5#一線
柔らかな日差しを浴びながら、俺は緩やかな坂道を歩いていた。
肌を撫でる風は穏やかで、気温は日本の春から初夏にかけてのあの心地よい陽気に似ている。
後ろを振り返る。
城門の崩落から数時間が経過したが、追っ手の気配は一切ない。
「……道が、綺麗だな」
俺は道端に視線を落とし、独りごちた。
かつて歩いた街道は、轍の跡とぬかるみに覆われた獣道に近いものだったはずだ。
だが今、足元の路面はある程度均一に整備され、どこまでも先へと続いている。
視線を上げると、道の両端には一定の間隔で背の高い支柱が立っていた。
頂部には、球体のようなものが取り付けられている。
魔導技術による、なんらかの発光装置のように見える。街灯のようなものだろう。
文明の発展は着実に進んでいたらしい。
松明の煙と暗闇が支配していた五百年前の夜道とは違うようだ。
ただもしこれが街灯ではなかった場合は少し厄介だ。
夜の旅が死と隣り合わせであることは、二十年前に嫌というほど体験している。
あの頃の闇に潜む魔獣の爪、視界を奪う深い夜の記憶が、背筋に冷たいものを走らせる。
食料も持たず、火を起こすための道具ひとつ持ち合わせていない。
「……魔王退治を断る前に、晩餐と旅の支度をせしめておくべきだったな」
日が沈むまで、あとどれくらいだろうか。
空の色はまだ明るい青を保っているが、陽は確実に傾いている。
どこか安全に夜を明かせる場所、そして贅沢を言えば温かい食事。
俺は歩調を少し早めた。
日がオレンジ色に染まり出した頃、視界の先に小さな村のシルエットが浮かび上がった。
俺は思わずホッと胸を撫で下ろす。これで夜の闇に怯えながら荒野を彷徨うという、最悪の事態は避けられたわけだ。
近づくにつれて、そこが静かな農村であることが分かってきた。
村の空には、大きめの蝙蝠のような生き物がバタバタと羽ばたきながら、村の家々の上を旋回している。
家畜として何かしらの役目を与えられているのだろうか。
俺は気を抜いて、のんびりと村の入り口へ歩みを進めた。
村の方から、土煙を上げてこちらへ向かって走ってくる人影があった。
ボロ布に近い農作業着を纏い、顔を蒼白にさせた農夫だ。
男は俺の姿を認めるやいなや、その目に宿る絶望の淵から悲鳴に近い声を上げた。
俺の腰に差された二振りの刀に目を留め、男が叫ぶ。
「あ、あんた!助けてくれ!」
男の声はひどく震え、後ろを気にしながら走ってくる。
「なにかあったのか?」
俺は駆け寄ってくる男の肩を支え、息を整えさせるように声をかけた。
男は肩で激しく息をしており、限界に近い疲労がその表情から見て取れる。
「み、見て分からんのか!ワイバーンだよ!ほら!あの上の!」
男は絶叫に近い声で、先ほどから俺が何気なく眺めていた村の上空――あの大きな蝙蝠のような生物を指さした。
「あー……あれワイバーンか……」
俺は思わず呟いた。
20年前の記憶にあるワイバーンといえば、もっと凶暴で、鱗も厚く、空を支配する脅威の代名詞だった。
今のバタつきながら旋回する姿からは、そんな危険なオーラはあまり感じられない。
時代の変化で、生物の生態までもが変わってしまったのだろうか。
「お前、旅人かギルドの人間だろ?頼む!助けてくれ!」
男が俺の肩を掴み、必死の形相で激しく揺さぶってくる。その手からは男の恐怖と、村が置かれている絶望的な状況が伝わってきた。
「わかったから、落ち着け」
俺は男の両肩に手を置き、無理やりその身体を静止させた。
俺は駆け足で村へと向かった。背後では男が荒い息を吐きながらついてきている。
村の中央にある農場の光景が目に飛び込んできた。
牛たちが不安げに鳴き声を上げているその横には、古い小屋がある。
藁の隙間から、震える小さな影が見えた。
隠れている子供たちだ。
なるほど、悠長に旋回しているように見えたのは、獲物を狙うための品定めだったわけか。
上空を見上げると、ワイバーンは獲物を確信したのか、未だに旋回を続けている。
「た、頼む……なんとかしてくれ……」
男は俺の背後に回り込み、服の裾を強く握りしめて懇願してくる。
恐怖に支配され、自分の足ではもう動けないのだろう。
「怪我をするから、俺の服は離しておけ」
俺はそう言って、男の手を優しく払った。
男が怯えながら後ずさるのを横目に、俺は視線を空へと固定する。
しかし、随分と高いな。
あの距離は、さすがに一足飛びで斬り伏せるには分が悪い。
俺は迷わず、右手を「シルラ」の柄にかけた。
次の瞬間、空気が引き裂かれる音がした。
旋回をやめ、ワイバーンが一直線に急降下してくる。
獲物が俺に切り替わったらしい。
「天魔無碍流。一刀居合『線』」
跳躍と同時に抜刀。
視界が銀色の光に塗りつぶされるほどの鋭い一閃が、疾走するワイバーンの首筋を正確に捉えた。
血飛沫が空に舞うよりも速く、俺は巨大な体を飛び越える。
背後で、切り離された首と胴体が重たい音を立てて地面に墜落した。
俺はワイバーンの亡骸の上に着地し、その感触を足裏で確かめる。
やはり20年前の記憶にある個体よりも、二回りほど小柄だ。
時代が変化したのは人間だけではないらしい。
俺はワイバーンの体表の質感や傷口を冷静に観察しながら、血を振り払うと刀を静かに鞘へと収めた。
カチリ、と硬質な音が村の静寂に響く。




