40#王国
翌日は、昨日の雨が嘘だったかのように、雲一つない晴れ渡った空が広がっていた。
俺は馬車の手綱を握り、心地よい風を切りながら駆けていく。
隣で静かに揺れるリアの存在は、いつの間にかこの旅の日常として染み付いていた。
「あともう少しってところか?」
俺が問いかけると、リアは目を細めて前方を眺め、穏やかに頷く。
「はい。もうそろそろ、姿が見えてくると思います」
俺はチラリと背後の荷台を振り返る。
ロゼはあぐらをかいて座っているが、その瞳は微塵も弛んでいない。
周囲の気配を読み取り、いつでも背負った大剣を抜けるような、完全な戦闘態勢だ。
もしリアを送り届けた際に何らかの揉め事が起これば、即座に介入するつもりが垣間見える。
馬車が緩やかな丘を越えると、視界が急激に開けた。
遠くにそびえ立つ王城の威容が、目に飛び込んでくる。
どこまでも高く、天を突くようなその城は、白を基調とした美しい佇まいで、街を見下ろしていた。
その麓には、レンガ造りの落ち着いた雰囲気の城下町が広がり、活気ある人々の気配がここまで微かに伝わってくる。
「あれが、イトューヒ王国か……」
近づけば近づくほど、城の威容はその巨大さを増していった。
城下町の門をくぐり、石畳の道を馬車が進む。
ガタゴトと響く車輪の音に、街を行き交う人々のざわめきが重なる。
「……凄い街だな……」
思わず口から漏れた感嘆に、リアは嬉しそうに目を細めた。
「私の、大好きな街並みです」
彼女の屈託のない笑顔を見て、俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
そのまま馬車を大通りの中央へと進めると、街の奥、城郭へと続く門が視界に入ってきた。
しかし、その門は硬く閉ざされており、立ち入る者を拒んでいるように見える。
このまま進んでいいものか判断を迷い、隣のリアに視線を向けると、彼女は迷いのない瞳で前方を見つめたまま口を開いた。
「このまま、真っ直ぐ向かってください」
彼女の言葉を信じ、手綱を緩めずに馬車を進める。
しかし、その動きを察知したのだろう。
城門の脇から一人の門番が、鋭い形相でこちらへ駆け寄ってきた。彼は長槍を横に構え、行く手を阻むように道のど真ん中に立ちはだかる。
「止まれ! それ以上近づくのは許可されていない!」
門番の野太い声が、石畳の通りに響き渡った。
馬車を止めようと手綱に力を込めたその時、隣でリアがゆっくりと腰を上げた。
「門を開けなさい!」
凛とした、それでいてどこか威厳に満ちたその声は、街の騒音を切り裂いて遠くまで澄み渡った。
先ほどまで槍を突きつけていた門番は、その声を聞いた瞬間にハッとして表情を変えた。
慌てた様子で奥の番兵に門を開くよう大声で指示を飛ばした。
重厚な鉄の扉が、軋んだ音を立てながらゆっくりと開き始める。
先ほどまで殺気立っていた門番は、武器を下ろすとその場に跪き、道を開けて礼を取った。
「……このまま向かいましょう」
リアは御者台に立ったまま、背筋をスッと伸ばして俺に優しく微笑みかけた。
いつもの愛らしいリアとは違う、どこか遠い存在のように感じられるその姿に、俺は呆気にとられる。
「……なんか……思ってた反応と違うな」
思わず独り言が漏れた。
「王女付き」というのは、こんな扱いになるもんなのだろうが……
俺の呟きが聞こえたのか、あるいは意図的に無視しているのか、リアはただ前方の城へと真っ直ぐ視線を注いでいた。
俺は複雑な心境を抱えながら、開かれた門の中へと手綱を操り、馬車を進めた。
門をくぐった先には、石畳が美しく整えられた広場が広がっていた。
中央には空高く水を吹き上げる壮大な噴水が鎮座している。
「トールさん。あの噴水の前で馬車を停めてください」
リアの声は、冷静で落ち着いていた。
「わかった」
俺は短く応じ、噴水の傍らで馬車を停めた。
馬の鼻息と、噴水から落ちる水の音だけが広場を支配している。
リアは御者台から軽やかに飛び降りると、何のためらいもなく広場の中央へと歩き出した。
俺とロゼも即座に反応し、左右からリアを挟むようにして追従する。
城の回廊や周囲の建物からは、武装した兵士たちが次々と溢れ出てきた。
数にして数十人、いずれも精鋭揃いか、鎧の擦れる音が訓練された軍隊のそれだ。
俺は無意識のうちに愛刀の柄に手をかけ、ロゼもまた、大剣こそ背中から抜いていないがいつでも飛び出せるように身構えていた。
リアに不測の事態があれば、即座に排除する。
しかし、展開は予想を裏切った。
俺たちの目の前までたどり着いた兵士たちは、武器を掲げるどころか、一斉にリアの前で膝をつき、頭を垂れたのだ。
硬質な金属音が広場に重なり、まるで波が引くようにして静寂が訪れる。
絶対的な敬意だけがその場に存在していた。
「……リア、これはどういうことだ?」
俺は眉をひそめ、隣で兵士たちを冷ややかな目で見下ろしている彼女に小声で尋ねた。
リアは振り返りもせず、ただ静かに城の正面を見据えたまま、一度だけ小さく息を吐いた。
「……ごめんなさい。お二人を、ずっと騙しておりました……」
リアは俺たちに向き直り、これまでの明るい笑顔とはまるで違う、どこか申し訳なさそうな顔で頭を下げた。
「私の名は、ミリアーナ・ヴァン・イトューヒ。このイトューヒ王国の王女です」
広場に響いたその言葉の意味を、俺の脳はすぐには処理できなかった。
王女。
思考が停止し、時間が止まったかのような錯覚を覚える。
隣に立つロゼに視線をやると、彼女もまた大きく目を見開き、口を半開きにしたまま完全にフリーズしていた。
いつものロゼからは想像もつかない、間抜けなほど驚愕した顔だ。
兵士たちが膝をついたまま微動だにしない静寂の中で、俺はようやく「王女」という言葉の重みを飲み込み始めた。
正直、どれほど凄い立場なのかは俺には分からない。
ただ一つだけ分かる。
この護衛依頼は、俺が思っていた以上に、とんでもない依頼だったということだけだ。




