あなたが最初の読者だからね
北海道から帰ってきてからも、僕たちの日常はゆっくり続いていった。
朝。
僕が学校へ行く準備をしていると、キッチンから味噌汁のいい匂いがする。
唯ちゃんはエプロン姿で振り向き、笑う。
「先生、朝ごはんできてるよ」
「はーい」
そんな何気ない毎日が、今でも時々夢みたいに感じる。
家を出る前。
唯ちゃんは玄関まで来て、ネクタイを整えてくれる。
「今日、授業参観だっけ?」
「うん、緊張する」
「大丈夫。あなた、ちゃんといい先生だから」
そう言って、最後にいつもの笑顔。
「いってらっしゃい!」
僕はその言葉を聞くたび、少しだけ初心を思い出す。
誰かの“安心できる場所”になりたい。
その気持ちを。
学校では、毎日いろんなことが起きた。
泣いてしまう子。
ケンカする子。
一人で本を読んでいる子。
でも僕は、ちゃんと向き合いたいと思った。
昔、自分が“気づいてほしかった”みたいに。
ある日。
クラスの男の子が、帰り際に小さな声で言った。
「先生って、やさしいね」
その瞬間。
胸が熱くなった。
帰宅すると、唯ちゃんがリビングで原稿を描いている。
机の周りには、色鉛筆とうさぎのラフ。
僕に気づくと、ぱっと顔を上げる。
「おかえり!」
「ただいま」
僕が鞄を置くと、唯ちゃんはすぐ聞いてくる。
「今日どうだった?」
僕は少し照れながら笑う。
「“やさしい先生”って言われた」
唯ちゃんの目が、一気に嬉しそうに細くなる。
「ほらね!」
「唯ちゃんが泣くほど喜ぶ?」
「だって、あなたずっと頑張ってたから」
その声は、本当に誇らしそうだった。
夜。
夕飯を食べ終えて、二人でソファに座る。
唯ちゃんは新作絵本のラフを僕に見せてくれた。
タイトルは――
『せんせい、おかえり』
学校で失敗して落ち込んだ子うさぎが、家に帰って「おかえり」と言われて泣いてしまう話だった。
最後のページには、こう書かれている。
“きみが かえってくるのを
まってるひとは いるよ”
僕はページを閉じながら、静かに息を吐く。
「……唯ちゃんの絵本って、ずるい」
「え?」
「毎回、心にくる」
唯ちゃんは照れながら笑った。
「あなたが最初の読者だからね」
窓の外では、静かな雨が降っていた。
僕は唯ちゃんの肩を抱き寄せる。
唯ちゃんも、安心したみたいに寄りかかってきた。
昔の僕たちは、孤独だった。
でも今は違う。
疲れて帰る場所があって、
「おかえり」と言ってくれる人がいて、
「いってらっしゃい」と送り出してくれる人がいる。
それだけで、人生はちゃんと救われるんだと。
僕たちは、少しずつ知っていった。




