第5話 鬼灯の結び飯、穢れを解く温もり
幼い狐の子が、石畳の上にうずくまっている。
足に絡みついているのは——霧ではなかった。
霧より質量がある。霧より意志がある。
黒い糸のようなものが、子供の足首に幾重にも巻きついて、
じわじわと、ゆっくりと——締めている。
狐の子の爪が石畳を引っ掻いた跡が白く残っていた。
どれだけの時間、ここにいたのか。
周りの妖怪たちは見えている。見えているのに近づかない。
視線だけが流れていく。波が引くように。
「……放っておけない」
声に出して、初めて気づいた。もう、足が動いていた。
「大丈夫? 足、どうしたの?」
しゃがんで顔を覗き込むと、狐の子の目に涙が溜まっていた。
零れる寸前の、ぎりぎりのところで堪えている。
「……痛い。取れないぃ……」
黒い靄に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、絡みつこうとする感触があった。
冷たい。体温を吸い取るような冷たさ。
桃果は手を引かなかった。
(どうすれば——)
考えるより先に、手がポケットの中へ入っていた。
指先が、アルミホイルに触れた。
夜中に目が覚めて、なんとなく握ったやつ。
具材の中身は鮭。授業中こっそり食べようと思って
スカートのポケットに忍ばせていたのを忘れていた。
でも——ある。取り出して、両手で包んだ。
その瞬間。何かが、桃果の中で——止まった。
市場の音が遠くなった。
妖怪たちのざわめきが潮が引くように薄れていく。
石畳の硬さも黒い靄の冷気も、全部が——遠い。
近いのは、これだけだった。両手の中の、おにぎり一個。
(握り直そう)
理由はなかった。でも、そう思った。
アルミホイルから溢れた米の白さが、
薄暗い市場の光の中に現れた。
形は悪くない。でも——違う。今はこれじゃない。
塩をつける手がない。水もない。でも桃果の手のひらには、
今朝からずっと米を触り続けてきた感触が残っていた。
厨房の湿気。飯台の木の匂い。
炊き立ての蒸気が顔にかかる温かさ。両手で、包む。
一回目。形を確かめる。
二回目。力を込める。
三回目——
(……婆ちゃん)
唐突に、浮かんだ。
死ぬ三日前に握ってくれた、最後の一個。
冷めているのに、ずっと温かい気がした。
あれはなんだったのか。
米の温度じゃない。塩の加減でもない。
あの温かさは——どこから来ていたのか。
ずっと、わからなかった。わからないまま、
今日まで握り続けてきた。
(届いてほしいって、思ってたんだ。婆ちゃんだったらどうするかわかってる!)
気づいた瞬間、手が——熱くなった。
熱い、ではなかった。
正確には。満ちてくる、という感覚だった。
手のひらの奥から、じわりと何かが湧いてくる。
水が地面に染み出すように。光が夜明けに空へ滲むように。
じわり、じわりと——満ちてくる。
桃果は目を細めた。
手の中のおにぎりが光っていた。
白い光ではなかった。
炊き立ての湯気に光が差し込んだような温かい色だった。
輪郭から滲むように広がる。
桃果の指の間から漏れ、石畳を照らして——
香りが、変わった。市場の煙の匂いが消えた。
甘い蜜の香りが消えた。代わりに漂ってきたのは——
炊き立ての米の匂いだった。
塩の、きりりとした清潔な匂い。
それから……釣りたての鮭の懐かしい匂いから
焼き立ての香ばしい匂いに変わっていった。
鮭の身から滴る脂が米に染み込み、
熱で香りが膨らむ様子が広がって行く様だった。
どこにでもある匂い。毎朝、厨房で嗅いでいた匂い。
でも今は——その匂いが、
喉の奥まで届くような気がした。
空腹のときに嗅ぐより、もっと深いところへ。
「……ねえ、これ食べられる?」
狐の子に差し出した手が震えていた。怖いからではない。
力が溢れすぎて、手が追いつかないような——
そんな震えだった。
狐の子がおにぎりを見て目が大きく開いた。
涙が溜まったまま、ぱちぱちと瞬きをしながら
光るおにぎりを、じっと見た。
それから——恐る恐る、小さな手が伸びてきた。
恐る恐る……ひとくち。
小さな口の中で、温かいご飯の甘さが広がった瞬間——
狐の子の肩が、ふっと落ちた。
張り詰めていた何かが解けるように。
もう一口、今度は迷わずかじる。
鮭の甘い脂がほろほろと解けて米粒の甘みと混ざり合い、
ただの食べ物のはずなのに——喉の奥まで温かさが降りていく。
パチン。
音はしなかった。でも確かに、何かが弾けた。
黒い靄が——震えた。細い糸のような輪郭がぶれ、
ぐにゃりと歪んでそれから——弾けた。
音もなく。跡形もなく。
狐の子の足首が、石畳の上に、ただ、あった。
「おいしい……」
泣き顔のまま、笑った。涙が一粒、零れた。
笑顔からこぼれ落ちた涙だった。
桃果は息を吐いた。手のひらの光が、ゆっくりと消えていく。
熱が、引いていく。残ったのは——普通の手だった。
米を握り続けてきた、少し荒れた、普通の手。
でも指先が、まだ——温かかった。
婆ちゃんのおにぎりが、なぜあんなに温かかったのか。
今なら、少しだけ——わかる気がした。
市場が、静まり返っていた。
「……今の、何したんだ?」
朔も屋台から振り返って、
目を見開いていたが桃果はと言うと……
さっきまで確かに光っていた自分の手を見ていた。
「わからない。でも——なんか、握り直したくなっちゃって」
朔がゆっくりと桃果に近づいた時には軽薄な表情が消えていた。
「……鬼灯の娘が幽世に来て、力まで使ったのか」
そんな朔の呟きに周りの妖怪たちがざわめき始める。
「今の見たか」
「一瞬で穢れが祓われた……おにぎり一個でか?」
「鬼灯の——結び飯だ」
結び飯。桃果は初めてその言葉を聞いた。




