第8話 山積みの申請書と、神様を救う条件
「い……印鑑で、戦うの?」
雪哉が振り返った。
「法令を執行するための道具だ。武器ではない」
「でも今——殴ってませんでした?」
「……物理的な執行も、職務の範囲内だ」
桃果がまじまじと雪哉を見た。
「でもかっこよかった!」
雪哉の動きが、止まった。
「……職務だからな」
前を向いたまま言った。
でも——耳の先が、わずかに白かった。
朔がこっそり桃果に耳打ちした。
「照れてるよね、今」
「そこ、聞こえている」
朔がのんびりと壁にもたれている。
「……朔」
「はい」
「なぜお前は動かなかった」
「雪哉さんが来たんで大丈夫かなって」
「お前も鎮守庁の執行官だ。印を持っているだろう」
「持ってますよ」
「なぜ使わない」
「使う機会がなかったので。雪哉さんが全部片付けちゃったでしょ?」
雪哉が深く息を吸う。
「一人で対処していたら万が一ということもある。規則では複数人での——」
「でも終わりましたよね?」
「……」
ぴくり、とこめかみが動いたのを見た桃果が
朔に小声で話しかける。
「ねぇ、朔も印鑑持ってるの?」
「一応。でも使うの面倒くさいんですよね、法令の文言覚えないといけないし」
「職場の規則じゃないの?」
「まあ……」
「聞こえているぞ!」
雪哉が改めて朔と向き合う。
「それと先月の件だ」
「先月?」
「境の付近で妖怪を無断で印封した件。事後報告で済ませたあの件だ」
「あー……あれは緊急だったんで」
「緊急でも上司への事前報告は規則だ」
「雪哉さん捕まらなかったんで」
「私が捕まるかどうかの問題ではない」
「結果オーライじゃないですか」
「……」
三本目の青筋を立てた雪哉は
左手で自分の顔を抑えるや深く溜息を付いた。
「お前と話していると頭が痛くなる」
「それは体質だと思いますー!」
桃果がおろおろしながら二人を見ている。
「あの……仲、悪いの?」
「え?悪くないよ?」
「悪くはないが良くもない」
「酷っ!」
雪哉が桃果に向き直る。
表情がわずかに——本当にわずかに——柔らかくなる。
「鬼灯桃果。鎮守庁として、貴女を正式に保護したい。幽世に滞在する間、貴女の身の安全を保障する」
「……ありがとうございます」
「ただし」そう雪哉は一拍置く。
「規則に従ってもらう。勝手な行動は控えること。鎮守庁の指示に従うこと。幽世の法令を遵守すること」
「……わかりました」
雪哉が満足そうに頷く。
「でも、おにちゃん、おにぎり屋やりたいって言ってましたよね」
「何?」
「え、ええ。帰る方法を探しながら、幽世でおにぎり屋をやろうかなって」
「……それは規則の範囲内かどうか確認が必要だ」
「またそれー!」
「当然だ。鎮守庁の保護対象が営業活動を行う場合、申請書類が——」
「書類仕事好きですよね雪哉さん」
「好きではない。必要だからやっている」
「顔が生き生きしてますよ」
「していない」
桃果が小さく笑って二人が同時に桃果を見た。
「ごめん、なんか……安心した」
「……何がだ」
「なんか、この世界も普通だなって思って」
雪哉が少し間を置く。
「……幽世も、普通に生きている者の方が多いからな」
それだけ言って、視線を逸らす雪哉の耳の先が
ほんのり白く——冷えたように見えた。
* * *
数日後。
桃果と朔が石造りの鎮守庁の総管理部。
窓口に足を運んだ。
桃果と朔が並んでカウンターの前に立っていると
カウンターの向こうに、雪哉がいたのを見つけた。
そして——カウンターの上には、書類の山があった
。
「まずは営業許可申請書。それから現世からの食材持ち込み申告書。幽世滞在者による商業活動届。あと、現世由来物品の安全性証明書——」
一枚ずつ、淡々と積み上げられ山が高くなっていく。
「……以上だ」
「……これ全部ですか?」
「全部だ」
桃果が一枚目を手に取る。
細かい文字がびっしり並んでいた。
桃果の顔が少しずつ青くなっていく。
朔も書類の山をざっと眺めて、遠い目をして答うた。
「相変わらずだな、雪哉さんは」
「何か言ったか?」
「いいえ、何も~」
「規則は絶対だ。特に鬼灯の娘が幽世で商売をするとなれば——前例がないからな」 「前例がないなら書類も少なくていいんじゃ」
「前例がないからこそ、書類が多くなる」
「……そういうもんですか」
「そういうものだ」
「営業許可申請書」から始まり、
桃果が現世から持ってきてしまった
一つのおにぎりの為の
「食材持ち込み申告書」など、
山のような書類を突きつけられ、
朔が呆れながら書類を見ていた。
桃果が黙々と書類を書き続けること、およそ二時間。
ようやく最後の一枚を書き終えた桃果が
「できました」と差し出した瞬間——
「……最後に一つ」
「え」
「これだけは書類で解決できない課題がある」
「……まだあるんですか?」
これには朔の耳がぺたんと伏せる中、
雪哉が資料を広げる。
幽世の地図。都の外れに、赤い印がついている。
「幽世の境が閉じられている影響で、都の霊的な循環が滞っている。その結果——一部の土地神が、黒い霞に侵食されている」
「黒い霞……穢れのこと?」
この間、狐の子が黒い霧に足を掴まれていたのを思い出した。
「そうだ。近隣の社に祀られている古い土地神が、今まさにその状態にある」
そう雪哉は地図の赤い印を指で示す。
「この神を浄化できなければ——」
一拍置く。
「鬼灯桃果の力は、制御不能な危険物と見なされる。営業許可ではなく……永久的な保護の対象になる」
「そんな……」
「永久的な保護って、要するに——」
「隔離だ」
桃果が書き上げたばかりの書類を見つめる。
「……その神様を、助けられれば許可は下りる」
「なら、行きます!」
迷いがなかった。二人が桃果を見た。
「だって放っておけないじゃないですか。神様が苦しんでるんでしょ?」




