56 妻と母
アノスタコビッチ城にアリシアの乗ったドラゴンが舞い降りたのは、センドラが到着するわずか4時間前のことであった。
センドラは領堺のアノスタコビッチ軍に使者を送り届けたあと、そのまま真っ直ぐに城を目指したのである。
リリアナを連れてこい——というガルディーの密命を受けている。
‥‥‥が、わずかにアリシアの方が早かった。
そのアリシア。
ここで半年以上護衛を務めてきたアリシアにとって、城は自分の庭のようなものだ。どこに誰がいて、どんな警備がなされているかもわかっている。
アナスタシア嬢の母リリアナは北の『二つ破風館』にいる。
城のはずれでアナスタシア嬢の部屋のある館に近く、第三婦人と呼ばれるわりには控えめで小さな館だ。
他の婦人たちの館のようにいくつもの尖り屋根があるものではなく、納屋のような単純な屋根の館で、破風(切妻屋根の妻側に付く板)が前後2組しかないのでその名前で呼ばれている。
出自が卑しいからこうなったとも、本人の好みでそのように普請されたとも噂されるが、本当のところは定かではない。
ただ落ち着いた風情で、まわりの木々ともよく調和してはいた。
リリアナの護衛はアリシアより1つ年上の16歳のトトラ・カルーネンという青年だった。
腕はそこそこ立つが、頭は切れる方ではない。
「アリシアじゃないか。どうしたんだ? アナスタシア嬢の護衛は今日は非番なのか?」
「母君をお護りするように命じられました。」
ウソをついた。半分だけ。
アナスタシアお嬢様からではなく、フェール公爵からの依頼だ。
アリシアは後ろ手で扉を閉める。
リリアナが不安そうな目でアリシアを見た。何か不穏なことが起こっている——とこの勘のいい婦人は気がついたようだ。
「ガルディー卿が王都でクーデターを起こしました。」
「はあ?」
声を上げたのはトトラである。
リリアナは片手で口を押さえただけで、顔色を失った。
「アナスタシアお嬢様は、それを阻止せんと2万のカルホース軍を率いて王都でガルディー卿と対峙しています。まだその報はここにまでは届いていませんか?」
「アリシア‥‥おまえ、何を言ってるんだ?」
ぽかんとした顔のトトラに対して、リリアナ婦人は顔面を蒼白にしながらも声を絞り出した。
「夫と‥‥‥娘が‥‥? 戦うというのですか? それは、本当のことなのですか?」
「はい。」
とだけアリシアは答える。
「お母上の御身が危険なので、お護りしてアナスタシアお嬢様のお味方のフェール公爵のお城にお連れするようにということでございます。」
「な‥‥なんで、リリアナ様が危険になるのだ? ここは王都からは随分距離があるぞ?」
トトラはまだ理解できないようだ。
「わたしと一緒においでください。ドラゴンを1匹、お借りしております。」
「ちょっと待てよ、アリシア。なんでリリアナ様が危険になるんだ?」
アリシアはリリアナをちらと見た。さすがにこの夫人は聡明で、これだけで事態を覚ったようだった。
トトラだけが間の抜けた護衛の姿勢をとっている。
アリシアはトトラにも理解させるため、簡潔に話すことにした。
「アナスタシアお嬢様の勢いを削ぐため、ガルディー卿はお母上を人質にとると思われます。今のままではガルディー卿は劣勢ですから。」
「はあ? 自分の妻を‥‥? そんなことを‥‥‥」
「しない人だと思いますか?」
リリアナが小さく首を振った。
「もしガルディー卿が敗れましたら、恐れながらリリアナ様は謀反者の妻として‥‥‥」
さすがにアリシアもそれ以上ははっきり口にすることを恐れた。
「ですから‥‥フェール公爵の庇護下に入ることが必要です。」
沈黙が流れた。
ややあって、リリアナがか細い声をあげた。
しかし、その目の中には怯えではないものが見える。
「わたくしは‥‥‥あの人の‥‥ガルディーの、妻です。」
血の気を失った顔を真っ直ぐ上げた。
「あの人1人を逝かせるわけには‥‥‥」
「それではアナスタシアお嬢様が負けるかもしれません。ガルディー卿はアナスタシアお嬢様を確実に殺しますよ? ヴァイオレット嬢にさえ毒を盛ろうとした人なのです。」
初めて。
リリアナの瞳に怯えが現れた。
視線を床に落とし、背を丸めてうつむいてしまう。
「わ‥‥わたくしは‥‥‥どうすれば‥‥‥」
この夫人は今、この時代の価値観と娘を思う母の気持ちとの間で揺れているのだ——とアリシアは思った。
ここ数ヶ月のアナスタシアお嬢様との暮らしがなければ、自分もおそらくそうであろうとも思う。
アリシアはもうひと押し時代の価値の言葉で押した。
「お嬢様はリリアナ様の娘です。血のつながった唯一のお嬢様です。カシャーグの血を受け継ぐ——。」
暗に、リリアナ様とガルディーには血のつながりはない、と言っている。




