36 疑惑
シエン・イヴァーシナ卿(マイアのお父さんで麻耶のお兄さん)が動いてくれたことで、2つのことが大きく動き出した。
1つはヴァイオレット嬢があの鮮やかな食器セットを使うことをやめたこと。
そしてもう1つは、フェール公爵のお館に浄化槽を作る依頼が舞い込んだこと。
「え? 公爵家のお庭に?」
「ついでに営業してきましたよ。」
マイアを訪ねてきていたわたしに、シエン卿が冗談めかしたような笑顔で言った。マイアが嬉しそうに親指を立てる。
「この話は公式にはイヴァーシナ家がフェール公爵から請け負ったということになっていますが、実質は君たち3人のものです。特にアナスタシア様、あなたは主任技術者として工事を監修してほしいのです。」
なんか‥‥これはすごいことになった‥‥。
それはともかく‥‥
「あの‥‥、シエン卿‥‥。わたしに『様』をおつけになるのは‥‥。シエン卿はマイアのお父様であらせられますし、わたし年下ですし‥‥21世紀から転生されたのならおわかりになると思いますけど‥‥なんだか居心地悪くて‥‥。」
「すみませんね。私は7歳で転生して、こちらの生活が長いものですから。ここの文化が染みついてしまっていまして‥‥。アナスタシア様と私では身分が違いますので‥‥。お許しください。」
いや‥‥そんな‥‥。許すとか‥‥。
そうですよね‥‥。文化の違いですもんね‥‥。すみません、わがまま言って。
そんなわたしの表情を見たのか、シエン卿は話題を変えた。
「マイアが言っていたように、うちに水洗トイレも作ろうと思います。椅子型の大型陶器を焼く工人を今探させています。アナスタシア様には設計をお願いできますか?」
「え? わたし?」
「マイアから聞きました。桶に汲んだ川の水を流すだけでもいけそうだと。それならば、この世界の技術でもできそうですよね? 上手く行ったら、公爵家を通して王に献上してみようかとも話しているんですよ。」
いや‥‥なんか、急に話が大きくなったぞ?
王様に献上って‥‥。そんなの、わたしが設計するの?
「7歳でこちらに来た私にとっても、水洗トイレは夢でしたからね。」
そう言ってシエン男爵は嬉しそうに笑ってから、ぐいと表情を引き締めた。
「マイア。アナスタシア様。王国の衛生環境を劇的に変えますぞ!」
ノって来たねぇ。お兄ちゃん。
そしてもうひとつの問題。
ヴァイオレット嬢の食器問題に関しては、一応「アノスタコビッチ卿もご存知なかったのでしょう。なにぶん遠い異国の技術の話ですから」という言い方にしておいたそうだが、その後ヴァイオレット嬢はアノスタコビッチ家の大宴会には全く出なくなったというから、毒を盛られたという疑惑を持ったことは明らかだった。
なんといってもヴァイオレット嬢は王太子妃の座をめぐるナルツィセお姉様のライバルなのだ。
それはとりもなおさず、アノスタコビッチの方も疑惑を持った——ということでもある。
誰が‥‥フェール公爵に入れ知恵したのか?
アノスタコビッチは、それを探ろうとしているのは間違いない。
「簡単にお嬢様やイヴァーシナ卿にたどり着くことはないでしょうが、用心に越したことはありません。」
アリシアはそんなふうに言って、シンシアにも家内の噂を集めるように頼んだ。
貴族の社会は、21世紀のわたしなんかが想像していたよりはるかにいやらしい世界だった。
権力闘争に欲や嫉妬があからさまに絡み合い、理性よりも感情が先に立ってどろどろのバトルが水面下で繰り広げられている。
ときにそのゲームは、下々の者の命を駒にする。あの陶工や兵士たち、そして陰に生きるカルーネンも。
「アリシア‥‥」
「はい。」
わたしはアリシアの背中に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「な‥‥何を‥‥お嬢様?」
今きっと赤くなってるよね? アリシア。
わたしの今の気分は、そんなんじゃなく‥‥
「いつか‥‥、きっとあなたを買い取るから‥‥。それまで絶対死んだりしないでね。」
今は、わたしが動かせるお金はないけれど‥‥。いつか‥‥‥




