「だから最初から、期待しないようにしてた」
夜の静けさの中、その言葉だけがやけに重かった。
僕はゆっくり唯ちゃんの隣に近づく。
「じゃあさ」
「ん?」
「少しずつでいいよ」
唯ちゃんがこちらを見る。
「急に信じなくていい。怖いなら、ゆっくりでいい」
僕は、唯ちゃんの手をそっと握った。
「でも俺は、唯ちゃんとちゃんと向き合いたい」
唯ちゃんの指先が、小さく震える。
「……なんでそんな真っ直ぐなの」
「唯ちゃんの前だと、嘘つきたくないから」
その瞬間。
唯ちゃんは堪えきれないみたいに笑って、
でも同時に涙も零れた。
「ほんとずるい……」
僕は親指で、唯ちゃんの涙をそっと拭う。
すると唯ちゃんは、照れ隠しみたいに顔を背けた。
「ねえ、歌って」
「俺が?」
「うん。さっきの曲」
「下手なのに」
「いいの」
唯ちゃんは僕の肩に頭を預けながら、小さく笑う。
「あなたの声、安心するから」
僕は静かに歌い始める。
上手くなんてない。
でも唯ちゃんは、目を閉じながら嬉しそうに聴いていた。
まるで、長い間探していた居場所を、
やっと見つけたみたいに。




