EP.5-Liberation
イヴと酒場で契約を交わしてから、約一週間ほどの時間が経っていた。
この一週間のうちに、私は彼女たちの警戒をある程度解き、この簡素な隠れ家へ日常的に出入りするようになっていた。
その日の夜、イヴが夜の街へと少しばかり用足しに出かける間、私は彼女が連れている奴隷の子供ーーキーラと二人で、その帰りを待つことになった。
キーラは部屋の隅で大人しく本を読んで時間を潰している。
私はといえば、この部屋の周囲の空間に漂う通信魔道具の電波残滓を拾い集め、そこに流れる興味深い会話を傍受することに意識を集中させていた。
他人の秘密という名のダイヤモンドを掘り起こす作業は、いつまでやっても飽きない私の娯楽だ。
「帰ったぞ」
前触れもなく、音もなく扉が開いた。
気配を完全に殺して部屋に入ってきたのは、もちろんイヴだ。
「イヴ!」
それまで張り詰めたように静かだったキーラがパッと顔を輝かせ、弾かれたようにイヴの元へと駆け寄っていった。
「いい子にしてたか? サキと遊んでいなかったのか?」
イヴはしゃがみ込み、キーラの小さな頭を愛おしそうに撫でながら、優しい声で問いかける。
すると、キーラは私の方をチラリと盗み見て、不満そうに小さな唇を尖らせた。
「サキおばさん、ずーっとボーッとしてて怖いんだもん……」
おばさん。
この一週間でだいぶ距離が縮まったのは良いことだが、その不意打ちのワードには慣れない。
私の見た目はまだ30代半ばの、艶やかな茶髪が自慢の美貌なのに。
「……お姉さん、ね?」
私は通信の傍受を即座に中断し、声音だけは極上の優しさを装って、キーラへと至近距離の完璧な営業スマイルを向けた。
しかし、子供の直感というやつは恐ろしい。
キーラは私の笑顔の奥にある「大人の迫力」を敏感に察知したようで、「ひゃっ」と短い声を上げると、そそくさとイヴの足の裏へと隠れるように縮こまってしまった。
「サキ……これでいいのか?」
イヴが革手袋を嵌めた掌を開き、その中に収められた一つの指輪を私に見せてきた。
私はそれを無言で受け取ると、指先から微量の魔力を流し込み、その材質と構造を確かめた。
「ええ、これこれ。よく手に入ったわね?」
指輪には、夕焼けのように深く澄んだ赤色を放つ珍しい鉱石――『ブエルナ鉱石』が埋め込まれていた。
ただ美しいだけの宝石ではない。
この鉱石には、外部から流し込まれた『魔法術式』をそのまま歪みなく写し込めるという極めて稀有な特性があるのだ。
「正規ルートじゃない……裏なら金があれば大体は揃うさ」
イヴはそう淡々と口にしながら、不安そうに身を固くしているキーラの頭を、安心させるように優しく撫でた。
元幹部としての裏のツテと、私が前渡しした資金が、さっそく最高の結果をもたらしてくれたわけだ。
「上出来よ。……キーラ、こっちにおいで」
私は声を一段トーンダウンさせ、極力警戒させないような優しい声音で彼女を呼んだ。
キーラはイヴの顔を一度見上げ、彼女が深く頷くのを確認すると、オドオドと怯えた足取りでゆっくりと私の方へ近付いてきた。
「大丈夫、ちょっと痛くないおまじないをするだけだからね」
私は左手の指先にブエルナ鉱石の指輪をつまみ、空いた右手でキーラの幼い頬へと優しく触れた。
私の指先を通じて、彼女の魂の奥深くに冷酷に刻み込まれている、奴隷の呪縛ーー歪な魔力の防壁とパスの繋がりが、網膜の裏側へとはっきりと浮かび上がってきた。
私の右手から流し込んだ魔力が、キーラの魂の奥深くに巣食う奴隷魔法の「根底」ーー従を繋ぐ呪いの核をガチリと掴み取った。
そのまま、ロストマジックの術式を用いて強制的にパスを遮断し、掴んだ呪いのエネルギーを左手に握ったブエルナ鉱石の指輪へと一気に移し替えていく。
私の両手が淡い光に包まれ、赤色の鉱石が呪式を吸い込んでドクドクと不気味に明滅した。
何が起きているのか分からず、キーラは怯えたように小さな身体を震わせ、ギュッと強く目を瞑っていた。
やがて、光が完全に収束し、指輪の鉱石が元の静かな赤色に戻った。
「キーラ。大丈夫よ、もう終わったわ」
私のその言葉に、キーラはおそるおそる瞼を開ける。
張り詰めた様子で見守っていたイヴも、私の言葉を聞くや否や、弾かれたようにキーラへと駆け寄った。
「キーラ……見せてみろ」
イヴはキーラの前にその場にかがみ込むと、焦燥の滲む手つきで、それまでローブで頑なに隠されていたキーラの小さな首元を露出させ、確認する。
そこにあったはずの、禍々しい奴隷の刻印は跡形もなく消え去り、白く滑らかな子供の肌だけが残されていた。
「消えてる……本当に、消えている……」
イヴの驚愕と安堵が入り混じった呟きを聞き、キーラは小さな両手で自分の首元を何度も触りながら、不安そうな顔でイヴに問いかけた。
「ほんと……? イヴ、これで私、もう奴隷じゃないの……?」
「あぁ……これで、お前はもう自由だ」
そう呟いたイヴの声は、今までになく微かに震えていた。
彼女は愛おしそうに、キーラの小さな身体を抱きしめた。
何度も、何度も確かめるように。
「じゃあ、ずっとイヴと一緒にいる!」
それまで張り詰めていた緊張から完全に解放され、キーラは嬉しそうにイヴの腕の中で顔を綻ばせ、無邪気に笑った。
奴隷の烙印から解き放たれたその笑顔は、年相応の輝きに満ちている。
すると、キーラはイヴの腕の中から顔を覗かせ、私の方を見て弾んだ声を上げた。
「サキお姉ちゃんも、ありがとう!」
おばさんから、お姉ちゃんへ。
現金なものね、と私は内心で苦笑しながらも、上品な微笑みを返した。
「いいのよ」
私はそっけなく答え、左手で握りしめたままの指輪を見つめた。
夕闇のような赤色のブエルナ鉱石。
その奥には、先ほどキーラの首元から吸い上げた奴隷魔法の術式が、歪むことなく完璧に転写され、私の魔力によって完全に制御された状態で閉じ込められている。
ソファの沈み込む感触に身を任せながら、私は左手の指輪ーーブエルナ鉱石の奥へと意識を沈め、そこに写し取った奴隷魔法の術式をじっくりと解析した。
しかし、その構造を紐解いていくにつれ、私の眉は不快感に大きく跳ね上がった。
……なんて気持ちの悪い術式かしら。
一見するとただの強固な呪縛。
けれどその本質は、底知れない悪意で満ちていた。
もしこの呪式を外部から無理に解体・破壊しようとすれば、術式そのものが暴走し、刻み込まれた対象ーーつまりキーラの魂や肉体に無限の痛みを伴わせるように設計されていたのだ。
それだけではない。さらに悍ましいのは、この術式に組み込まれた「複製魔法」の術理だった。
この術式は単体で完結していない。
張り巡らされた魔力の糸の先で、別の何かと完全にリンクしている。
私は視線を上げ、キーラを抱きしめているイヴの手元を見た。彼女の指に嵌められている、あのグレイブの幹部としての指輪。
イヴの指輪に刻まれた術式が親機。
キーラに刻まれた奴隷術式が子機。
完全にリンクしているんだわ。
もしイヴがその指輪を破壊したり特定の魔力を込めたりすれば、親機の指輪を通じて遠隔で子式の呪いを暴走させ、キーラをいつでも痛めつけ、殺すことすら容易いシステム。
私の膝の上で、魔導書がその禍々しさに当てられたのか、不快そうにページをバラバラと震わせる。
500年前、私が初めに召喚された時の魔法体系のどこを探しても、こんな陰湿で歪んだ術式は存在しなかった。
私の持つ魔導書にすら、記載されていない魔法。
これは……この500年の間に、新しく紡ぎ出された魔法技術ね。
これほど強固なシステムを構築した現代の魔法使い。
姿も見えぬその製作者に対して、私は心底からの蔑みを込めて、唇の端を歪めた。
「作った人間は、余程趣味の悪い変質者ね……」
ぽつりと溢れた私の呟きは、幸せそうに身を寄せ合う二人の歓声にかき消され、薄暗い部屋の隅へと溶けて消えた。




