9話(前編)
蝉が鳴き始めた。煩わしい音の滝。それが夏の時期を思わせる。それでもまだ本夏は来ていない。真夏となれば蝉は黙り、熱気で空気がねじ曲がる。まだまだ気温上昇すると思うと末恐ろしく思う。
廊下にあるパーテーション。教室には沢山のダンボールと散らかった絵の具。それと全力で文化祭準備に取り組もうと熱意の目をした人々。
私達の学級では『間違い探し×脱出ゲーム』の企画準備を行っている。パーテーションなどで教室を四つの区画に分けて、殆ど同じ模様に見えるAの部屋とBの部屋の違いを全て見つけて門番に言い正解すると次に進める。今度はBの部屋とCの部屋。最後にCの部屋とDの部屋の違いを見つけ出してゴールとなる。それを時間制限内に行うという演し物であった。
私は美術部ということもあり模様係となった。いわゆる準備班だ。門番係や受付係、呼び込み係などの当日班はここには来ていない。ここにいるのは準備班――の一部である。運動部や吹奏楽部は部活で忙しいので仕方ない。
「ひとまずこれだけ運べばいいよな。」
乾を初めとする三人の雑用係がダンボールを持ってきてくれた。
しかし、乾はバスケットボール部であり、忙しいはずなのに、こんな所にいて本当に良いのだろうか。
「俺もコイツも当分の間、部活にゃ行けねぇのよ。暇してっから、頼ってくれや。」
そう言うのは確かバスケ部の同じクラスの子だ。
「いやぁ、気持ちはバスケなんすけどねぇ。」
どういうことなのだろうか。
「俺ら赤点組はさぁ、顧問から補習終わるまで来んなって言われとんのよ。」
あっ――。
その子は自信満々に言う。その後ろから、その男子の彼女と噂の子がペットボトルで頭を軽く叩き「ばーかっ。それは自慢げに言うもんじゃないだろ」とどついていた。それを受けて仲良く馴れ合っている。
そのまま二人でいちゃつくように物運びを始めた。
胸の中で少しわだかまりができた。味もしないそれはなんと言う気持ちなのだろうか。どうしてか、ズルいなんて思ってしまう。私だって呪いさえなければ、という気持ちが現れたり消えたりしてくる。
ため息を飲み込んだ。誰もいなければ吐いているだろうけど、ここには他にも人がいる。
その気持ちを押し殺して目の前のすべきことに集中する。ダンボールに絵を描いていく。イメージは自然っぽい家の中。緑色を混ぜて塗り重ねていく。茶色が見えなくなっていく。
「ねぇ、こここの紺、これの色でいいんじゃない?」
紺色の絵の具で塗る。
話しながら着実に完成へと向かっていく。
もう夕方。なのにまだ暑い。
オレンジ色に変わることもなく未だに明るい空だ。夜が短くなっている証拠だった。
バスに揺らめきながら、隣には彼がいる。
「補習の監督の先生、主任だったんすよ。鬼怖ぇ~。マジでヤバいっす。」
泣き言を垂れている。まあ、私も赤点ギリ回避の民であり、コミュニケーション英語のテストで一つか二つ間違えれば赤点だったので、人のことは言えなかった。
バスから降りた。ようやく少しオレンジ色が見え始めた。
「ねぇ、乾……。」
「ん。なんだ?」
カバンに付けた白い鯨のキーホルダーが揺れている。
「何でもない。」
「なんだそりゃ。」
本当はもっと心の距離を近めたい。恋人にならなくてもいい。だから、できるだけ近づけたい。けれども、どこからが消滅範囲なのか分からないからこそ、近づけない。できて現状維持。それどころか恐怖心から少し距離を離そうと考えている自分さえいる。つまり、少なくとも私には二つの考えが巡っている。まさに迷走だ。
人一人分離れた隙間。私は一人で車道と歩道の間にある段差を真っ直ぐ歩いていた。歩道側に倒れかけながらもバランスを取って進んでいく。
段差が途絶えた。
ほんの少しだけ歩道側へと寄った。車道側では車がスッと通り過ぎていった。
――――――
大量の皿が流し台に置かれている。
蛇口を捻り水を出しっぱなしにして、皿の汚れを落としていく。洗剤で綺麗にする必要はない。ただこびり付いた汚れを落とすだけ。落とし終えたら洗浄機の所に並べていく。
皿が機械によって洗われて綺麗になったらしっかりと吹いて元に戻す。皿洗いが終わればキッチンの手伝い。簡単な料理を調理していく。
どうしても人手が足りない時はホールにも出る。知人がいないことを祈りながら料理を提供していく。
凪海高校ではアルバイト禁止である。校則として髪は明るくなり過ぎなければ染めていいなど、時代に適応して少しだけ緩い側面もあるものの、バイトは禁止されている。なのに今、私はバイトをしている。つまり、バレたらいけないことなのだ。
しかし、お金は稼がないといけない。親がいない今、実際は貯金だけで数年ぐらいは暮らしてはいけるものの、自分自身の生活費は稼がないといけないと思っている。食費、光熱費、水道代、数えたらキリがない。
学校が始まればバイトもそこまでシフトに入れなくなる。そう、稼げなくなるのだ。だからこそ、夏休みの間に少しでも働いてお金を稼がなければならない。遊ぶ時間も遊ぶ費用も今は無視。生きるためには遊びは犠牲にしなければならない。
唯一の救いは、夏休みの間の文化祭準備だ。それが私にとって唯一の遊びだった。
「愛南さん、ホールに行って貰える?」
少し厳しい店長の一声で私は裏方から表へ。そして、料理を運ぶ。
「お待たせしました。こちらハンバーグナポ――」と言いかけた時、客がこちらを見る。
「あれ、小蓬くんでは?」
「げ、先生――。」
ちょっとだけ年配者の現代文の先生だった。
ベルの音が鳴る。「伺います」と言ってそそくさとその場を離れた。
後日、私は職員室に呼ばれた。
憂鬱な気持ちで入る。きっと怒られるんだろうな。そこにいたのは担任の先生だった。覚悟して姿勢を正す。
融通が効いた。なんとバイトを認められることになった。さらには、奨学金制度を利用できることになった。なぜ早くに申請しないのか、聞かれたが答えられなかった。
唯一無二の希望感情。まさか怒られることもなくトントン拍子に金銭的工面ができるとは。
譲られた情けも振り返って見ればいたたまれない。早くに申請しなかったのは紛れもなく、その頃には両親がいたからだ。そのことを思い出されると、私の心の中に虚しさが溢れ出してくる。
幽影なびく時間。夕色で影が目立つ。せっかく立ち直れたのに、また後ろを振り向いて落ちていくのは良くないな、そう思って後ろを振り向きたい意識に対抗していく。
夕焼け小焼け。私は前を向いてゆっくりと帰宅した。
◆
夏休みも終わり、二学期に入った。
「最後に、これを飾り付けて終わりね。」
文化祭一日目。生徒会発表や吹奏楽部の発表を体育館で聞いていく。遥陽ちゃんが一生懸命盛り上げようとしている姿が目に映った。申し訳ないけど、他の生徒会メンバーは私の目には映らなかった。
壁に飾られたモザイクアート。私もその内の一画角の絵を担当した。美術部全員で描いたアートだ。
その日の文化祭は半日で終わり、後は二日目の文化祭のための準備だ。
廊下側の窓が外されて、そこから大きめなパーテーションが教室に入れられる。大変な重労働だ。
運び終えたそれに黒いカーテンをつける。
その後は組み立て式のプラモデルみたいにくっつけるだけ。私はCの部屋の組み立てを手伝った。適当に駄弁りながら丁寧につけていく。この部屋を丁寧、丁寧、丁寧に描いていく。
「これで完成!」
パッと見、殆ど同じ見た目の部屋が四つ完成した。森の自然が見える家の中を再現した部屋だ。しかし、一つ一つの置かれた物や絵の中にどこか三つだけ隣の部屋と違う箇所がある。
「後は、どれだけ人気になるかだね。」
文化祭への意気込みはばっちり。明日が楽しみになった。
鮮やかな太陽の光が注いでいた。
夏の熱気を運ぶ風が残暑の厳しさを教えてくれる。
――――――
昨日の熱気はまだ序の口だと言うことを今更気付かされた。一年生の頃は初めての文化祭だったこともあるのか、そこまでの盛り上がりを感じなかった。今年の秋は違う。凄まじい熱気だ。よく見ると人でごった返す。
私達の教室の前には沢山の参加希望者が並んでいる。私は廊下の道を開けたり隣のクラスに迷惑をかけないようにしたりするためにその列を整備するお手伝いをした。元々の役割の人だけでは足りないぐらいの大盛況ぶりだ。
時間制限があり、手短に楽しめる娯楽ではあるものの、一組ずつしかプレイできないと言うこともあり、どうしようもなく待たせることになる。
「これだけ人気なら二年生の演し物の中でもトップになれそうじゃない?」
私達は一人一枚のアンケート用紙を貰っている。そこには自分以外のクラスで面白かった演し物に丸をつける。それが集計されて後日、文化祭のランキングが発表される。私達の演し物がそれで優秀賞受賞も狙えるんじゃないかと淡い期待を持った。
友達同士のフォーマンセルペアが楽しそうに出ていく。
カップルと思しきペアがイチャつきながら出ていく。
それを見ると心の中で隠してきた思いが溢れそうになる。目を瞑ってそれを押さえつける。
今は呪いもそれによる嫉妬も感じじゃ駄目だ。今はなにより文化祭に集中しないと。
タオルで汗を拭う。ただ、ここにいるだけで人の熱気だけで汗をかいてしまう。
それなりに人も減ってきた。時計を見ると十時半を回っている。
「愛南ちゃん、お手伝いありがとね。」
私の出番は終わったみたいだ。後は文化祭を精一杯楽しむだけだ。
暇そうに欠伸をして教室付近でボーっとしている乾がいる。手伝っているつもりだろうが、この人が減った状況下ではそこまで役に立っていなさそうだ。
「じゃあ、乾、行くよ。」
乾を連れていき、遥陽ちゃんと合流した。
三人で演し物を回ることにした。
外で食べ物が売っている。食べ物の演し物のために私は弁当を持ってきていない。
「俺が奢るわ。何、食べたい?」
そこにあるのはかき氷、イカ焼き、焼きトウモロコシ。「じゃあかき氷にします。」「私はイカ焼き。」「すると俺は間を取って焼きトウモロコシっすね。」
そんな言葉に「わざわざ間を取らないでも」とツッコむ。彼はそのまま敢行して焼きトウモロコシ、イカ焼き、かき氷を購入した。
「いやぁ、俺って太っ腹っすね。」
「言わなきゃカッコよかったのになー。」
端っこの植木付近で適当に腰を下ろしてそれを食べていく。何を話したかすぐに忘れて覚えられないようなどうでもいい話をしながらそれぞれの食べ物を食べていく。
遥陽ちゃんはすぐに食べないと溶けてしまうのでさっと食べ終えていた。「頭がキーンとします」と期待していたリアクションに笑ってしまった。
口の中に濃厚なタレが流し込まれる。噛めば噛むほどに味が広がっていく。半分ぐらい食べるとイカが真ん中にだけ残る。とっても食べにくい。そのまま食べれば先に串が喉を突き刺す。仕方なく横から食べる。けれども、気をつけないと串が頬に当たって汚れてしまう。あっ、髪が口の中に入った。食べるのに夢中で顔を横向けてた。仕方ない、普通に後で拭こう。そのままガッツリ噛み締めた。
「次、どこ行く?」
「お化け屋敷とかどうっすか?」
「殺されたいんですか?」
ははは、と苦笑い。お化け屋敷……ではなく、謎解き脱出ゲームへと参加した。流石三年生の演し物だ。クオリティが半端なく高い。それなりの列を待った甲斐がある。
しかし、残り一つの謎だけが解けない。
「分かったっす。これ、最初のヒントを使うんすよ。」
四つめの謎を最初の問題のヒントを用いて解いていく。その考え方は正解だった。
「やっぱり時には振り返って考えるのも大事なんすよ。初心に帰るっすね。」
「なんか……悔しいですわね。」
「そうだね。」
初心に帰るか。大事な言葉だな、と思った。
無事に教室から脱出することができた。
「では、私はクラスの方の仕事がありますので。これで。」
遥陽ちゃんは爽やかにその場から離脱した。
取り残された二人で文化祭を巡ることにした。まだまだ昼になったばっかり。巡る演し物はまだまだ沢山。
二人で巡る文化祭。
あれっ。これでデートじゃない?
押し寄せる呪いの不安。
「きっと大丈夫――。」
「どうしたんだ?」
「ううん。なんでもない。」
私と乾はパンフレットを見た。
きっと大丈夫なはず、そう言い聞かせて、私はこの文化祭の熱気に乗っかっていく。一線さえ超えなければ、きっと大丈夫。




