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第45話 幽世の夜明けに星の灯る場所

霧の奥で荒覇が動かなかった。黒い荒野に風が吹き霧が揺れる。


(鬼灯の娘……お前は——全部、失っても、それでも、差し出すのか)


あの夜と。

今の、この温もりが——

重なった。


荒覇が——一歩、踏み出す。

すこしずつ。少しずつ。霧が引いていった。

霧の奥から、荒覇が——現れた。

黒い着物。乱れた長い髪。額の角。

桃果が、荒覇を見た。でも名前が、出てこなかった。

顔も、知らなかった気がした。

でも——差し出したい人は、この人だとわかった。


「……いただこう」


荒覇が桃果の前に立ち

桃果の目の高さに合わせるようにしゃがむと

手を——伸ばし、だし結びを、受け取った。

笹の葉を、ゆっくりと開く。

穢れが触れていた笹の葉が——光の中で、元に戻っていた。

だし結びが、手のひらの中で白く輝いていた。


荒覇が一口——齧るや、動きが……止まった。

米の甘さ。塩の加減。出汁の香り。

それだけの、おにぎりだった。

具がない。誤魔化しがない。ただ——温かかった。

胸の奥の、ずっと凍っていたところまで。瞬時に届いた。


(この味だ)


荒覇の目が、滲んだ。


(あの夜と——同じ温かさだ)


現世の夜。差し出されたものと。

祠で毎日食べていたものと。

今、この瞬間のものが——

全部、同じ温かさだった。


(鬼灯の者は——ずっと、こうだったのか)


もう一口。

また一口。

光が、荒覇の体に——滲み込んでいった。

穢れが、少しずつ。少しずつ。

剥がれ落ちていく。

黒い霧が、薄くなっていく。


荒覇の手が——震えた。

おにぎりを食べながら震えていた。

鬼灯の始祖が、あの夜に差し出してくれたものを。

毎日祠に供えてくれていたものを。

そして今——名前も思い出せなくなった娘が、

それでも差し出してくれたものを。


「……旨い」


荒覇が、絞り出すように言った。

声が——揺れていた。


「旨い。なぜ——こんなに」


最後の一口を食べた瞬間、光が……爆けた。

荒覇の体から——白い光が溢れた。

穢れが、一気に剥がれていく。黒い霧が、光の中に溶けていく。

黒い荒野が——揺れた。

荒覇の長年の呪いが。孤独が。忘れられた時間が。

全部——光の中に、吸い込まれていく。


荒覇が、空を見上げた。

黒かった空に——星が、一つ。

また一つ。

灯り始めた。

その光の中で、桃果が、地面に座り込み目を閉じていた。


「……娘」


荒覇が呼んだが、答えがなかった。


「鬼灯の——娘」


また、呼んだが桃果は答えなかった。

静かな顔をしていたが苦しそうでは無く穏やかだった。

ただ——薄くなっていた。

輪郭が、霧のように——曖昧になっていた。


「……待て、待て。まだ——消えるな」


桃果が、ゆっくりと目を開け荒覇を見た。


「……誰?」


桃果の問うた声が、遠かったの感じた荒覇が——止まった。


「誰、だっけ」


桃果が、荒覇を見ていた。

見ているのに——どこか遠くを見ているような目だった。


「大事な人、だった気がする。渡したかった人、だった気がする。でも——」


桃果の輪郭が、また薄くなった。


「……名前が、出てこない」


荒覇が、桃果の手を掴んだが冷たかった。

「消えるな」

荒覇が言った。

「消えるな。お前は——消えてはいけない」

「どうして……?」

桃果が、遠い目で聞いた。

荒覇が——答えられなかった。

何百年もの時間の中で人間に忘れられ、縁を切られ……

孤独の中で堕ちていった時間の中で。

誰かに「消えるな」と言えたのは——いつぶりだったのか。


「お前の仲間が——待っている」

荒覇が言った。声が、揺れていた。

「お前が戻るのを——待っている」

桃果が、荒覇を見た。

「……仲間?」

「ああ」

「いるの?」

「いる。たくさん——いる」

桃果の目が、少し——動いた。

「犬耳の人がいた、気がする」

「……ああ。いる」

「白い髪の、真面目な人も」

「いる」

「角のある、怖そうな人も」

荒覇が——少し、止まった。

「……いる」

「猫の……」

桃果の目が、また遠くなりかけた。

荒覇が、桃果の手を強く握った。


「消えるな」

もう一度言った。

「お前がいなくなれば——あの者たちが、悲しむ」

「……悲しむ?」

「ああ」

「わたしのことを?」

「当たり前だ」

桃果が、荒覇を見た。

荒覇の目が——赤かった。

でも今は。怒りでも、冷たさでもなかった。

「……あなたも?」

桃果が聞いた。

「……ああ」

絞り出すように荒覇は言った。

「俺も——悲しむ」

桃果の目が、滲むが輪郭が——また少し、薄くなった。

でも。

桃果が——笑った。小さく。でも確かに。

「よかった……」

「よかった、ではない。消えるな——!」

「おにぎり、受け取ってくれたから」

桃果の声が、遠くなっていく。

「渡せたから。よかった」

「桃果——!」

荒覇が呼んだ。

その声に——荒覇自身が、止まった。

(今、なんと呼んだ?)

名前を。

知らなかったはずの名前を。

いつの間にか——知っていた。


「桃果」


もう一度、呼んだ。

もう一度、呼んだ。

声が——届かなかった。

桃果の輪郭が、光に溶けていく。笑顔だけが、最後まで残っていた。


「待て——まだ、話が」


光が、眩しくなった。

荒覇が目を細めた。

桃果の手が——荒覇の手の中で、消えた。


* * *


霧の壁の外側。

朔が、荒覇の穢れが薄くなっていくのを感じていた。


「……変わった。気配が——急速に荒覇の穢れが変わってる!」

雪哉が天廻を見た。


「桃果が——届けたのか」


天廻が、霧の壁を見て静かに零したその瞬間。

霧の壁が——崩れた。内側から爆けるように白い光が溢れ出した。

黒い荒野が、光に包まれ朔が目を細めた。雪哉が腕で顔を守った。

天廻が——光の中心を、まっすぐ見ていた。

光が引き、黒い荒野が——消えていた。

幽世の都の外れだった。廃社の石畳が見えた。

割れていた石が、少し——元に戻りかけていた。

朽ちた鳥居がまだそこにあったが、でも霧が——薄かった。

荒覇が、石畳の上に立って自分の掌を……そして桃果がいた場所を見ていた。


空が——開けた。

星が、見えた。幽世の深い藍色に星が——びっしりと散らばっていた。

いつもの幽世の夜空だった。

荒覇の姿を見て朔の耳が、ぴんと立った。

「おにちゃん……桃果は?」

天廻が、荒覇を見たがその目は——赤かった。

でも今は。かつて天廻が知っていた時の、荒覇の表情と——少し、似ていた。


「……消えた」


荒覇が言った。声が、低かった。

「消えた。俺が——」

「消えてはいない」

天廻が静かに、でも自分でも確かめるかの様に言葉を零した。

「消えてはいない。ただ——遠くなっただけだ」

荒覇が天廻を見た。

「……天廻」

「久しぶりだな」

「……ああ」


二柱が、しばらく——黙って向き合っていた。

百年以上の時間が、その沈黙の中にあった。

朔が、石畳を見るや桃果がいた場所に何かが残っていた。

小さな光の粒が、石畳の上に散らばっていた。だし結びの、光の残滓だった。

朔がしゃがむと、掌に光の粒が一つ——乗った。


「……温かい」

朔が小さく呟く。雪哉が隣に来て光の粒を見ていた。

「おにちゃんの……気だ」

静かに言った。

「消えていない。ここに——残ってる」

荒覇が、その光を見て手を伸ばした。

でも——触れなかった。触れる前に、手を引いた。

「……俺が」

低く、言った。

「俺が、食べたから。消えた」

「違う」

天廻が言った。

「桃果が——選んだ。記憶を失っても、誰かに渡したいという気持ちだけを持って。それが桃果の選択だ」


荒覇が、目を伏せた。

「……旨かった」

ぽつりと言った。

誰に言うでもなく。

「今まで——食べたものの中で。一番、旨かった」

朔の目が、滲んだ。

「……そうですか」

声が、震えていた。

「おにちゃんが聞いたら、喜んだと思います」

荒覇が、朔を見た。

「……必ず、戻るのか」

「戻ります」

朔が言った。

迷いがなかった。

「絶対に、戻ります。おにちゃんはそういう人です」

荒覇が空を見上げるや……星が多かった。

ずっと——戦いの間見えなかった星空。

荒覇の穢れが晴れていく中で。一つずつ、灯っていた。

「……そうか」

荒覇が、静かに言った。


「ならば——待とう」


その声の奥に。長い長い孤独の後で、初めて——何かが宿っていた。


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