EP.4-Covenant
メギドレイブンの高級宿を借りて数日を過ごすうちに、私はこの異国情緒あふれる都市の空気にもだいぶ馴染んできていた。
空が夕暮れの色鮮やかなオレンジ色に染まる頃、私はあえて大通りを外れ、少し路地裏に入ったところにある活気ある大衆酒場へと足を運んだ。
扉を開けて中に入ると、一日の労働を終えた人々が放つ賑やかな喧騒が、心地よい波のように押し寄せてくる。
「そこのカウンター、座ってもいいかしら?」
忙しなく動き回っている女性店員に声をかけると、彼女は「どうぞ!」と元気な笑顔で答えながら、バタバタと注文の品を手にキッチンへと戻っていった。
空いていた席に腰を下ろし、相棒である魔導書をそっと膝の上に置く。
そして、周囲の客がどんなものを食べているのかを、それとなく見渡してみた。
鉄板で音を立てるステーキ、香ばしく焼かれた魚……
どうやらこの店は、注文すれば大抵のものは作ってくれるらしい。
少し迷ったけれど、今日の気分は肉より魚だ。
ちょうど私の後ろを通りかかった店員へ、「ビールと、焼き魚を適当にちょうだい」と声をかけると、店員はニコリと笑って小気味よく承諾の返事をしてくれた。
注文を終え、私はごく自然な動作で、二つ隣の席へと視線を流す。
そこには、頭から深くローブを被った、10歳程度に見える小さな女の子が縮こまるように座っていた。
そしてその隣には、軽装ながらもしっかりとした冒険者の服装に身を包んだ、短い黒髪の女性。
私は口元に極上の笑みを湛えながら、彼女の横顔を見つめて声をかけた。
「可愛らしい子ね。あなたのお子さん?」
黒髪の女性は、ビールを喉に流し込んだまま、ピクリとも動かない。
その短い髪の隙間からのぞく鋭い目付きが私に向けられることはなかったが、その身体が僅かに戦闘態勢へと移行したのを、私は見逃さなかった。
「まず最初に言うけれど、私は敵じゃないわ」
私は隣の彼女からすっと視線を外し、カウンターの向こうで調理をする料理人の手元へと目線を向けた。
「貴方が誰かも分かってる。そして……貴方が何を求めているのかもね」
その言葉を投げかけた瞬間、彼女の周囲の空気が一変した。
一般人には感知できないほどの、微かな魔力の揺らぎ。
「……あんたの目的はなんだ」
隣の女性は、持っていたビールのジョッキを静かにテーブルへと置き、ようやく口を開いた。
低く凄みのある響き。
けれどその声自体は、驚くほどに澄んでいて美しい。
「私と組んで欲しいの」
私は上半身を少しだけ彼女の方に傾け、今度はその鋭い黒い瞳を、ゆっくりと真っ直ぐに見つめ返した。
「私は、この国を盗る。だから裏社会に詳しいあなたの力が欲しいの」
とびきり甘く、そして途方もない野心を孕んだ微笑みを向ける。
「もちろん、タダで手伝えとは言わないわ。まずは貴方が今、最も求めているもののうちの一つをあげる」
私はカウンターに肘をつき、身体を完全に彼女の方へと向けて、甘く囁くように答えた。
「ーーその子の、奴隷魔法の解除」
その言葉が鼓膜に届いた瞬間、それまで鉄の仮面のように冷徹だった彼女の表情が、初めてピクリと劇的に動いた。
フードを深く被った少女の小さな肩も、微かに強張る。
奴隷制度解放の先駆けであるこのメギドレイブンに逃げ込んできた理由。
それは、この都市の高度な魔法技術なら、少女に施された呪わしい奴隷紋を消し去れるかもしれないという淡い希望ゆえだろう。
けれど、裏社会の闇深くで刻まれた呪式はそう簡単に解けるものではない。
「どうする? たぶん、私以外には解けないわよ?」
私はさらに彼女の心の最奥へと踏み込み、逃げ場をなくすように追い詰めていく。
500年前のロストマジックに精通している私なら、身体に刻まれた主従のパスを強制的に切断することも出来るはずだ。
「乗るか……乗らないか……聞かせて?」
混乱と驚愕に揺れる彼女の黒い瞳を見つめながら、私はこの上なく愉悦に満ちたとびきりの笑顔を向けた。
彼女は視線を落として少しの間沈黙し、やがて小さく諦めたような溜め息を吐き出すと、静かに口を開いた。
「……わかった。その話、乗ろう」
今度は逃げることなく、まっすぐ私の目を見つめ返してくる。
その瞳には、なおも警戒の色が残ってはいるものの、大切な少女を守るための確固たる覚悟が宿っていた。
ちょうどその時、「はい、お待たせしました!」と、カウンターの向こうから店員が黄金色のビールと香ばしく焼けた魚を置いてくれた。
「ありがとう」
私は店員に労いの言葉と華やかな笑顔を送り、それから改めて隣の彼女へと向き直る。
「じゃあ、私たちの新しい門出に、乾杯といきましょうかーーイヴ」
私は自分のビールジョッキを小さく掲げ、イヴの目の前へと差し出した。
イヴは何も言わず、自分のジョッキを持ち上げると、私のそれに軽くカチンと合わせた。
お互いにビールを一口、喉へと流し込み、それぞれのジョッキをカウンターに戻す。
……うん、やっぱり苦いわね。
イヴが美味しそうに呑んでいたからつい同じものを頼んでしまったけれど、会社員時代からビールはそこまで好きではなかったのを思い出した。
どうせなら、甘くて飲みやすい梅酒でもあればよかったのに……
そんなこの世界にはない無茶な望みを頭の片隅で思い浮かべながらも、私は計画の第一歩がこれ以上ないほど完璧に上手くいったことを、心の奥で深く喜んでいた。




