第5話 試練
「僕の記憶を……消す、って?」
突如告げられた記憶消去という言葉に、頬を冷や汗が伝った。
人の記憶を消すなんて、常識で考えればあり得ない。
昨日までの僕ならそう思うし、絶対に言った。
けど、目の前にいる真奈ちゃんは魔族で、ここは魔界で、今日一日で僕は自分の常識が粉々に砕かれる光景を嫌というほど見てきた。
そんな僕の心を見透かしたように、真奈ちゃんは頷いた。
「大体察してるみたいだね。そう。今まで空想だと思ってたものが実在したんだから、他にも信じられないものがあってもおかしくないと思わない?」
悪戯っぽく真奈ちゃんが微笑むと、人差し指で僕の額を押す。
「やっぱり……あるんだね―――魔法も」
「あるよ。魔法も、この世界にちゃんと存在している」
真奈ちゃんは妖しく微笑みながら言う。
その瞬間、僕の身体が二つの意味で震えた。
一つは、幼い頃に夢見て、成長するにつれて諦めたものが本当に存在していたという歓喜。
魔法が本当にあるなら、普段の僕なら絶対に目を輝かせていたと思う。
でも、もう一つは恐怖だった。
その魔法で、僕の記憶が消されるかもしれない。
その事実が、胸の奥を冷たく締めつけてくる。
「へえ。意外と反応が薄いんだね」
「……そうだね。これが記憶を消されるって状況じゃなかったら、たぶん子供みたいにはしゃいでたと思う」
皮肉混じりに返すと、真奈ちゃんは少しだけ困ったように頬を掻いた。
「まあ、なんにせよ――これで私と颯ちゃんの関係は終わり」
「……え?」
真奈ちゃんは静かに続ける。
「颯ちゃんの記憶から、私のことも、魔界で見聞きしたことも、全部消させてもらうよ」
「真奈ちゃんとの記憶もって……」
胸の奥がざわついた。
「それって、今日のことだけじゃなくて……今まで関わってきたこと全部ってこと……?」
「そうだよ」
真奈ちゃんは迷いなく頷いた。
「今日のことだけ消したって、また似たようなことが起きる気がするからね。だったら、私との繋がりごと綺麗に消しておいた方がいい。私たちの関係を知ってる人たちにも、追って同じ処置をするつもり」
何を言っているのか、一瞬理解できなかった。
僕の記憶だけじゃなくて、僕と真奈ちゃんの関係そのものを、なかったことにするなんて。
真奈ちゃんが、ゆっくりと手を持ち上げ、その指先が、僕の額へ近づいてくる。
「ま、待ってよ!」
僕は一歩後ずさる。
「どうして僕の記憶を消す必要があるのかな!? もし魔界とか魔族の存在が知られるのが都合悪いっていうなら、僕は絶対に口外しない! もう関わろうともしないから!」
「それでもだよ」
取り繕う僕を振り払うような冷たい声だった。
「世の中には、知ったままでいない方がいいことだってある。人間として普通に生きるなら、なおさらね」
何も言い返せなかった。
人間は本来、魔族の存在を知らない。
17年生きてきた僕は当然知らなかった。
それが、魔族が闇に紛れて生きる種族だからなのか。
それとも、知った人間が例外なく記憶を消されるからなのか。
でも、この記憶を抱えたまま人間界へ戻れば、いつか僕はまた魔界に近づこうとしてしまうかもしれない。
僕は自分で言うのもなんだけど、物分かりが良い方ではない。
けど……それでもあんまり過ぎる。
「我儘を言いたくなる気持ちは分かる。だけど、ごめん……。私は、颯ちゃんには普通に生きていてほしいんだ」
その時、僕は気づいた。
額に向けて差し出された真奈ちゃんの手が、かすかに震えていることに。
僕の記憶を消すことに、迷っていて、苦しんでくれてるのか……。
そう思った瞬間、胸の奥が締めつけられた。
「魔王様。お辛いようでしたら、私が代わりに」
ホロウさんが一歩前に出る。
けれど、真奈ちゃんは首を横に振った。
「大丈夫だよ、ホロウ。私が蒔いた種だからね。私がケジメをつけるのが筋だよ」
一度瞼を閉じて、真奈ちゃんは小さく息を吐く。
そして、覚悟を固めたように目を開いた。
「ごめんね、颯ちゃん」
まるで、自分に言い聞かせるような、小さな謝罪だった。
その温かな手が、僕の額に触れる。
真奈ちゃんが僕のことを考えてくれているのは分かる。
僕を危険から遠ざけようとしているのも分かる。
だから、ここで黙って受け入れるのが正しいのかもしれない。
けれど―――――それでも。
納得なんて、できるはずがなかった。
「……嫌だ」
真奈ちゃんの指先が、僕の額に触れたまま止まる。
「そう簡単に受け入れられるわけがない」
記憶を消されるのが怖い。
自分の知らないところで、自分の中から何かを奪われるのが怖い。
でも、それ以上に。
「真奈ちゃんのことを忘れるなんて、嫌だ」
真奈ちゃんの表情が、わずかに揺れる。
「颯ちゃん。それは――」
「分かってるよ!」
僕は遮るように言った。
「真奈ちゃんが僕のことを考えてくれてるのは分かる。僕が知ってたら危ないってことも、たぶん分かる。普通に生きた方がいいっていうのも、分かるよ」
分かってる。
僕は弱い。魔族と比べたら簡単に吹き飛ぶ程の脆弱さ。
今日だって、変な男に襲われて、あっさり死にかけた。
そんな僕が、魔界だの魔王だのに関わるなんて、身の程知らずにもほどがある。
普通に考えれば、真奈ちゃんの言うことが正しい。でも。
「僕にとって、真奈ちゃんとの記憶は……そんな簡単に消していいものじゃない」
真奈ちゃんと初めて出会った日から、今日までの記憶が過る。
確かに恋人らしい事はできなかった。それでも、幸せだった、嬉しかった。
今日だって、死にかけた。それでも、全部が全部、不幸だったなんて思わない。
好きな人のことを、少しだけ知れた気がしたから。
「真奈ちゃんを好きになったことまで、なかったことにされたくない!」
僕は強く拳を握る。
「真奈ちゃん。分相応で何を言ってるんだって思うけど、僕を……君の傍に置いてくれないかな! 魔王である君の傍に!」
僕は言った。強く、真っすぐに。
「私の傍に……って。つまり、魔界に残りたいってこと?」
真奈ちゃんは困惑した様子で尋ねるが、僕は口にしない。
だけど、真奈ちゃんから目を逸らさなかった。
真奈ちゃんは、喉を鳴らす。
「バカじゃないの……颯ちゃんは?」
絞り出した様な声だった。
その声には怒りだけじゃない。
呆れと、困惑と、そして痛みみたいなものが混じっていた。
「颯ちゃんは、公園での出来事を忘れたのかな!?」
真奈ちゃんの表情が険しくなる。
「あの時、颯ちゃんは死にかけたんだよ? 魔族の戦いに巻き込まれたら、人間なんて簡単に壊れる。今日だって、私が少しでも遅れていたら、颯ちゃんはここにいなかった!」
真奈ちゃんの声が、部屋に鋭く響く。
僕は公園での出来事を思い出し震える。
塞がったとはいえ、傷は今でも疼く。
真奈ちゃんが助けてくれなかったら、彼女の言う通りこの場に僕はいない。
「それは……分かってるよ!」
「分かってない!」
真奈ちゃんは即座に否定する。
「分かってたら、そんなこと言えるはずがない! 魔界に残る? 私の傍にいる? そんなの、颯ちゃんが思ってるほど綺麗な話じゃない!」
真奈ちゃんの瞳が揺れていた。
「颯ちゃんは、魔界の怖さを知らない。魔族の怖さも、魔王の周りにいる連中の危なさも知らない。私を狙う者たちが、どれだけ容赦ないかも知らない。知らないから、そんなことが言えるんだよ」
何も言い返せなかった。
それは事実や正論を言われてもあった。
けど……一番は、真奈ちゃんから感じる優しさだった。
真奈ちゃんは僕を拒絶して突き放しているんじゃない。
僕に傷ついてほしくない。生きていて欲しいっていう願いを感じた。
「……やっぱり、駄目なのかな……」
僕は絞り出すように言った。
「危ないって言われても、怖いって分かっても……真奈ちゃんのことを忘れて、何も知らないまま普通に生きるなんて、僕にはできない」
僕は……今日ほど弱い自分を恨んだことはない。
「真奈ちゃんは、僕のためだって言う。普通に生きてほしいって言う。それは分かる。嬉しいよ。僕のことを考えてくれてるんだって、ちゃんと分かってる」
僕に力があれば……こんなみっともなく縋るような事を言わなくて済んだのに。
「真奈ちゃんは、僕から君の記憶を消して……本当に平気なの?」
僕は卑怯だった。
これはただ、真奈ちゃんを困らせるだけ……って、そんなわけないか。
真奈ちゃんはにとって僕は、そこまで思われるような相手じゃ――――
「―――平気なわけないよ!」
真奈ちゃんは、叫ぶように言った。
その瞬間、僕は言葉を失った。
それは、僕の心を否定してくれってのもあった。
けど、それよりも真奈ちゃんの顔が、泣きそうに歪んでいたからだ。
「平気なわけないよ……!」
声が震えている。
「颯ちゃんと過ごした時間を、私だってなかったことになんかしたくない。颯ちゃんが私を好きだって言ってくれたことも、私を見て笑ってくれたことも、忘れてほしいわけじゃない」
真奈ちゃんの指先が、ぎゅっと握られる。
「でも、それでも……颯ちゃんが死ぬよりは、ずっといい」
その言葉は、重かった。
「私のせいで颯ちゃんが傷つくくらいなら、私のことなんて忘れてくれた方がいい。私の知らないところで普通に笑って、普通に学校へ行って、普通に年を取ってくれた方がいい」
僕の胸が締めつけられる。
「だから……お願いだから、分かってよ」
真奈ちゃんは苦しそうにそう言った。
その姿を見て、僕は何も言えなくなった。
僕は忘れたくない。
真奈ちゃんも、本当は忘れてほしくない。
なのに、真奈ちゃんは僕を守るために、僕との関係を終わらせようとしている。
どちらも譲れない。
……けど、これ以上真奈ちゃんを困らすのは僕のエゴだった。
だから受け入れよう。そう思った時。
ホロウさんが僕たちの間に出る。
「魔王様。このままでは平行線かと存じます」
「……ホロウ」
ホロウさんは僕と真奈ちゃんを交互に見る。
「立花様のお気持ちも、魔王様のお考えも、どちらも理解できます。ですが、互いに感情だけで押し通そうとすれば、どちらかに苦い後悔が残るだけです」
鎧の中で、淡い水色の光が静かに揺れていた。
「ならば、ここは一つ。立花様に現実を見ていただくのがよろしいかと」
「現実を見せる……って、どういうこと?」
真奈ちゃんが眉を寄せる。
ホロウさんは、僕の方へ向き直った。
「簡単な話です。立花様は、魔族の怖さを真の意味では理解しておられません」
「……それは」
「責めているわけではございません。実際に触れなければ分からないこともあります。ですが、分からぬまま覚悟だけを口にするのは、危険です」
その言葉は冷静だった。
だけど、胸に刺さった。
僕はまだ、魔族の恐ろしさを少し軽視していたかもしれない。
真奈ちゃんの傍にいるということが、どれだけ無謀なことなのか。
「ですので、私が身に沁みさせましょう」
ホロウさんが、僕へ向き直る。
「立花様―――私と一度、手合わせをしてください」
「手合わせ……?」
思わず聞き返した。
手合わせって……つまり、戦うということだろうか。
僕が、この鎧の人と?
なにを言ってるんだ。
「条件は簡単です。立花様が私に一撃でも与えることができたなら、魔界への滞在を許可する。そういう形ではいかがでしょうか、魔王様」
「ホロウ、それは……」
真奈ちゃんは迷うように僕を見る。
当然だ。
僕はただの高校生だ。
相手は見るからに強そうな鎧の魔族。
勝負になるわけがない。
けれど、ホロウさんは静かに続ける。
「立花様。貴方がどれほど無謀なことを口にしているのか。まずは現実を知ってください。その上で、なお魔界に残りたいと仰るのなら、魔王様も改めて判断できるはずです。逆に、受ける気がないのであれば――」
ホロウさんの声が、少しだけ厳しくなる。
「これ以上、魔王様を困らせず、記憶を消して人間界へお戻りください」
ホロウさんから圧し潰すような気魄を感じる。
手合わせを受けるなら手加減はしない。覚悟しろと言わんばかり。
……多分。これで僕が折れて記憶を消すのに同意させる魂胆だったのか。
真奈ちゃんも、不安そうに僕を見ている。
勝ち目がない。ただ無駄に怪我をするだけだから。
そう言いたげな目だ。当たり前か。
喧嘩なんてろくにしたことがない僕が、いきなり人間と違う生物と戦えなんて馬鹿げてる。
馬鹿げてるけど。ここで逃げたら、僕は自分に嘘を吐くことになる。
真奈ちゃんの傍にいたいなんて、二度と言えないだろ。
「……ありがとうございます」
僕はホロウさんに頭を下げた。
「正直、これ以上真奈ちゃんを困らせるのは忍びなかったです」
顔を上げる。
「これは僕にとって渡りに船なので、ありがたい提案です」
怖くないわけがない。
勝てる気もしない。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
「勿論、受けます」
僕は拳を握り、真っすぐホロウさんを見た。
「僕が魔界に残る資格があるかどうか、是非テストしてください!」
僕の本気を、認めさせてみせる。




