50 カルホースの進軍
「軍勢は俺が率いてゆく。」
父レグルスが言ったのはそれだけだった。
そんな‥‥‥。
いきなり家督を譲るとか言われても‥‥。カルホース家を率いろと言われても‥‥。
そりゃあこの世界の僕は成人した16歳ではあるけれど‥‥。この世界で生きてゆく知識はあるにはあるけれど‥‥。
意識の半分はただの高校生だぞ?
「アナスタシア嬢は? もうお休みになられたか?」
エイドリアンは父の部屋から出ると近習にそう言った。
杏奈に‥‥、アナスタシアにも相談してみなければ‥‥。
* * *
「アリシアどの。これから宮殿にまいります。」
朝早く使者らしき人がフェール公爵邸に飛び込んできてすぐ、フェール伯爵がアリシアに話しかけた。
「では護衛を?」
「いや、その必要はありません。護衛は別の者を連れて行きます。それよりもアリシアどのは家族たちを守ってやってもらえませんかな。」
「?」
「もはや刺客を送る時期は過ぎたでしょうが、念のために。そうそう、カルホースの軍勢が動き出したそうですぞ。」
フェール卿の表情はやや嬉しそうに見えたが、アリシアには何を言っているのかがよくわからない。
軍勢が動いた——というだけで、それはフェール卿の思惑どおりということなのだろうか‥‥。
アリシアの諜報ではガルディー卿からもカルホース領の方に向けて使者が送られたようだった。
当然その内容はアノスタコビッチに味方せよ——というものに違いない。その要請に応じてカルホース卿が動いたのかもしれないではないか。
先ほどの使者は、カルホース卿がフェール卿に味方すると言ってきた使者だったんだろうか?
お嬢様が説得に成功したのだろうか?
* * *
カルホースの軍は王都に向けて進んでいる。
その数、呼称で2万。
この時代の地方領主の軍勢としてはかなり大きい。
戦もない王国の中で、これほどの軍勢を動かすことの不穏さはどうだ。
まだカルホースの領内のこととはいえ、本来ならば王から不審を詰問する使者が出てもよさそうなものだ。
しかしカルホースの進軍にはそうした使者は現れなかった。
王家は沈黙している。
もっとも王都における王直属の軍など5千ほどでしかない。咎めたところで、現実に止める手立てがない。むしろ怒りを買うだけになるかもしれない。
それで黙っているしかないのではないか。
そんなふうにウワサするものもあれば、いやいや2万の動員力を持つフェール侯爵も沈黙している。実はカルホースはフェール公爵がアノスタコビッチに対抗するため呼んだのではないか。そんな穿った見方をする者もあった。
諸侯は固唾を呑んでカルホースの動きを見守っている。
アノスタコビッチかフェールか‥‥。どちらにつくべきか? それはカルホースの進軍意図が何であるかにかかっているだろう。
アノスタコビッチも自家だけで3万を動員できる力を持っている‥‥が、カルホースの兵は強い。カルホースの兵千人は、都でナマった兵の2千人分かそれ以上の働きをすると言われていた。
カルホースはどちらに味方するのか‥‥?
「なに、不逞の輩を退治て王都の治安を守るためにわしが呼んだのよ。」
アノスタコビッチ卿はそう嘯いているらしい。
が‥‥、軍を率いるカルホース卿は、その軍事目的を自軍の兵にも一切言わないようなのだ。それが諸侯の旗幟を迷わせている。
カルホース軍はいよいよ自領を出て他領に入った。
もちろん先ぶれの使いはその地の領主に出してある。
「王都へまいります。領内の通過をお許し願いたい。」
何のために? と問い糺す諸侯はいない。
単独でカルホースに対峙できるような者は、アノスタコビッチ伯爵かフェール公爵くらいのものだからである。
カルホース軍2万を率いているのは、レグルス・カルホース卿その人であった。
馬を打たせてゆくレグルス卿の威風堂々とした勇姿は、遠目でもあれがその人であると諸人でさえわかった。
そのレグルス卿が馬周りの兵の中に妙な少年兵が混じっているのに気がついたのは、他侯の領に軍が入ってからだった。
兵士というには体つきが華奢すぎる。
粗末な一兵卒の格好で頭に汚れたような布を巻きつけ、ややうつむき加減に馬の少し後方をついてくる。
レグルスは馬の速度を落とした。
すると、その少年兵も歩く速度を落とす。
明らかに怪しい。間諜か? あるいはカルーネンか?
レグルスはくるりと馬の向きを変えると、剣を抜いた。
周りの兵が驚いて隊列を乱す中、その少年兵だけが取り残されたように棒立ちになった。
レグルスの剣の切先がその者の顔先に突きつけられた。
「何者だ! おま‥‥‥」
そこまで言ったところでレグルスは目を剥いた。
その兵が顔を上げてまっすぐにレグルスの顔を見たからである。
「そ‥‥そなたは! アナスタシア嬢? な‥‥なぜ、こんなところにいる?」




