妊娠
ある春の日。
唯ちゃんは、朝から少し様子がおかしかった。
食卓に並んだ味噌汁を見た瞬間、
「……ごめん、ちょっと待って」
そう言って、慌てて洗面所へ向かう。
僕は心配になって後を追った。
「大丈夫?」
唯ちゃんは小さく頷く。
「うん……でも最近、ちょっと変なんだよね」
顔色も少し悪い。
最初は疲れかなと思った。
絵本の締切も重なっていたし、最近忙しかったから。
でも数日後。
唯ちゃんは、静かな声で言った。
「……もしかして、って思ってる」
その瞬間。
僕の心臓が大きく鳴った。
二人で病院へ向かう道。
唯ちゃんはずっと無口だった。
不安そうに、僕の袖を掴んでいる。
僕も緊張していた。
嬉しさもある。
でも同時に、“自分はちゃんと父親になれるのか”という怖さもあった。
診察室。
時間が、やけに長く感じる。
そして――
先生が、優しく微笑んだ。
「おめでとうございます」
唯ちゃんの目が、大きく揺れる。
「赤ちゃん、いますよ」
その言葉を聞いた瞬間。
唯ちゃんは口元を押さえて、涙をこぼした。
僕も、何も言えなかった。
ただ、胸の奥がいっぱいになっていく。
病院を出たあと。
春の風が、静かに吹いていた。
唯ちゃんはエコー写真を両手で大事そうに持っている。
何度も見て、また涙ぐむ。
「……ほんとなんだ」
小さな声だった。
僕は隣で、静かに頷く。
唯ちゃんは突然、不安そうに言った。
「ねえ」
「うん?」
「私、ちゃんとお母さんになれるかな」
その瞳は、少し揺れていた。
過去に傷ついたこと。
自分を好きになれなかった日々。
いろんな感情が、きっと心の中にあった。
僕はゆっくり言う。
「唯ちゃんなら、大丈夫」
「でも……」
「だって唯ちゃん、ずっと人を優しくしてきたじゃん」
唯ちゃんの目から、また涙がこぼれる。
「絵本でも、言葉でも、俺にも」
春の陽射しが、柔らかく二人を照らしていた。
僕はそっと唯ちゃんのお腹に手を当てる。
まだ小さくて、何も分からない。
でも確かに、“新しい命”がそこにいた。
唯ちゃんは泣きながら笑った。
「なんか不思議だね」
「うん」
「昔の私たちに教えたら、信じないかも」
僕も笑う。
孤独だった僕たちが、
今、未来を抱きしめようとしている。
唯ちゃんはエコー写真を見つめながら、小さく呟いた。
「この子にも、いっぱい“いってらっしゃい”って言いたいな」
その言葉を聞いた瞬間。
僕は、この家がもっと温かくなる未来を、はっきり想像できた。




