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第44話 霧の向こうへ届いたもの

霧の壁の内側。

だし結びが桃果の手の中で光っていたが、荒覇の幻は揺れていた。


(届いてる)


桃果は、だし結びを両手で包んだ。


(もう少し。もう少しだけ——)


もふが、桃果の肩の上で言った。


「桃果。外側の気が——変わった」

「変わった?」

「朔と雪哉の印が、今まで届かなかったのに——届いてる。

荒覇の動きが、止まってるんだ」


桃果が差し出した……だし結びの光が——さらに強くなった。


「もふ」

「なんだ」

「ありがとう」


もふが、少し黙った。尻尾が、ゆっくりと揺れた。


「……どういたしまして」


ひだる神が……もふが初めて素直に言った。

桃果が、霧の奥を見るや荒覇の気配が——そこにあった。

幻の中の霧の向こうに。


「荒覇さん」

桃果が、呼んだ。

「受け取って!」


だし結びを差し出すや黒い霧が大きく——揺れた。


「鬼灯の娘……やはり其方の力は脅威だ。気持ち一つで縁が結ばれる。

其方の力が増え強くなる結びの力……その力は我が力になるのが相応しい……」

「――っ!」


荒覇はおにぎりを受け取らないまま、

桃果に直接殴りつけるかの様に黒い穢れが向けられた。

穢れの嵐が桃果に襲い掛かり桃果の身体は闇に溶けるかのように

黒く塗りつぶされてゆく。

桃果が持つおにぎりも穢れて輝きが失いそうになるが、負けずに差し出す。


「負けるもんか……皆と約束したんだ。このおにぎりを届けるって」

「……っ」


桃果が身体を堪えるでも体が重かった。荒覇の穢れが体に絡みついて来る。

呼吸するたびに、肺の奥まで冷気が入ってくる。

だし結びの光が、次第に弱くなっていくのを桃果は感じた。

笹の葉が、黒く染まっていく。


(違う……)

桃果が、手を伸ばした。

(まだだ……)


笹の葉に触れていた穢れが指に絡みついた。

氷のように冷たく痛かった。

でも——手を引かずに、桃果はだし結びを、掴みなおした。

その瞬間。

まるで薄い紙が風に飛ばされる様な……音もなく静かに何かが剥がれた。


(……あれ)


学校の教室が——消えた。

窓際の席。昼食の時間。

「おにちゃん今日何入れてきたの」と声をかけてくれた友達の顔が。

その声が。その笑い声が——

霧の中に、溶けていった。


(待って)


桃果が思った。でも手は止めなかった。


(待って——あの子の名前)


出てこなかった。また、何かが剥がれた。

実家の店の暖簾が——消えた。

神社の参道。帰り道に必ずくぐっていたあの暖簾。

布の色が。家紋の位置が。風に揺れる感触が——

全部、霧の中に。


(嫌だ……っ)


でも手は——離さなかった。

だし結びを、胸に抱えたまま。また、剥がれた。

お母さんの顔が——消えた。

輪郭だけが残った。声は、まだ聞こえる気がした。

でも顔が。笑い方が。エプロンの色が——


(お母さん……っ!)

また、剥がれた。今度はお父さんの顔も——消えた。


「桃果、仕込みの時間だぞ」という声だけが遠くに残った。

でも声も、少しずつ薄くなっていく。


(誰だっけ)


自分が何を失っているのか、わからなくなってきた。

霧が、また来た。今度は、もっと大きかった。

朔の顔が——滲んだ。


(待って。朔くんは——犬耳で、よく笑って——何の妖怪、だっけ)


雪哉の顔が——霧がかかった。


(雪哉さんは——白い髪で、印鑑を持って——名前、なんて言ったっけ)


茨が——

狛が――


(誰だっけ。誰、だっけ)


桃果の手が、震えた。


(わたしは)

(わたしは——何を)

(なんで、ここにいるんだっけ)


霧が、桃果を包んでいた全てが、霧の中にあった。

でも。

手の中のだし結びが——温かかった。

霧の中でも記憶が剥がれ落ちても。温かかった。


(これを)

(これを——誰かに)

(誰に、差し出したかったんだっけ)


わからなかった。名前が出てこなかった。顔が出てこなかった。

でも——差し出したい、という気持ちだけが霧の中で一つだけ残っていた。

桃果が立ち上がった。

足が震えていたが何処に向かえばいいのかさえ、分からなかった。

自分が何処にいるのかも、分からなかった。

でも——だし結びを、差し出したかった。それだけが、残っていた。


「……なぜ」


霧の奥から、声がした。

低い声だった。重い声だった。でも——揺れていた。


「なぜ、立つ」


桃果が、声のした方を向くや霧の奥に、気配があった。


「お前の記憶は——消えているはずだ。何のために戦っているかも、

誰のために来たかも——わからなくなっているはずだ」

「……うん。わからない」

「ならば——なぜ」


桃果が、だし結びを見た。

光が——まだ、滲んでいた。弱かった。でも。消えていなかった。


「わからないけど」


桃果が言った。


「これを——渡したい人が、いる気がする」


霧が、止まった。


「名前も、顔も思い出せない。でもここに来たのは……渡したかったから」


声が、震えていた。


「だから——受け取って」


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