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第47話 橙色が紡いでくれた、炊き立ての気配

桃果が手の甲で頬を拭った。濡れていた。

いつから泣いていたのか分からないくらい涙が出ていることに

気がつかなかった。


(——なんで泣いてるんだろ、私)


でもわからなかった。何が悲しいのか。何を失ったのか。

ただ——胸の奥に、大きな穴が開いている気がした。

何かがそこにあったはずで、それが今はない。

もう一度、頬を拭う。また濡れた。

涙が止まらなかった。


狐の女の子がおにぎりを両手で抱えたまま桃果をじっと見ていた。

橙色の耳が静かに揺れていた。その目が——不思議なほど、優しかった。

子供の目じゃない感じがする……と桃果は思った。

もっと遠くを見てきたような、まるで長い時間を知っているような、深い目だった。


「思い出せそう?」

「何を思い出せばいいのかも……わからない」

「……そう」


女の子は、それだけ言った。責めない。急かさない。

ただ——そうか、と受け取るように言った。その時だった。


声が——聞こえた。

どこからか。店の外からか。もっと遠くからか。

距離がわからない。でも確かに聞こえた。

誰かの……名前を呼んでいた。


『——桃果』


(——え)


『桃果!!』


もう一つの声。こっちは近い。

必死で、少し高くて、どこか軽いはずなのに今だけ必死な声。


(——知ってる)


『桃果。聞こえるか。——聞こえているなら、返事をしろ』


三つ目の声。低い。静かで、でも静けさの奥に鉄のような硬さがある声。


(——知ってる、この声。絶対に知ってる——)


胸の穴が、疼いた。

何かが、そこに戻ってこようとしていた。


「——桃果」


今度は目の前から聞こえた。

狐の女の子が、桃果の名前を呼んでいた。


「……私の、名前」

「そう。あなたの名前は、桃果」


桃果は、ゆっくりと自分の手を見た。

何度も米を握ってきた手。現世でも、幽世でも——


(——幽世)


言葉が、戻ってきた。

幽世。朔。雪哉。鎮守庁。結び飯。土地神。穢れ。境。

全部が——一度に、流れ込んできた。


「あっ……」


桃果の膝が震えた。カウンターに手をついて支える。


「思い出した……私、思い出した——!」


(朔くん。雪哉さん。私は幽世にいて、おにぎり屋を開いてて……それから――)


「よかった」


狐の女の子が、言った。

ほっとしたように。でもどこか——最初からわかっていたように。

桃果が顔を上げると、女の子が微笑んでいた。

橙色の耳が、柔らかく揺れていた。


「帰ろう。桃果ちゃん」


その呼び方に、桃果の手が止まった。


「……ちゃん?」

「皆が待ってるわよ」


その口調だった。


子供の口調じゃなかった。

もっと——もっと、長い時間をかけて桃果を見てきたような、

ずっと側で見守ってきたような、そういう声だった。

桃果は、女の子の目を見た。

橙色の耳。白い毛並み。着物の裾が長い。尻尾がゆっくり揺れている。

でも——その目が。


(……まさか、貴女は——)


口が、開けなかった。

確かめるより先に、光が来た。


店の中が、白く——温かく——満ちていく。

おにぎりの匂いがした。炊き立てのご飯の匂い。

手の温もりの匂い。ずっと前から、どこかで嗅いできた匂い。


女の子が、最後にもう一度、桃果に向かって微笑んだ。

それから。

光の中に——溶けるように、消えた。


* * *


桃果は、鳥居の前に立っていた。


見覚えがあった。幽世の都の外れ、大きな鳥居。

石畳が左右に続いていて、提灯の明かりが夜の空気の中で揺れている。

ここで——決戦の前に、皆が集まった場所。


「——おにちゃん!!」


声がして、振り返る。


朔が走ってきた。犬耳がぴんと立って、尻尾が思い切り振れている。

顔が——泣きそうだった。

いつもの軽さが全部飛んで、ただ必死な顔をしていた。


「戻ってきた!本当に戻ってきた!!」

「ただいま、朔くん」

「遅い!!心配させないで!!」


桃果が笑うと、朔が眉をしかめて——それでも尻尾が止まらなかった。


少し遅れて、雪哉が来た。歩調は変わらない。

でも——息が、少しだけ乱れていた。桃果は初めて雪哉の乱れた息を見た。


「……お、鬼灯桃果」

「はい」

「怪我は」

「ないです」

「意識は?」

「あります。全部、思い出しました」


雪哉が、止まった。

桃果をじっと見た。確かめるように。それから——視線を、逸らした。


「……そうか」


それだけだった。でも耳の先が、ひどく白くなっていた。

桃果は、鳥居を振り返った。

大きな鳥居が夜空に立っている。提灯の明かりが揺れている。

幽世の空に、星が多すぎるほどある。


(——お婆ちゃん)


心の中で、呼んだ。


(ありがとう。帰ってきたよ)


風が——一瞬だけ吹いた。


温かい風だった。真夜中なのにどこか懐かしい香りがした。

炊き立てのご飯の匂いに少し似た、手の温もりに少し似た……

うまく言葉にできない香りが。


橙色の提灯が、揺れた。

桃果は、また前を向いた。


「——さあ、行こう!」


泣き笑いで、桃果は言った。


「まだやることが残ってるから!」


朔の耳がぴんと立つ。雪哉の眉が、わずかに動く。


「おにぎり屋、開くんでしょ」


朔が言った。


「うん!」


二人の間に雪哉が割り込んだ。


「なら急ぐぞ。明日の開店時間に遅れたら

規則で遅延の届出が必要になるかもしれない」

「それは勘弁してよ~!」


桃果が笑った。三人で笑った——

雪哉は表情を動かさなかったけれど、耳の先の白さが少しだけ薄くなっていた。

鳥居をくぐる。石畳を歩く。提灯の明かりが道を照らす。


桃果は歩きながら、もう一度だけ振り返った。

鳥居の向こう、夜の空に、橙色の光がぽつりと揺れていた。

提灯ではなかった。もう少し、温かい色。

桃果は、小さく頷くや——前を向いて、歩き出した。

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