11話(前編)
「うん。久しぶり……。」
片腕をギュッと握ってから言う力ない言葉。彼女が話す時のいつもの癖だ。
靄が薄くかかっている。
ここはまるでこの世ともあの世とも思えない、その中間のような中間でもないようなよく分からない雰囲気がある。
「……私達のこと、まだ恨んでる?」
私も同じように力ない言葉。
それに対して首を横に振られた。
「恨んだこと……一度もない。」
「そうなの?」
「ただ玲は、今の自分を理解してくれる仲間が欲しかった……だけ。思い続けたら……力が溢れた。」
「そうだったんだね。」
ずっと彼女の怒りや怨みから来る憎悪が呪いになったのだと思っていた。だから、これは罪を起こした罰なんだと思っていた。
ある意味――愛憎だ。
愛があるからこそ、同じになって欲しい。同じ憂い目に合わせたい怨念的な思考とは違う。ずっと後者だと思っていた。勘違いだったみたいだ。
「あの時はずっと虐げられてたもんね。愛したいのに愛せない。とっても辛いことだったと思う。……だよね?」
トーンは一定。静かに話されるその言葉。静かな木々の揺れる音、さざめき。
「うん。」
「私も最近になって初めて愛したいのに愛せない辛さを知ったよ……。生きる価値が分からなくなる気持ちってあんなに辛いんだね。」
今なら彼女のことを理解できる気がする。
徐々に近づいてくる距離。怖くもない私はそれを受け入れている。
「呪いは無くせるの?」
「……ごめん、無理。この力は自分じゃ制御できない。」
その言葉に嘘はないことが分かった。
「玲ちゃんは、理解してくれる仲間を増やして何かしたいことはあるの?」
「……ない。ただ、近くにいてくれるだけで……いい。」
「一人ぼっちは寂しいしね。辛いもんね。」
中学生に上がって孤独に不利益を被っていた。その時の負に耐えられなかったのだろう。それに気づいても気づかないフリをして強者側についたのは紛れもない事実。だから、今だけは気づかないフリはしたくない。
私は高校生だ。選挙権もある。一般的には大人だ。
彼女はまさに中学生だ。そこで全てが止まっている。孤独のまま時計の針も止まったみたいだ。
「安心しなよ。私がいるからさ。」
その言葉を優しく投げかけることしかできなかった。
「ありがとう」と返される。
私は踵を返して彼女に背を向けた。そして、ゆっくりと腰を下ろす。荷物からスケッチブックを取り出した。
「私、絵描きなんだ。絵を描くことが生きる価値なんだ。」
白紙のページを埋める彼女の自宅で描かれた絵達。さらに、そこに絵を埋めようと鉛筆を持った。
「描かせてくれない、玲ちゃんの絵。」
「……うん。いいよ。」
彼女の気持ちを理解した今、新たな視点からスケッチをしていく。彼女はそれを背後から面白そうに見ている。
一枚捲って白紙のページ。
ふとチラッとだけ振り向くと少し柔らかい表情が見えた。
「ねぇ、一緒に絵を描く?」
「……いいの?」
「当たり前じゃない。それに、そっちの方がいいのかもね。」
「……どういうこと?」
「玲ちゃんって話すの苦手じゃない。幽霊だから文字もかけない。だから、一緒に絵を描くことで会話するの。」
呆れられたかのように「……無理じゃない?」と放たれる。普通の反応ではある。
大切な人から貰った受け売りの言葉があった。それがあるからこそ、こんな提案ができたのだ。
「絵は伝える手段。コミュニケーション手段は言葉や文字だけじゃなくていい。他にも沢山あって、その一つに絵があるの。絵による会話に必要なのは伝えようとする心と読み取ろうとする心があれば問題ない。会話に理屈は必要ないからね。」
「そういうもの……なのかな……。」
「そういうもんだよ。」
簡単な質問をしてそれを受けて絵を描く。
目の前にある風景で最初に目に入ったものは何か。茶色い木、揺れる紅葉になりかけている緑葉。それとも地面に生える一面の草っ原かも知れない。「靄……かな?」との問い。薄くかかる白い靄だったか。靄を表現するために、長い芯を横向きにして背景にし、練り消しで雰囲気を作っていく。
それを繰り返してスケッチの数を増やしていった。
「ここの色、何色にする?」
「紫色……かな。」
「やっぱりね。そうだと思った。」
繰り返す内に内面を理解している気になれた。繋がってる感じがした。ふと横を向くと微笑む玲ちゃんがいた。確かに以心伝心している。そう感じている。
それなりに時間が経った。
「明日もさ、ここにいる?」
「……うん。」
「今日は帰るね。また明日ね。」
「うん。……待ってる。」
柔らかい言葉だ。この日の初めの変動のない言葉も、今となっては生きている人の言葉に感じる。温かい感覚を受ける。
私達を手を振り合った。
そこから離れると霧は消えて、薄暗くなりつつある外へと歩を出す。振り返るとそこには何にもないただの林が広がっているだけだった。まるで先程の出来事が嘘だと言いたげの姿を見せつけている。
――――――
現代文と体育とコミュニケーション英語の共通科目。それだけは避けては通れない。ただ赤点さえ取らなければいいので、何にも問題ない。
美術系の授業が幾つかある。それらの時間は基美術部の顧問の先生とワンツーマンでの絵の授業である。受講者が私一人のみだから当然だ。
やるべき事をしつつも、ひたすら絵の技術を上げる。
帰ったら予備校へ。絵の上達のためにここでもひたすら絵を描く。
余った時間はバイトがある。親のいない私は少しでもお金を稼がなきゃならない。
その中でようやく取れた余暇。
気分は咬ませ犬の武者震い。赤黄に輝く森の中へと進んでいく。
「お待たせ。」
「待ってたよ。」
「今日も描こうか。」
持ってきたキャンパスを取り出す。誰も近寄れない霧に隠れて私達はひたすら絵を描いていた。何度も何度も失敗した。その度にスケッチブックにメモを取り直した。
「キリがないよね。完成しても何か違うって思うんだよね。」
「……分かる。その気持ち。」
「でしょ!」
気晴らしに地面に寝転ぶ。遠近法で描かれる眼の中の紅葉。ヒラヒラと落ちる銀杏の葉が優しく触れる。
「絵って……こんなに楽しいんだね。」
「そうなの。絵って、人と人を繋ぐ不思議な力があるからさ、繋がって、楽しさを共有して、こんなにも楽しいって伝えられて嬉しいよ。」
特別な時間だ。
絵以外何も無かった私にとってこの時間だけは責務から逃れて心から楽しめる幸福の時間だった。
感じ取る純粋な気持ち。私は玲ちゃんを特別な存在のように思い初めていた。それと同様に、彼女もまた私のことを特別な存在として思っていることをひしひしと感じる。絵という対話ツールがそれを伝えてくれている。
日めくりカレンダーをペラペラと捲るように。月日もペラペラと捲られていく。
外を眺めれば秋のくすんだカラーは冬の強めの単色へと変わりつつある。冬という強めの色が顔をはっきり濃く映し出す。イエベの春タイプの私には苦手な色だ。まだブルベでもソフトなカラーの夏の方が映える。
あれから玲ちゃんとの共同作業は続いた。終わりも見え始めた最中、明日からテスト週間という鬼門にぶち当たることになり、一時的に離れ離れになることになった。
コミュニケーション英語のテストが返された。三十二点。無事赤点を回避した。現代文や保健体育は問題なく終える。美術の科目はテストがなく、生物や地学も問題なく突破した。ようやく胸を張って玲ちゃんに会いに行ける。
枯葉になりつつある木。裸になってしまった木。それでも下の雑草は根気強く生きて行く手を阻む。物の怪の類の力もあるのか、お陰様で誰にも邪魔されずに大切な時間を過ごすことが出来ている。
「お待たせ。無事、テスト終わったよ。」
「……お疲れ様。」
「コミュ英、三十二点! 後、三点低かったらヤバかったよ。」
気楽に話す。彼女も軽やかに口を抑えて笑っている。あまり感情に出すタイプではないけど、感情はしっかりと持っている。私にはそれをしっかりと感じ取れる。
後もう少しでお気に入りになる作品が完成しそうだった。
「後少しだね。」
「うん。ここから追い込みだよ。」
私達は袖を捲った。玲ちゃんも捲った。絵を描かない彼女がそれをする必要はない。けれども、捲った。なぜなら、私達は心を通じ合わせているからだ。私はそう断言できる。
さて、私は筆を取り出した。
私達の生き様を、全てを、絵にぶつけるだけだ。
――――――
冬休みに入り、休みも増えた。即ち二人の時間も相対的に増えた。
何度も何度も塗りたくられたキャンパス。完成したその作品はどこか光を放っているように思えた。
タイトルは『中西玲と小蓬愛南』である。二人で作った合作だった。
呪いの影響を受けていないからこそ、人の絵を描ける。私の瞳に映る玲ちゃんの姿。私達の大切な時間を切り取る鏡に映る私一人の楽しそうな姿。この二人を絵に込めた。
私達の世界は霧のかかった暗い世界だ。明るい物語は歩んでいない。お互いに愛したくても愛せない不運を背負った運命。それを暗い背景と、全てを覆う霧で表現した。
だからと言って、暗い色だけを使った訳でもない。渋谷の早朝が青く見えたのなら青く描いていいように、私達も私達の見える景色を形式に囚われずに忠実に再現した。
人の絵はあるが、基本的には自分や玲ちゃんを人間以外で表現した私にとって一番の力作だった。
はっきりと映る二人と覆う闇。きっと見てる人は吸い込まれるような体験をするだろう。まあ、単なる自画自賛な自己評価にしか過ぎないが……。
私達は喜びあった。その時間が長く続けばいいと思った。
それと同時に感じる虚無感。この心寂しさは何なのだろうか。
「もう……お別れなの?」
それを聞いて、すぐにこの虚無感の正体が分かった。玲ちゃんと離れ離れになると思ったことによる感情みたいだ。
私がここに残る理由は一つもない。だけど「お別れは……嫌だな。だって、玲ちゃんは大切な――」そこで私の言葉は途切れた。ある感情が支配したからだ。
もしかしたら彼女なら……。
「私達で愛し合わない?」
「それって――。」
「カップルにならない?」
きっと私達ならカップルななれそうな気がした。もちろん確証は一つもない。けど、直感がそう伝えてくる。
「嬉しい。だって……玲も愛南さんのこと――」
「好きになっちゃった?」
「……うん。」
私達は手を出しあった。何も無い場所で手と手が触れ合う。そんな感覚がした。――いや、触れ合った。
刹那。
この世で感じたことのない悪寒がする。身の毛がよだつ。さらに鳥肌が気持ち悪く触れまくられる最悪の感触。心だけが凝縮し冷たくなろうとすることで、違和感を起こして吐き気を催す感覚。
今、私は、川の中に足を踏み入れている。彼岸花の咲き誇る花園に囲まれた川だ。川に浸かる足の感覚はこの世のものではない感覚だ。
今、一瞬だけ目の前に広がるこの世のものではない景色。崩れた均衡。地獄でもあり天国でもある。一つ言えるのは現世ではないということ。
体の外側が熱くなる。なのに、体の内側はまるで南極に服も着ずに立っているかの如くの冷気を感じている。
このままだと死んでしまう。死にたくない。本能がそう叫んでいる。それ以外、何も感じられない。
私は距離を置いていた。いつの間にか息を切らしている。悪寒が止まらない。
周りを見渡すとそこは霧に囲まれた林の中だった。
「ごめん。返事はまた後日でいい?」
「……うん。」それは少し寂しいような言葉だ。
「大丈夫。必ずまた来るから。」
「玲はここで……待ってるから。必ず……来て。」
「分かった。また、来るね。」
私は笑顔を取り繕って、にこやかに手を振ってその場から離れた。枯葉を身につける木々を過ぎて凍てつく空下へと出た。
――――――
私は久しぶりに湯船に浸かった。けれども、お湯は熱々のはずなのに体は未だに震えている。
初めから不可能な恋なのだ。私は人間で、彼女は幽霊。幽霊の中でも怨念のような呪いを発動できる悪霊に近いのかも知れない。
幽霊と恋に落ちる代償は大きい。その代償とは命であり、きっと恋で結ばれた瞬間に死んでしまうだろう。
未だにあの悪寒戦慄が忘れられない。体が今でも覚えている。
風呂場を出る。冬の寒さが家の中でも遺憾無く発揮している。
少ししてから、私はキャンパスを飾りに向かう。一枚ずつ揃った絵を見て力を貰う。そこでようやく心の震えも落ち着いた。
様々な思い出が呼び起こされていく。私という歴史を振り返っていく。
そして、私が今やるべき事が見えてきた。
家の窓の向こう側に映るのは真っ暗な夜景。首の角度を上げれば美しく地球を照らす星々。幾星霜、人間を輝かせてくれている。
次の日、私は学校を休んで例の山へとやってきた。そう、玲の山だ。彼女を知らない人からすれば霊の山だ。
「お待たせ。」
笑顔を取り戻した彼女が現れる。そして、浮き足立つような表情で「返事……」と小さく呟いていた。
「今は付き合えない。――やるべき事が残っているから。」
「えっ――。」
瞳には動揺する彼女の姿が映っていた。冬のせいからかさっきよりも寒気を感じ始めた。




