30 暗闇の戦闘
恐ろしい使い手だ。
アリシアの背中に冷たい汗がにじむ。
殺気が変化する。
殺しにきているのに殺気が、ふい、と弱まったり、かと思えば激しい殺気と共に刃があらぬ方向から襲いかかってくる。
この男は、殺気そのものをコントロールすることで相手を撹乱するという高度な技を持っているようであった。
使い手であるほど、これは撹乱されやすい。
わずかでも気をゆるめれば、そのフェイントに騙されて刃の餌食になるであろう。
全身の神経を研ぎ澄ませて、殺気と実際の身体の動きのズレを補正しつつ戦わねばならない。
ギン!
再び闇の中で火花が散る。
男の動きには無駄がない。年季が違う——というべきか。
その影は素早い動きをしているようには見えないのに、的確にアリシアの身体をとらえてくる。
一方のアリシアは野生動物のようにすばしっこい。
男の刃がその小さな影を斬った、と思った瞬間にアリシアの身体はそこにはない。奇妙な形に身体を捻って、紙一重でその刃をかわしている。
アリシアには、他のカルーネンにはない特殊な才能があった。
人間の身体には400を超える筋肉がある。
もちろんこの時代そんな知識は誰にもないが、アリシアには感覚的に今自分が全身の筋肉のどこをどのように動かしているのかが分かるようであった。
それが、この暗殺者としてもトップクラスのカルーネンの男の攻撃をかわし、あまつさえ、そいつの生命に幾度とない危機を訪れさせていた。
「できるな、おまえ。なんという名前だ?」
男の影が刃の手を緩めることなく聞く。
アリシアは答えない。答える必要もない。
名前など‥‥残そうとは思わない。
陰から陰に生きるカルーネンに、表立った名前など必要ない。
ただ、今ここで目の前のカルーネンの息の根を止めるのみ。仕えるお嬢様のために。
そもそも、声を出せば女であることがわかってしまう。わかれば身元が特定されるかもしれない。この近くには、ただ観測しているだけのカルーネンもいる可能性だってあるのだ。
アリシアはそう考えている。
そもそも相手の強さのために、声を出せるほどの余裕すらなかった。
2つの影は静かに、しかし激しく、命の削り合いを演じている。
片や、年季を積んで研ぎ澄まされた無駄のない動き。
片や、相手の意表をつく見たこともない動き。
2つの異質な動きをする影が、時おり刃と刃のぶつかり合う火花を散らして暗がりの中を動き回っている。
その目的は、互いに相手の生命を奪い取ること——。
知らない者が見れば、その路地の闇溜まりに魔物がいると思ったであろう。
どちらも声を発しない。
魔物の唸る声さえしない。
ただ、影と影とが交差し、ときに火花が散った。
ピシッ! と皮膚の切れる音がした。
石の壁に、草の穂のような血の痕が着く。
それは赤くはなく黒い。
暗がりの中だからなのか、それともカルーネンの血は黒いのだろうか。
* * *
アナスタシアは待っている。
不安な夜を明かして、日が高くなってもなお待ち続けている。
まだ13歳の少女は窓に乗せた両腕に小さな顎を乗せて、不安そうな目をしたままお城から王都の方に続く道をずっと眺めている。
「お嬢様。」
お茶を淹れて持ってきたシンシアがそんな少女に声をかける。
「お茶をお入れしました‥‥。」
少女は唇を血が滲むほどに噛んでいる。その瞳は今にも泣き出しそうだ。
「こんなに‥‥遅れることなんて‥‥今までなかった‥‥」
王都へ続く道には多くの人が行き来している。しかしそこに、アリシアらしき姿は見えない。
「大丈夫ですよ、お嬢様。アリシアなんですから。何かつかみかけたから、もう1日余分に滞在しただけでしょう。少しはお休みになった方が‥‥」
だが、日が西に傾きかけても‥‥アリシアの姿は見られなかった。




