第6話 結び飯と、管理者の来訪
楽しい時はあっと言う間に過ぎ、
市場の外れは夕暮れ時になっていた。
朔と並んで歩きながら。桃果は問いかける。
「ねえ朔、私——どうやって現世に帰れるの?」
帰り道。 朔が何気なく聞いた。
「現世に、友達いるの?」
「いるよ」
即答しようとした。
声が出た。「いる」という言葉は出た。
でも——その先が、来なかった。
桃果は歩きながら、記憶を手繰った。
笑顔が浮かんだ。声も浮かんだ。
昆布マヨの入ったおにぎりを
一口食べて目を丸くしたあの顔。
おにちゃん、って呼ぶあの声。
ちゃんと浮かんでいる。
ちゃんとそこにいる——はずなのに。
(……名前)
名前を、呼ぼうとした。呼べなかった。霧だった。
名前があった場所が——霧に包まれていた。
昨日まで、何の気なしに呼んでいた名前のはずだった。
クラスで隣の席で、毎日話していた。それなのに。
(なんで)
呼ぼうとするたびに、霧が濃くなる。形はある。
音の輪郭のようなものはある。でも掴もうとすると——
するりと、霧の中に沈んでいく。
「おにちゃん?」
朔の声が聞こえた。
「止まってどうしたんですか」
桃果は足が止まっていたことに気づいた。
石畳の上で立ったまま、自分の手を見ていた。
手が、震えていた。
「……なんでもない」
笑おうとした。
うまくできたかどうかわからなかった。
「友達、いるよ。たくさん」
声が、少しだけ、掠れた。
朔は何も言わなかった。ただ少し前を向いたまま——
歩くのが、ほんの少しだけ、遅くなった。
(……やっぱり、この子も始まってる。早く境を開けなきゃ)
朔の横顔が、いつもより硬かったが
桃果はそれに気づかなかった。
気づかないまま、もう一度だけ——
心の中で名前を呼ぼうとした。
霧だった。また、霧だった。
桃果の背中を見ながら、朔は前を向いた。
「……境を使えば帰れる。でも今は」
「その境って……今は?」
「残念だけど都の境が、全部封じられてる。穢れた気も出てきてるのもその所為と言われてて」
桃果が眼を見開いて立ち止まる。
「最近の話だけど何者かが幽世の境を一つずつ潰してる。だから迷い込んだ人間も帰れなくて——」
言いかけて、朔が口を閉じる。
「じゃあ……私を落とした衝撃で、境が一個壊れただけでそれ以前から、誰かが封じてたってこと?」
「頭いいですね」
「全然嬉しくない」
桃果は溜息と共に頭を抱えた。
夕暮れ色に染まる幽世の都。桃果は空を見上げる。
現世の空より星が多い。
(帰れない。すぐには、帰れない。でも——)
そっとポケットに手を突っ込んだ。
ポケットに転がっているおにぎりを包んでいた
アルミホイルがまだ少し温かい。
ふと、桃果に閃き一つ輝いた。
「朔くん、ここで暮らすなら——おにぎり屋、できるかな」
「……は?」
この手で!と桃果は朔に両手をみせた。
驚いた朔が数秒、耳をぴんと立てて桃果を見つめる。
それから——少し呆れたように笑う。
「……正気じゃないなぁ。変わってるって言われません?」
「よく言われる。ここで妖怪も人間も色んな穢れをおにぎりで落として境を修復するの!どう?」
「おにぎりで境を修復出来るか分かりませんがでもまあ——結び飯が使えるなら、客は来るでしょうね」
「でしょ!じゃあ早速、おにぎり屋、開こう!注文を聞いてから握るから出来立てのおにぎりを食べてもらおう!」
幽世に、桃果のおにぎり屋が開く。
それが人気の店になるのはもう少し経ってからの事。
* * *
次の日は早朝から騒がしくなった。
早朝の鎮守庁は都の中心に建つ、
洋風と和風が混在した石造りの建物だ。
正面には大きな鳥居が立ち、
その奥にアーチ型の玄関が続いている。
早朝でも庁内には明かりが灯り、
妖怪たちが忙しなく行き来している。
廊下の奥の執務室。書類が整然と積まれた机の前に、
一人の青年が座っていた。白い髪。切れ長の瞳。
鎮守庁の制服——
紺色の詰め襟に白い帯が隙なく着こなされている。
机の上の書類には細かい文字がびっしりと書き込まれていて、
青年はそれを黙々と確認していた。
鎮守庁・総管理部所長:雪男の雪哉だった。
早朝の静寂を破るように、廊下から足音が響いてきた。
慌ただしい小刻みな足音が所長室に向かうやいなや、
小柄の体格には難しそうな大きな扉が勢いよく開いた。
「雪哉様っ!大変で御座います!」
現れたのは小柄な雪だるまの精だった。
丸い体を揺らしながら息を切らして
溶けかけた小さな手がぶるぶると震えている。
雪哉は書類から目を上げたが表情は動かない。
「騒々しい。何があった」
「それが……その……」
「早く言え」
部下が深呼吸する。
「幽世に……人間が落ちて来ただと、報告が入りまして!」
雪哉の手が止まった。
「……何?」
初めて、わずかに眉が動く。
「人間が幽世に落ちてきた?」
「は、はい!」
「馬鹿を言うな。現在の境は原因不明で全て閉じられている筈だ。人間が落ちてくる経路など——」
「そ、それが……」
部下の丸い体がさらに縮こまる。
「落ちて来たのは……鬼灯家の娘、で御座います!」
沈黙。執務室の時計が、かちりと音を立て
雪哉がゆっくりと立ち上がる。
「……もう一度言え」
「鬼灯家の娘、です。間違いないと」
「鬼灯の——」
雪哉が窓の外を見る。夜明け前の幽世の都。
まだ暗い空に、提灯の明かりが点々と続いている。
(鬼灯家。現世と幽世の境を守ってきた一族。その娘が——よりによってこの時期に)
境が全て閉じられているこの時期に。
しかも警戒している影が幽世に忍び込んでいるこの時期に。
「……なんと」
小さく、しかし確かに呟く。
「これは一刻も早く向かわなければ」
制服の襟を正して、机の引き出しから
印鑑と書類を取り出す。手早くサインをして部下に押し付ける。
「その娘は何処にいる」
「は、はい!朔様の家で御座います!」
雪哉の手が一瞬止まる。
「……朔の、家だと?」
微妙な間。
「御存知ですか?」
「知っている。幽世中に顔が利くくせに規則を守らない、あの狗賓だ」
言いながら上着を羽織る。動作に一切の無駄がない。
「あの犬の所か」
低く、どこか含みのある声で呟く。
「……行こう」
部下が慌てて後を追う。廊下を歩く雪哉の足音は速く、乱れがない。
「あの、雪哉様——鬼灯家の娘をどうなさるおつもりで?」
雪哉は前を向いたまま答える。
「保護する。それが鎮守庁の務めだ……それと、境が閉じられた原因の調査を急げ。鬼灯の娘が幽世に落ちたのは偶然ではないはずだ」
「は、はい!」
雪哉が玄関を抜ける。
朝の冷たい空気の中、白い息が一筋流れる。
(鬼灯 桃果……か)
名前を、頭の中で確認するように繰り返す。
鎮守庁の記録に必ずある苗字。幽世の歴史書に刻まれた一族の名前。
(落ちて来たのは一体どんな娘だ……)
そんな桃果は帰ってきた朔の家の窓から
朝の都を眺めながら昨日持ち帰ってきた焼き草餅を食べている。
朔が呆れ顔で横に立っていた。
「昨日屋台で沢山食べただろ?朝から甘いのなんて良く食えるなこんなに……」
「そ?甘いのは別腹……かな?」
鎮守庁が慌ただしくなっているのは
自分の所為だと知らず、笑顔でそう笑っていた。




