第46話 鮭おにぎりと消えかけた足跡
幽世の夜が、静かに明けていった。
ご飯を炊く。塩をつける。形を作る。
手が動く。
桃果はおにぎりを握っていた。
厨房は小さかった。でも使いやすかった。
飯台の木目は手に馴染んでいて、大きな釜から立ち上る湯気の匂いが
どこか懐かしかった。
(——なんで、私はここにいるんだろう)
手が、止まる。
炊き立てのご飯が飯台の上に広がっている。
塩がある。海苔がある。具材が並んでいる。
何種類もの具材が、まるで当然のように揃っていた。
でも——思い出せない。
どうしてここでおにぎりを握っているのか。
この店はいつから始めたのか。昨日は何をしていたのか。
(……おかしい)
でも手だけは知っていた。
米の量。塩の加減。力の込め方。
体が覚えていることを頭だけが知らなかった。
桃果はもう一度、手を動かした。
理由はわからなくても——今、おにぎりは握れる。
「あの、鮭おにぎりを一つください」
小さな声だった。
カウンター越しに顔を上げると、狐の女の子が立っていた。
白い毛並みに、橙色の耳。尻尾がゆらゆらと揺れている。
年の頃は十ほどだろうか。着物の裾が少し長くて床を引きずっていた。
「いらっしゃい。鮭おにぎり、一つね」
桃果は答えて、飯台に手を伸ばした。
その時。
脳裏を——何かが通り過ぎた。
シルエットだった。人の形をした、でも顔のわからない影。
背が高くて、頭の上に何かが生えていて——
(……誰?)
一瞬のことだった。影はすぐに消えた。
桃果の手が、止まっていた。気が付くと、具材入れの中の梅おかかに触れていた。
焼きおかかを注文されたのに、梅おかかに手が伸びていた。
(……なんで)
梅おかかの容器の縁に指が触れた、その瞬間——記憶が、走った。
走ったというより——破片が、降ってきた。
古びた祠。苔の匂い。腐りかけた賽銭箱にガムテープが貼ってある。
アルミホイルに乗せたおにぎり。
誰もいないはずの場所に向かって、桃果は何かを話しかけていた。
(——いつも聞いてくれてありがとう)
声は自分のものだった。でもどこに向かって言っていたのか、わからない。
「……お姉さん?」
狐の女の子の声で、桃果は我に返った。
「ごめん、ぼーっとしてた」
頭の中で現れた猫耳のシルエットに流された所為で梅おかかに伸びていた手を離し、慌てて鮭おにぎりの容器を取る。
手が、米を取る。塩をつける。具材の鮭を中心に置いて——握り始める。
一回、一回。
握るたびに——何かが、流れてきた。
石畳の路地。橙色の提灯。路面電車。天狗が羽を畳んで歩いている。河童が軒先で居眠りをしている。あちこちから聞こえてくる、知らない言葉と知っている言葉が混ざり合った賑やかな声。
(——どこ、これ)
白い毛並みの大きな犬。その背中に乗って、空を飛んでいる。
でも人の姿にもなるその犬は嬉しい時に耳をピンと立てるのを
桃果は見てるのが好きだった。
白い髪の青年。整った顔に最低限しか動かない表情。
でも照れている時には耳の先だけが、時々白くなる。
(——誰、この人たち)
笹の葉に包んだおにぎりを、二人に渡している。
確か好きな具材は……焼きおかか。もう一人は鮭。
尻尾の振りけれそうな音が何処かから聞こえる気がした。
(——なんで覚えてるんだろう。この人たちの、好きな具材)
そう考えているいる間にも……握っていたおにぎりが、完成した。
桃果の手が止まる。握り終えたおにぎりを海苔で包んでカウンターに置く。
「お待たせ!鮭おにぎり、一つ!」
狐の女の子が受け取る。でも——すぐに食べなかった。
じっと、桃果の顔を見ていた。
「……お姉さん」
「うん?」
「泣いてるよ?」
桃果が、固まった。
「え?」
「ほっぺた、濡れてる」




