34#微熱
馬車を走らせること小一時間、ようやくその村に辿り着いた。
農村というよりも、街道沿いにひっそりと佇む休息所といった風情の小さな村だ。
食料を買い込める程度の商店や、旅人のための小さな宿屋が数軒、灯りを灯している。
ただ俺が期待していた銭湯の看板は、見当たらない。
俺は力なく肩を落とした。護衛依頼を受けてからというもの、満足に風呂に浸かる機会がない。
この埃っぽい旅路において、それだけが唯一の心残りだった。
「おっさん、そんなに肩を落とすなよ。相変わらず風呂好きだな」
ロゼッタが俺の顔を見て苦笑する。
俺は深く溜息をつきつつも、宿屋の主人に声をかけた。
「すまない、部屋を二つ頼む」
一泊分の硬貨を支払うと、主人が鍵を差し出し、俺たちはそれぞれの部屋へ向かう。
リアは王女付きという身分、そして何より身の安全を考慮し、ロゼッタと同じ部屋で寝てもらうことにした。
「じゃあ部屋で準備したら酒場行こう!早く呑みたいぜ」
ロゼッタは上機嫌で、ソワソワと自分の部屋へと駆け込んでいった。リアも会釈をしてその後ろに続く。
俺も自分の部屋へ入ったが、身の回りの品を軽く整えるくらいで、特にやることもない。
早々に身支度を済ませると、俺は宿の入り口で二人を待つことにした。
夜の村は、街灯の暖かな光に照らされて、昼間とは違う静謐な美しさを纏っている。
空気が冷えてきたのか、遠くで虫の鳴き声が心地よく響いていた。
「……風呂さえあれば、完璧だったんだがな」
もう一度だけ未練がましく呟いて、苦笑する。
「おっさん待たせたな」
ロゼッタは鎧を脱ぎ捨て、白いシャツに紺のズボンという活動的な服装に身を包んでいた。
革ブーツが地面を叩く軽快な音が、彼女のさっぱりした性格を物語っている。
「気にするな。リアはいるか?」
俺が尋ねると、ちょうど背後の扉からリアが現れた。
ケープを脱いだ彼女は、クリーム色のブラウスに落ち着いた色味のロングスカートという装いだ。
簡素な服でありながら、隠しきれない高貴な風格が立ち上っている。
「……綺麗だな」
つい素直な言葉が口から零れた。リアは少しだけ目を丸くしたが、すぐにはにかむように微笑んだ。
「ありがとうございます」
その穏やかなやり取りを、ロゼッタが少しの間、じっと見つめていた。
「ほら、さっさといこうぜ。腹が減って倒れちまう」
スタスタと夜道へ踏み出すロゼッタ。
俺とリアは顔を見合わせ、その後ろを追った。
村の夜風は心地よく、遠くから聞こえてくる酒場の賑わいが、空腹を刺激する。
路地の角を曲がると、村で唯一の酒場と思しき建物から、琥珀色の温かな光が漏れ出していた。
ロゼッタが迷わず扉を押し開けると、中からは笑い声と酒の香りが溢れ出してきた。
俺たちはその喧騒の中へと足を踏み入れた。
俺達は酒場の空いているテーブルを囲み、椅子に腰を下ろした。
「肉盛!って叫びたくなるな……」
ロゼッタの言葉に、俺は思わず吹き出した。
彼女の中では、酒場=肉盛という図式が完全に出来上がっているらしい。
「リアもビールでいいのか?」
「はい。あまり強くありませんが……呑んでみます」
リアは少し緊張気味に頷いた。
「よしきた!ビール三つな!」
ロゼッタが豪快に注文を通す。
この店はそれほど広くないが、彼女にとってはいつもの肉汁酒場と同じ感覚なのだろう。
店内の視線が少し集まったが、ロゼッタは全く気にした様子もない。
「なぁなぁ。イトューヒならではのオススメの肉、あるのか?」
ロゼッタが身を乗り出してリアに尋ねる。リアは少し首を傾げて考え込んだ。
「そうですね……『ガモッサ』がいいと思います」
リアはそう言って、花が咲くような笑顔を浮かべた。
初めて聞く名に俺は首を傾げたが、ロゼッタは即座に反応した。
「ガモッサか!そいつは最高だ。いいな!」
ロゼッタの弾んだ声を聞いて、どうやら俺は未知の美味にありつけそうだという予感がした。
ジョッキが重なり合い、心地よい乾杯の音が響く。
一口喉に流し込むと、ビールが乾いた体に染み渡り、長旅の疲れがじわりと溶けていくのを感じた。
ロゼッタは「これこれ!」と満足げに目を細め、豪快にジョッキを空けている。
「呑めるかリア?」
俺が尋ねると、リアは少し頬を赤らめながら、控えめにジョッキを口元に運んだ。
「はい……でもすぐ酔っ払っちゃいそうです」
そう言って、照れくさそうに笑う。
「あまり普段は呑まないのか?」
「そうですね……たまにワインなどを嗜む程度なら……」
ワイン、か。
元の世界での生活の記憶がふと頭をよぎる。
この世界に来てからは呑んで無いな。
やはりそれなりの値段がするのだろう。
そんな物思いに耽っていると、厨房から店主が大きな皿を抱えてやってきた。
テーブルに置かれたのは、ロゼッタが期待していた通り、山盛りの「ガモッサ」だった。
立ち上る湯気とともに、食欲を強く刺激する香ばしい匂いが漂う。
見たこともないその肉の料理に、俺は思わずフォークを伸ばした。
ボアとは明らかに異なる、濃厚で上品な旨味だった。
噛みしめるたびに赤身の肉汁が口の中に広がり、シンプルな塩気がそれをさらに引き立てる。
「これはビールに合う……!」
俺は肉を頬張り、追いかけるようにビールを流し込んだ。
喉を通る冷たさと、胃に落ちる熱い肉の感触。これ以上の組み合わせがあるだろうか。
「へへっ、久しぶりの酒は染み渡るな!」
ロゼッタも頬を上気させ、上機嫌でジョッキを空けている。
俺たちは肉をつまみながら、途切れることなく言葉を交わした。
大陸を分かつ巨大な橋を渡った時の高揚感、昨夜の野営でロゼッタが振る舞ってくれたスープの絶妙な味付け、そして俺が御者台で馬車を操るのにどれほど必死だったかという笑い話まで。
時折、リアが控えめながらも楽しそうに笑い声を上げる。
「トールさんの御者ぶり、最初は少しだけ心配でしたけれど……今はとても頼もしいですよ」
「そうか?……まあ、ロゼッタの笑い声に鍛えられたおかげかな」
俺がそう返すと、ロゼッタが「感謝しろ!」と豪快に笑ってジョッキを打ち鳴らす。
他愛のない話は尽きず、酒場の喧騒は少しずつ落ち着きを見せ、夜は深く更けていった。
ふと気付くと、リアはジョッキを空にする前に、テーブルに突っ伏して柔らかな寝息を立てていた。
普段はほとんど呑まないと言っていたので、そんなに強くなかったのだろう。
俺はその無防備な寝顔をじっと見つめる。
彼女もまた、野盗の襲撃という過酷な運命を乗り越え、唯一生き残った者として、言葉にできないほどの重圧を背負っているはずだ。
その安らかな寝顔からは到底想像できないほど、彼女の歩んできた道のりは苛烈だったのだろう。
俺は気付くと彼女の髪にそっと手を伸ばし、優しく撫でていた。
「……ん」
リアが小さく寝返りを打つ。
ふと横を見ると、ロゼッタが肘を突いて、なんとも言えないニヤニヤとした笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「……なんだよ」
俺が小声で突っ込むと、ロゼッタは肩をすくめて酒場を見渡す。
「おっさん……さっきからにやけてるぞ?」
「……さて、そろそろ宿に戻るか」
俺はロゼッタの言葉を流し、立ち上がった。
椅子を引く音が、静まりかけた酒場に小さく響く。
「おい、リアどうするんだ?」
「リア。起きれるか?宿に戻るぞ」
俺はリアの肩を揺らして呼びかけたが、リアは深い眠りの底にいるのか、小さく寝息を立てるだけで一向に目覚める気配がない。
緊張の糸がようやく切れたのか、それとも酒が回ったのか。
仕方なく、俺はリアの体を抱え上げ、背中へと回した。
背中越しに伝わる体温は、彼女が背負っている運命に反して、どこか子供のようにか細い。
「仕方ない……このまま帰るか」
「しっかり運んでくれよ。おっさんのお姫様なんだから」
ロゼッタは笑うと、足早に店員を呼び止めて会計を済ませてきた。
酒場の喧騒を背にして宿への路地に出ると、夜の冷気が火照った肌を心地よく冷やしていく。
夜道は街灯がポツリポツリと点在するだけで、昼間の明るさとは別世界のようだ。
リアの寝息が俺の首筋に触れ、その重みを背中に感じながら、俺は一歩一歩、宿へと足を向けた。
静かな夜道に、俺たちの足音だけがリズムを刻んでいた。
宿に着くまで、俺は何も言わず、ただ背中のリアが揺れないようにと意識しながら歩き続けた。




